イルファ

時空を超えた奇跡
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複視眼

公開日時: 2021年10月12日(火) 15:49
文字数:3,905

一花いちかは下を向いて煩悶はんもんしたが、やがて意を決したかのように顔を上げた。

 

「あのね、里沙……。今まで春樹に止められてて黙ってたんだけど……。春樹とは北海道に行く前に一度会って話をしたの」

 

一花の考える男女の付き合いは、いつも一緒にいたいといったたぐいのものではない。

 

春樹との付き合いも必要な時にだけ会うというあっさりとした関係で、その日の出会いも数週間ぶりだった。

 

一花はテーブルにスムージーを置いた。どう話を切り出そうか迷っている。

 

「春樹も……おばさんから訊いたって言ってたけど……。自分がアイヌの血を引いてるって……」

 

「えっ! じゃ私も……」と言って里沙が目を見張る。カウンセリングで訊いたアイヌとの関連が頭に浮かんだ。

 

「それでね……。北海道へ行くのは……行方不明になった父親の消息を探る意味もあるって――」

 

「行方不明? 何言ってんの一花、父さんは事故で死んだのよ」

 

苦笑いで返そうとしたが、自分を見つめる一花の眼差しを見て困惑した表情に変わる。

 

「じゃあ……父さんは死んだんじゃなかったっていうの?」

 

一花が黙って里沙を見つめる。里沙は、自分の知らない家族のことを他人から聞かされて嫉妬に似たもどかしさを感じた。

 

「父さんも兄さんのように行方不明になったってこと? お母さんはどうして私に黙ってたんだろう? 大事なことなのに……」

 

里沙が自分に言い聞かせるようにつぶやいて顔を上げた。表情には戸惑いと怒りが同居している。

 

「兄さんも話してくれなかったのよ! なんで? なんでみんな私に隠しているの!」

 

 自分だけが家族から仲間外れにされたような気がして泣きそうになる。唇をんだまま一花を見た。

 

「里沙……何か事情があるのよ。春樹だって……よほどのことがない限り隠し事をするような人じゃないよ」

 

「うん……そうだね――」

 

一花は目の前で静かになった里沙の顔をぼんやりとふくがんで眺めていた。考え事をするときの癖だ。焦点がずれて目の前の顔が二重に見える。春樹や父親の失踪しっそう……家族との距離感など、里沙の悩みの深さを改めて感じていた。

 

そのとき「あっ」と一花が大きな声で叫んだ。

 

 視界に変化が起きている。

目の前が半透明の緑色の膜で埋め尽くされ、暖かい光に包まれる。

 

胸の鼓動が大きくなった。

 

 

緑色の光の中に美しい女の顔が浮かんできた。

 

こちらを見て微笑んでいる。

 

 

里沙の顔も見えているので、女の顔と里沙の顔が重なった。

 

 一花は思わず右手で目をこすり何度も瞬きをする。

 

 

昔の集落に暮らしている男女の姿が浮かんできた。

 

茅葺かやぶき屋根の家が見える。

 

 

──何が起きてるの? あたし! どうにかなってしまったの?

 

 

四人で囲炉裏いろりを囲んで食事をしている風景が見えた。

 

男性は頭に何かの植物で作られたと思われる丸い環状の冠をかぶっている。

 

女性は頭にシンメトリー模様の鉢巻を巻いていた。

 

 

声を出そうとするが身体が動かない。

 

 

目をしっかり閉じてまぶたに力を入れる。

 

少したって深呼吸をしながら徐々に目を開けると、薄い緑色の膜は消えていた。

 

目の前には里沙の顔だけが見えている。

 

一花は呆然としていた。大きく見開いた目の中で瞳が揺れている。

 

「どうしたの! 何が起こったのよ!」と、里沙に背中を叩かれた一花は「あっ」と声を出して我に返った。

 

「なんか……突然目がかすんでね……変なものが見えた」

 

「変なもの?」何度も「何か変」とつぶやいた。身体が少し汗ばんでいる。

 

「あのね……。古い家の中で暮らす人の映像が見えたの……。突然だったからびっくりした……あれはアイヌの人達ね」

「アイヌ?」

 

「うん。それと光に包まれた女性の顔……誰なんだろう? とてもきれいだった」

 

 一花は、自分の目が捉えた美しい顔を思い浮かべた。なぜか心が揺さぶられるような感動が込み上げてきて思わず両手で顔をおおいそのまま嗚咽おえつした。ようやく顔を上げて里沙を見た目には涙が浮かんでいる。

 

里沙の手がそっと一花の背中に伸びてゆっくりと上下した。

 

「――意味もなく泣けてきたのよ……。映画とか見て感動することってあるでしょ? 顔が熱くなって込み上げてくる……そんな感じかな――」

 

「涙流してるのって初めて見たような気がする。めったに人前で泣かないよね……」

「うん。でも、さっきは我慢できなかった」そばに会ったティッシュケースから一枚抜き取り目のあたりを拭っている。

 

「疲れてるんじゃないの?」

「そうかなぁ……」

 

 二人はしばらく黙り込んだ。部屋中に秒を刻む時計の音が響いている。

 

「一花が見たのも、アイヌの世界でしょ?」

「そうだよ」

 

「私がカウンセリングで聞いたのもアイヌだったし……。何か関係があるのかな?」

 

「そうね。あるのかもね……。でも、里沙みたいに春樹の気配を感じるっていうのと少し違う気がする」

 

「そう──」

 

 里沙は春樹を心配するあまり身の周りに起こることすべてを「春樹の失踪しっそう」に関連づけようとしていた。

 

 少し間をおいて里沙が「ねえ、北海道へ行ってみない?」と声をかけた。

「北海道?」

 

 一花は少し考えたが、この場所で心配するより現地に行った方が気持ちも休まるだろうと思い直した。

 

「そうね。じゃ、二人で行ってみようか……」と里沙に笑顔を向けた。

 

そのとき、突然里沙が震え始めた。肩が小刻みに振動している。

 

伏せている顔色は真っ青で唇も紫色に震えていた。

 

「ちょっと! 里沙……」初めて見る里沙の変化に驚いて息を呑む。

 

両手が肩の震えを抑えるように胸の前で交差して自分の身体を抱きしめている。

 

上下の歯がガチガチと音を立てる。目はきつく閉じていた。

 

すると里沙のまぶたの裏に光に包まれた美しい女性の顔が現れた。

 

――あっ!

 震えが徐々に治まってくると、里沙は目を開けて一花を見た。初めて見た女の強烈な印象が残像となって焼きついている。

 

「私も今、光る女の顔を見たわ」

 テーブルに置かれた里沙の手は、まだかすかに震えている。

 

「里沙も?」

「うん、なんかすごい美人だった」

 一花が、机の上にあるメモ紙とペンを取ってイラストを描き始めた。

 

「こんな感じかなあ」

 

 器用に動く指先が的確に「光に包まれた美しい女」をメモ用紙に再現した。

里沙は「そうそうそんな感じ」と一花の手元を追っている。

 

「ねえ、のどが渇かない? 冷たいもの持ってくるわ」そう言って立ち上がると、里沙は空のスムージーを手に取って階段を下りていった。

 

一人になった一花は、腰のあたりに手をついて上半身を支えるようにすると、天井を見上げて「ふう」とため息をつく。春樹と話した内容を里沙に伝えて良かったのか、少し後悔もしていた。

 

しばらくして里沙が戻ってきた。麦茶の入った透明のボトルとコップを二つトレイに乗せて持っている。テーブルに置くと麦茶をついで渡した。

 

「サンキュ」と言って一気に飲み干す。

「ねえ、里沙。春樹が北海道へ行く前に読んでた本とかないの? あの人のことだから事前に相当調べたはずよ」

 

 里沙は「ああ、それなら」と答えてコップをテーブルに置くと、部屋を出て隣の春樹が使っていた部屋に入った。

 

昔の状態を保っている部屋の灯りをつけて、書棚を物色し一冊の本を持ち出す。

 

里沙がA4サイズの分厚い本を抱えて部屋に戻ってきた。

 

表紙には「北海道の歴史」と表示されている。

 

「さすが里沙ね。こんな難しい本読んでるなんて、あたしには無理」

「ううん、これ兄さんが読んでた本よ」

 

里沙は「くすっ」と笑いながら本の表紙を開く。一花も里沙の横からのぞき込んだ。

至るところに赤ペンやラインマーカーが入っている。

 

「ずっと兄さんの部屋にあったの。一花の言ったとおり、いろいろと調べてたみたいね」

 

 ページをめくりながら里沙が懐かしそうな顔をする。

 

「でしょう。あの人昔から興味を持つと、他のことは見向きもしないで没頭するとこあったもん」 

 

 一花はページをめくる里沙と本を交互に見ていた。

 

里沙が手を止めた。

 

アイヌの歴史が綴られているページの角が織り込まれている。春樹のものと思われる書き込みもあった。

 

そのページには、北海道に流れる沙流さるがわと、二風にぶたにダム建設の経緯が書かれている。

 

「ふうん『二風谷』かぁ。書き込みが多いから、兄さん、かなり力を入れてたみたい」

 

そう話しながら、目でページの文字を追った。

 

「そうね。北海道に行ったら……目指すは『二風谷』だね!」

 

 一花がそう言いながら里沙の顔を見た。

 

 里沙はページをめくりながら「いろいろあったんだね。アイヌって……」とつぶやいた。

そのページには江戸時代末期から続くアイヌ民族への迫害の様子が書かれていた。

 

「そうね。前に行ったときは風景ばかり見てた」と言って、一花は二年前の家族旅行を思い出していた。雄大な自然と豊かな食文化だけが印象に残っている。

 

「昔、兄さんが言ってたわ『俺たち北海道で暮らしていたんだよ』って……。私には、北海道の記憶がないの。お母さんもそのころの話をしてくれない……」

 

 里沙は、左ひじをついて手のひらに自分の頬を乗せた。「アイヌ」という文字がやたらと目に入る。

 

 しばらく二人で話していると夕方になって外も暗くなってきた。一花が立ち上がって帰り支度を始める。

 

「そろそろ帰るよ。今日は実家に行くことになってるし……。お父さんに北海道のことをいろいろ訊いてみる。お父さんけっこう詳しいのよ」

 

 二人が玄関の前まで来たとき、里沙の母、一ノ瀬奈津美が外出から帰ってきた。

 

「あ、おばさん。お邪魔してました――」

「――あら一花ちゃん。来てたのね」

 

一花は奈津美の顔色がそこまで悪くないことに少し安心した。

 

玄関を出た一花が振り向いた。

「じゃあね里沙……。軍資金ぐんしきんが必要よ。あたしは父親に頼んでみる」

 

「わかった。じゃあ、来週にでも日程決めましょ」

 

里沙が手を振った。

 

「軍資金? 日程? 何のこと?」奈津美が不思議そうな顔をした。

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