久しぶりに実家に帰った一花はリビングでくつろいでテレビを見ていた。桐谷淳子がコーヒーを淹れてソファに座り、手に持ったコーヒーカップを口に運びながら一花の顔を覗き込んだ。
「それで、今回はどんな『お願い』よ」
「やっぱりわかるぅ?」スマートフォンから顔を上げて目を向けた。
「だって、一花が帰ってくるときは必ず何かのおねだりでしょ」
淳子がコーヒーを口に運んで笑った。
「お父さんは?」と訊くと「そろそろ事務所から戻ってくるころよ」と淳子が答えた。
時計は午後六時を指している。里沙の部屋からまっすぐ実家に来たのは、すぐにでも自分の奇妙な体験を裕也に相談したかったからだ。
「今日は? 泊っていくの?」
淳子が席を立ってキッチンへ向かいながら振り向いた。
「どうしようかな」
「でも、夕飯ぐらいは一緒に食べるでしょ?」
「うん」
一花は、頭の中で昼間起こったことを整理していた。突然目の前に現れた映像が気になる。視界が薄い緑色に覆われたときには、いいようのない恐怖を感じた。
──なぜ、あんな光景が見えたんだろう? 体調は別に悪くないのに……。
一花の手のひらでスマートフォンが震えた。
「あれ? 里沙?」
端末を耳に当てながらリビングを出て、慣れ親しんだ自分の部屋に入った。
部屋の隅には学生時代の机が少しのほこりを伴って鎮座している。
「一花……」
里沙の声は上ずっていた。
「里沙! どうしたの? 何かあった?」
一花はデスクの前の椅子に座って肘をついた。里沙の不安な表情を思い浮かべる。
「……ごめんね。急に電話して……」
里沙は母親から聞いた話を説明した。春樹だけではなく、父親も行方不明になっていることや、自分は警察に保護された子どもで奈津美が実母でないこと。指輪やキーホルダーの木片も保護されたときに持っていたことなど……。
里沙は話しながら泣き出した。
「私は……捨て子だったの……」
突然の里沙の話がうまく呑み込めず、どう答えていいのかわからなかい。
「兄さんも知ってたらしいの……私だけ知らなかった。お父さんが他の女の人に産ませた子かも知れない……」
一花は一度スマートフォンを耳から離して考えた。
「里沙……。それはないわよ。もし里沙が、その、お父さんと他の女との子なら、わざわざ自分の指輪を里沙につけておかないわ」慎重に言葉を選んだ。スマートフォンから、泣きながら「うん、うん」と言う声が聞こえてくる。
「保護されたって言ったけど……。なぜ一ノ瀬の家に預けられたの? 普通なら施設に入れると思うけど」と、努めて冷静な声で対応する。
「うん。お父さんの免許証があったらしいの。それで母さんのところに連絡が来て……」
里沙の声が少し聞き取りやすくなった。
「ほらね! あなたは浮気や不倫が原因で産まれた子じゃないわ! 里沙のお父さんは、里沙を通じて自分の存在を知らせたのよ……おばさんに。何か事情があるんだわ!」
「──うん」消えそうな声が耳に入ってきた。
自分の思いが里沙に伝わったのか一抹の不安はあったが、かまわず別の話題にすり替えてスマートフォンを持ち替える。
「ねえ、里沙。平取って言ったよね? 里沙が保護された場所って」
「うん。お母さんがそう言ってた……」
「平取町なのよ『二風谷』があるとこ!」
里沙は、慌てて「北海道の歴史」の本をテーブルに置いて開いた。角が織り込まれている「二風谷」のページには小さく住所が書き込まれている。
『北海道沙流郡平取町二風谷』
「あった! ほんとだ。平取町だ!」
里沙の声に少し張りが出てきた。
「ね! さっきスマホで見てたらそう書いてあったの」
里沙はページの内容を改めて読んで確認した。
「北海道に行くもう一つの目的ができたわね」
玄関が開く音がして桐谷裕也が帰って来た。
「ただいまあ」
自分の部屋から出てきた一花が、裕也を迎え軽く手を上げた。
「おつかれ」
「おう、一花。来てたのか」
裕也はそのまま書斎に入り肩にかけた鞄を下ろした。
鞄から何枚かの書類を取りだしてデスクの上に置き椅子に座る。一週間分の面談記録にひととおり目を通した。裕也は手際よく着替えを済ませ、タバコとライターを持ってリビングに入った。
「お父さん、コーヒー?」
キッチンから声をかける淳子に「ああ、頼む」と返事をしてソファに座る。
一花は、対面するソファに座ってスマートフォンを眺めはじめた。
「今日はどうした? 里沙さんの件か?」
裕也がひと声かけてタバコに火をつける。
「うん。今日里沙の家に行ってきたんだけど、いろいろなことがあってね……正直戸惑ってる。さっきも里沙から電話あったし……」
一花はスマートフォンを脇に置き、少し上向き加減で不安な表情を裕也に見せた。
「何かあったのか?」
「うん。里沙の部屋で話してるときにね。変なものが見えたのよ」
「変なもの?」
「そう、突然。驚いた」
一花は、身振り手振りを交えて、自分の身に起こった不思議な体験を話し始めた。
里沙の部屋で視界が薄い緑色で覆われたこと、暖かい光に包まれた美しい女の顔や茅葺屋根の古い家の中で話をする人々が見えたことなど、驚きの連続だったと目を丸くする。
「かなり古い時代の家だったの。女の人は頭に左右対称の模様が入った鉢巻をしてたよ」
「目が疲れてたんじゃないのか?」
「違うよ。疲れてなんかいなかったもん」と言いながら頬を膨らませる。
裕也はコーヒーカップを手に取って一花の顔を見た。カウンセリングで見えた過去視の内容と酷似しているのが気になる。タバコの火を灰皿でもみ消して、一花にも「自分と同じ過去視の現象が現れたのかもしれない」と考えた。
その瞬間は決して気持ちの良いものではない。時には頭痛や吐き気などの体の変調を伴うことがある。
「最初に目の前が緑色になったときはびっくりしたぁ。目の前の里沙の顔も緑色の薄いスクリーンの中に見えた……」
「緑色ねえ」裕也は腕を組みなおした。
「うん。その後の景色が見えたときにはね、頭の中に閃めきみたいなのがあったよ」
いつになく真剣な表情だが、話し方はいつもと変わらない。
「それって、風景が次々に入れ替わって見えたのか?」
「っていうか……。スマホで見る動画みたいだったかなぁ」と人差し指をあごにつけて天井を見上げる。
「気持ち悪くなったり、頭が痛くなったりしなかったか?」
「ううん。なんか暖かくて優しい雰囲気でね、ちっとも気持ち悪くなかったよ。その動画が目の前にいる里沙の顔に重なるのが少しおかしかった」ふっと笑顔を見せる。
裕也の過去視とは違う部分があるが、興味深い内容だった。
「初めて見る景色だったのか? 今まで見てきたものじゃなくて――」
裕也が少し心配そうな顔を一花に向けた。
「うん。初めて」
「左右対称の模様って、アイヌ文様みたいだな。ほら、家族旅行で見ただろう」
「どこだっけな、阿寒湖? みんなでアイヌ衣装を着て記念写真撮ったよね、お土産屋さんもいっぱいあった」
一花は懐かしそうな笑顔で、自分のスマートフォンに保存されている写真を検索した。
「あ、あった! そうそうこんな模様だった」
阿寒湖畔の売店でアイヌ衣装を着た三人が写っている。一花と淳子が頭に巻いた鉢巻の模様にアイヌ文様が入っていた。
「さっき、光の中に女の顔が見えたって言ったな?」
「そうよ。きれいな人だったわぁ……。こう少し丸い顔でね」
一花が両手で顔の形を再現しようとしている。
「髪はロングでストレート。金髪だったかなぁ。光の中だったからそう見えたのかも……切れ長の目でね、鼻筋通ってた……少し目を伏せて微笑んでたのよぅ」
うっとりした顔で宙を見ている一花が裕也を見ながら「それからね、声が聞こえた」と笑顔で言った。
「声?」
「そう。何を言ってるのかは聴き取れなかったんだけど……。その光の中の美女から話しかけられたような気がしたよ」
裕也はカウンセリングで里沙が話した「幻聴のような声」のことを思い出した。
「また怖い話してるの?」
淳子が配膳をしながら笑顔で二人に声をかけた。
「怖いというより、不思議な現象だな」
裕也が淳子の方に目を向ける。
「私にもそんな奇跡みたいなこと起こらないかしらね……。突然、札束が目の前に現れるとか、ねえ」
淳子は一花の方を見て笑った。
「札束……。あたしもほしい!」
夕食後に家族でくつろいでいるとき、一花は父と母の顔を交互に見た。
「実はね、北海道に行こうと思ってて……」
裕也は食後のタバコを吸いながら一花を見る。
「北海道? さっきの話の件でか?」
「うん。里沙が言い出したの。春樹のことも心配だし……。光の中の女の人にも呼ばれてるような気がして──」
裕也は「みんなで行くか」と淳子の方を見たが、一花が制した。
「今回はね、里沙と行くの」
一花は、里沙と話したことを裕也に説明する。
「春樹だけじゃなくてね、里沙のお父さんも行方不明になってたのよ」
「お父さん?」
カウンセリングでは聞いてない話だ。
「うん。だからね、今回の北海道行きは、春樹だけじゃなくて里沙のお父さんのことも絡んでるの、いろいろ調べる必要があるのよ」と言いながら裕也の顔を見る。
「里沙の部屋で、春樹が読んでた本も見たよ。アイヌのこともいっぱい書いてあった」
裕也は、カウンセリングで見たアイヌ文様のキーホルダーを思い出した。
「本の中には『二風谷ダム』のことが書かれてたわ」
──二風谷?
何度も北海道に旅行している裕也でも「二風谷」という地名に覚えはない。
「そこには今もアイヌの人たちが大勢いるらしいのよね。二風谷ダムのページには春樹の筆跡で書き込みもあったの。きっと春樹の失踪と関係があるわ」
一花の目は真剣だった。裕也は今まで娘のこんな顔を見たことがない。
──この子も成長したもんだ。
「それと……さっき里沙から電話があって……」とそこまで話して黙り込んだ。
「電話がどうしたの?」
淳子が食後のお茶を出しながら一花の顔を見る。
「あ、いや……何でもない」
里沙が自分の出生について悩んでいることは口にできなかった。
「わかった。気をつけて行ってくるんだぞ」
裕也の言葉に一花の顔色が変わった。
「それでねぇ」
いつもの甘えた声だ、一花がこの声を出すときは決まってその後に「おねだり」がやって来る。
「必要なものがあるのよねぇ」
──きたきた。
「なんだ?」裕也がにやりと笑う。
「札束」一花はきっぱりとそう言い裕也を見て笑った。
「へえ、札束ねぇ」淳子が口を挟む。
「なんだ、やっぱりそういうことか」
裕也の顔にも笑顔が浮かんだ。
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