日曜日、一花はフルーツミックスのスムージーとシュークリームを手土産に里沙の家のチャイムを押した。ガラスがはめ込まれたドアに自分の姿が反射して映る。一花はそれを覗き込んで短く切りそろえた前髪をいじった。ショートカットの髪に手櫛を入れる。
次に上半身を映すと「――もうちょっと痩せないとなぁ……」と唇を尖らせた。
ドアが開いた。
「やあ!」
ドアノブを持つ里沙に、一花が明るい表情で片手をあげて敬礼のそぶりをする。
「いらっしゃい」
里沙がスリッパをはいたまま玄関に招き入れた。
一花は里沙の元気な声を聞いて安心した。手土産の紙袋を顔の位置まで持ち上げる。
「はい。お土産」
「わあ、ありがとう!」
二人は二階の里沙の部屋に入った。手土産をテーブルに置いて脇のクッションに並んで座る。
「おばさんは?」
「うん。近所の寄り合いとかで今ちょっと出てる」
「ふうん、じゃあ、おばさんも里沙も落ち着いたのね?」
数日前に一花が電話を受けたときは里沙も母親もパニック状態だった。
電話口で母親と言い争う里沙の声は、冷静な里沙からは考えられないヒステリックな雰囲気だった。
「里沙、相変わらず殺風景ね。女の子の部屋とは思えない」と部屋を見回して笑う。
学生時代から使っている勉強机とベッドがほとんどの領域を占め、ぬいぐるみや装飾品の類いは置いていない。
「一花のとこだって同じじゃない。部屋全体が仕事場って感じだし――」
里沙が笑いながら受け取ったシュークリームの入った箱を開ける。お互いにもう少し女の子らしくしなきゃ、とでも言わんばかりの表情だ。
「ところで里沙、新しい職場はどう? またいじめられてない?」
「うん、大丈夫。安心して」
里沙は今の弁護士事務所で働き始めるまで、小さな会社の経理事務をしていた。
頭脳明晰で美貌も持ち合わせている里沙は、職場の上司や先輩の男子社員に人気があったが、それを良く思わない年上の女子社員たちは陰湿な手段で里沙をいじめ始めた。
ロッカールームから衣服や金銭が盗まれたり、でたらめな内容をSNSで拡散されたりの毎日が里沙を徐々に追いつめた。
ある日、身に覚えのない経理上の重大ミスで里沙の責任が問われた。それまで仲良くしていた社員も一斉に疑いの視線を向け、里沙は自分の居場所を失くした。
耐え切れなくなった里沙は自ら会社を辞めてしまった。
「あのころは嫌だったけど……。結局私が弱かったのよ」
「そんなことないわよ! 同性の嫉妬はみっともないわぁ!」と半分笑いながら里沙の顔を見た。明るい目も笑っている。
「でも、高校時代よりはましよ。あのときは一花が守ってくれたもんね」
「そうそう、あたしが盾になってやったわ」
一花と里沙の最初の出会いは二人が高校に入った春のこと。当時から里沙は天才少女と噂されていた。常にクラストップの成績だったので周囲の生徒からは煙たがれ、教師たちはこぞって里沙を特別扱いし授業中でも露骨に贔屓した。
やがてクラスで孤立した里沙は、いつもひとりで窓際の席に座って校庭を眺めていた。
男子生徒たちは、堀が深く眉の濃い里沙を「狼女」と言ってからかい始めた。
そんなとき一花と出会う。一花は周囲のことなど気にせず噂や醜聞にも無頓着で、一匹オオカミのように孤独さえ楽しんでしまうところがある。二人が仲良くなるのにあまり時間はかからなかった。
二人は休み時間になると決まって里沙の席の前で談笑していた。
男子生徒がからかいに来ると一花が鋭い目線で睨みつけ追い払った。
「あいつよ、あいつ! 林っていったかな! 中心になって里沙をからかってた」
「よく覚えてるわね」
「覚えてるよぅ! 名前が『公平』ってね。いつも里沙を差別してさ、やってること全然不公平だったやん!」
一花は大きな声で笑いながら自分が持ってきたシュークリームを手に取った。
「あのころはノーメイクだったでしょ? 今はメイクも覚えて眉もメンテしてるよ……。これでも私、モテるのよぉ」
「もともと、顔はエキゾチックでスタイルも抜群だしね。まったく神様は不公平だよ」
一花はテーブルの上に置かれていた手鏡に自分の顔を映して頬を膨らませる。
ひとしきり世間話をしたあと、一花は真剣な顔を里沙に向けた。
「ところで、どうだったの? 行ったんでしょ? カウンセリング」
探るような一花の視線に、里沙が柔らかい表情で対応する。
「うん。いろいろ相談に乗ってくれてずいぶん気が楽になったわ、さすがだね、一花のお父さん」
里沙にそう言われて一花の頬が少しピンク色になった。身内が褒められるのは嬉しい。
「家にいるときはただの老けたオヤジなんだけどね……。で? あんまり詳しく訊かなかったけどさ、春樹がどうしたの?」
里沙が少し目を伏せた。
「実はね……。兄さんが……北海道で消息不明になって……もう一か月になるの――」
「えっ!」
少々の悩みなら笑いながら元気づける自信はあったが、失踪事件となるとそうはいかない。しかもいなくなったのは春樹だ。
里沙は、最後の連絡が今年の初めだったことや、卒論で評価されて喜んでいたことなど、冷静に少し笑みを交えて話した。
春樹は大学の一般課程を終了して大学院に進み今年すべての課程を終えて福岡に帰ってくる予定だった。
一花は里沙に「あんたは偉いね」と言った。兄の失踪という一大事でさえ自分の中で消化して冷静に判断できている。
「その件であたしの父さんは里沙に何か言ってた?」
裕也のカウンセリング能力を理解している一花は、里沙に適切なアドバイスをしてくれると信じていた。
「うん。いろんな話をして私を元気づけてくれたよ」
「少しは役に立ったみたいね」
「少しどころじゃないわよ……でも、本当に最近おかしなことばかり起こる――」
里沙はテーブルに肘をついて両手の上に自分のあごを乗せた。
「おかしなことって?」
「――突然震えだすの。すごい寒気を感じちゃって……」
「震える? それってプールとか海に入ったときのあの感じ? それとも……」
「うん。なんかね、氷水の中に落とされたみたいな……最近はそれが何度も起こるの」
「何度も? それは確かに妙だわね」
「でしょう? それからね……兄さんの連絡を受けた日にはさ、朝目覚めた瞬間に『兄さんがいなくなった』って思ったの。それで大学に電話したら『今実家に連絡しようとしていた』って言うのよ」
「何それ! 里沙が春樹の失踪を予言したってこと?」
一花の手はシュークリームを持ったまま静止した。
「予言とかそんなじゃなくってね。起きた瞬間に閃いたっていうか……おかしいのよ、普段なら目が覚めても、寝ぼけて意識がはっきりするまで時間がかかるんだけど……」
視線を少し上げて左手の人差し指をあごに当てながら、一花は自分の朝の状態を思い起こした。目が覚めてもすぐに動くことはせず。ベッドの中で寝返りを打ちながら半分寝ていることが多い。
「――でもそのときは瞬間的に起き上がったの。兄さんがいなくなったことが一瞬で全部理解できて……やっぱり私、変になったのかな?」
シュークリームを食べ終わった一花は、スムージーの太めのストローを口にくわえて、そんなことないよ。里沙に限って、と呟いた。
「それでね、カウンセリングを受けているときにまた震えが来たのよ。そしたら、私の前に座っていた一花のお父さんが突然黙りこんでさ。蒼い顔で苦しそうにしてたから、私驚いちゃって……」
「びっくりしたでしょ? でも何も心配しなくて良いわ」
一花が得意げな顔をしてにやりと笑った。裕也に過去視能力が現れたときの症状は良く知っている。
「うん。そんなこと言ってた。過去が見えるって……。私の『前世を見た』って言われたときはちょっと嘘っぽいなって思ったけど――」
「――前世? 父さんもいいかげんなこと言うなあ」
「でもね、その後がびっくり! 私たち家族しか知らないことを話すんだもん。一花のお父さんって超能力者みたいだった」
里沙がジーンズのポケットから小さな木片をキーホルダーにした家の鍵を出した。
「私、このキーホルダー見せてないのに、模様とか半分に割れてるとか言われたのには驚いちゃって……それからね、仏壇のところにある割れた指輪のことも当てられた!」
里沙が興奮気味に話す。一花は、あたしの言ったとおりでしょ、と得意げな表情を見せて鍵を目の高さに持ち上げ、キーホルダーの模様をじっと見た。
「ふうん……確かにきれいに割れてるわね」
木の板が木目に沿って割れたように凹凸のない断面が一花の目の前にある。
「不思議でしょ? 小さくて硬い板だし厚みもあるから、相当力入れないとこんな割れ方しないと思うんだよね」
そうだね、と頷きながら模様を見ていた一花は、家族で北海道に旅行したことを思い出して懐かしそうな顔をした。
「あたし、こんな模様見たことあるわぁ北海道で……。アイヌのでしょ?」
「そうなの、アイヌ文様なんだって……。小さいころから持ってるの。それでね、この模様のせいかもしれないけど、私がアイヌと関係があるって言われたわ。今までそんなの聞いたことなかったし……」
「でも里沙は北海道で生まれたんでしょ?」
「そうよ。本籍は札幌だった」
「なら、どっかで繋がってるかもね」
里沙は裕也の話を思い出していた。
「それからね。何十年も前の大昔に、兄さんの名前を叫ぶ女性がいたって言うの――」
「ええっ! またまた、ありえない話を」
「最初は私も冗談かと思ったわ。でも、一花のお父さんまじめな顔だった……」
「じゃあ――」
「――うん、あんまり気にしないようにって言われたけど、どうしても気になるのよね。兄さんが古い時代にいたってこと。他にも……」
「他にも?」
一花はキーホルダーをテーブルに置いて里沙の話に聞き入った。
「一花のお父さんの見た光景が、古代のアイヌ集落だったらしいんだけど、そこに広い川と洞窟があったって……」
「川? 洞窟? よくある風景じゃない。それが何か?」
「なぜか引っ掛かるのよ……。アイヌも川も……洞窟も――」
里沙は自分の膝の上に置いた手を握って力を込めた。
「警察は生存の可能性が低いって言ったらしいんだけど、兄さんは生きてるわ。ただそう思うの。根拠はないんだけど」と里沙の声が響く。
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