「――それでね、里沙の様子が本当におかしいのよ。お父さんごめんね。休みの日なのにわざわざ事務所開けてもらって……」
桐谷裕也は娘の元気な声を聞きながら、おもむろにコーヒーカップを口に運んだ。丸い顔と大きな黒い瞳が目に浮かぶ。左手でスマートフォンを持ちながら、少し色の入ったメガネを右手の人差し指で押し上げた。
広めのデスクに置かれたノートパソコンには今日のスケジュールが表示されている。
「里沙さんって、高校時代からの友達だよな?」
話しながら少し白髪の混じった髪を手で額の上までかき上げた。
「そうそう、春樹の妹よ」
「春樹君って一花の元カレの?」
「うん。まあ、それはいいやん――。昨日の里沙の電話も切羽詰まった感じでね。詳しくは訊いてないけど、なんか春樹のことで悩んでるみたい」
裕也はスマートフォンをあごと肩で挟んで、デスクの上に置いてあるメモ用紙を手に取った。
「春樹君は今どこに住んでるんだ?」
「北海道よ。北海道の大学に進学したの。もうずいぶん前だけど」
メモに『一ノ瀬里沙深刻な悩み、兄春樹、北海道』と書き込む。
「とにかく、十時にそこに行くように言ったからお願いね」
「わかった。まずは話を訊いてみるよ」
一人娘、桐谷一花との会話を終えて、裕也はスマートフォンをデスクの上に置いた。
裕也が定年退職後に心理カウンセラーを始めてようやく一年が過ぎた。専用のカウンセリングルームを開設して一か月になる。
マンションの一室を利用したカウンセリングルームには、十畳ほどのフローリングの事務所とドアで仕切られた個室がある。事務所は二人分のデスクが置かれているだけのシンプルな空間で、個室は応接室になっていた。
カウンセリングは主に応接室を使っている。
タバコに火をつけて隣の席に目を移すと、アシスタントの沢木理恵が自らのパソコンの画面を食い入るように見つめている。
「理恵、土曜日なのに悪いな。急に出てこいなんて言って……」
一花と同い年なのに、理恵は落ち着いた女の色気を感じさせる。長い髪をかき上げるしぐさやタイトスカートから覗く長い脚は、男の視線をくぎづけにするには十分な艶めかしさがある。
「特に予定もなかったから大丈夫です。それに、今日は急な案件なんでしょ? 一花ちゃんの友達の――」
「ああ。今、電話があって十時ごろに来るらしい。予定に入れといてくれ」
事務所の壁にかかった時計は午前九時を示している。理恵は机上のノートパソコンに顔を近づけた。
「ええっと、初回面接ですよね」右手がせわしなくマウスをクリックし始める。
「面接用のフォーマット印刷しておきますね」
「ありがとう」
理恵は、裕也が心理カウンセラーを志すきっかけになった事件の当事者で、今では有能なアシスタントとして、裕也の仕事には欠かせない存在になっている。
最近では一日に三人から五人のクライエントが相談に来るようになった。理恵が開設したホームページには十分な集客力がある。
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