里沙のスマートフォンの着信音が静かな病室に鳴り響いた。
里沙が画面を見る。
「母さんからだわ!」
電話口の奈津美の声は慌てていた。
「里沙! 春樹が見つかったって! 今、大学から携帯に連絡があったの!」
「うん」奈津美は里沙の冷静な声に少し拍子抜けした。
「うんって……あなた今どこにいるの?」
奈津美の戸惑いがちの大きな声に、里沙は耳から少しスマートフォンを離した。
「兄さんと一緒にいるよ」里沙の笑顔が春樹の視線と合わさった。春樹も笑顔になる。
「ちょっと待ってて、今兄さんと代わるから」里沙が春樹にスマートフォンを手渡す。
「春樹! 春樹!」奈津美は興奮している。
春樹も思わず耳からスマートフォンを離した。苦笑いの目が里沙に合図する。里沙はスピーカーフォンのマークをタップした。
「母さん、ごめんなさい。心配かけたね」
奈津美は、春樹の声を聞いて初めて安堵のため息を漏らした、半分に割れた指輪を握りしめている。
「元気なのね? 春樹。私もこれから支度してすぐにそっちに行くわ!」
奈津美の声が病室にこだまする。
「すぐにって、お母さん。北海道まで来るって言うの?」里沙が苦笑した。
「実は私、今札幌にいるのよ」
「えっ! どういうこと? いつ来たのよ」
「春樹の車が見つかったでしょ。もう、私居てもたってもいられなくて……」
「じゃあ――」
「――そうよ、あの後すぐに家を出たわ」
奈津美の声を聞きながら、里沙は「もう、母さんったら」と、呆れた声で答えた。
一花は、空になったジュースに差し込んだストローを咥えたまま「私のお母さんは、今何してるだろ?」と考えた。
春樹が話しながらズボンの右ポケットをまさぐり始めた。
「母さん、そんなに慌てなくても兄さんは元気よ」
奈津美は「そう?」と言いながらも落ち着かない。
「とにかく、顔を見るまでは安心できないわよ」
奈津美の心情は理解できる。春樹がポケットの中から何かを取り出して眺めていた。
「わかったわ。でも母さん場所はわかるの?」
「あっ! どこなの? 春樹はどこにいるの?」里沙と一花に笑いが起こった。
里沙は「最寄りの駅についたら連絡して」と奈津美に伝えて通話を終わろうとすると、春樹が慌てて止めた。
「ちょっと待って母さん!」
一花は春樹が手に持っている小さな金属を眺めている。
「なあに?」
春樹はうろたえているようだ。
「変なことを訊くようだけど、昔、里沙が見つかったときのこと覚えてる?」
里沙と一花は春樹の態度に驚いた。急に声も大きくなり汗をかいている。落ち着かない動作だ。
「えっ? 何よ? こんなときに……。あなたが北海道に行く前に話したことが全部よ。
里沙の首に父さんの半輪の指輪がかかっていたの。」
「他には?」
春樹の声が大きくなった。明らかに焦っている。里沙と一花には春樹が動揺して大きな声を出す意味がわからない。お互いに顔を見合わせている。
「他にはって……。文様の入った木片くらいよ……春樹にも話したじゃない」
春樹は黙ったままうつむいている。
「あっ! これは特別な意味はないって思うけど……。里沙はね、珍しい作りのカゴの中に入れられてたわ」
奈津美の声に春樹の目が光る。
「かご?」
「そう、なんていうか、木の皮みたいなもので編み込んであった……そのときは何とも思わなかったけど、よく考えれば、あまり見ないわよね――」
「樹皮のかご……」春樹はぶつぶつ言いながら、じっと自分の手の上にある半輪の指輪を見つめた。
「どうしたのよ、春樹。おかしな子ね」
里沙が春樹を見ながら「もう切るわね。いい? 兄さん」と念を押した。
「ああ」春樹はうつろな目をして答える。
「じゃあね、母さん」
里沙はスマートフォンを自分のバッグの中に入れた。
春樹はじっと手の平を見つめて考えている。レラの子を入れたかごを抱えて走った感触を思い出していた。それは、レラが丹念に樹皮を織り込んで作ったものだった。そして、
今手の平にあるのは、純二の半輪の指輪――。
――里沙が保護されたときに、この半輪の指輪の残りの半分が首にかかっていた。
春樹が顔を上げる。目には涙が浮かび体は細かく震えていた。
──そうか! そうだったんだ。
「そうだったんだ! そうだったんだ!」
春樹が突然大きな声を出して涙にまみれた顔を里沙に向けた。
里沙と一花は春樹の声と涙に驚いてベッドから半歩離れた。
「何よ! 兄さん! 突然大きな声で――」
「里沙!」
春樹が里沙の腕を掴んだ。
「へ?」
里沙は、突然掴まれた手を振りほどこうとする。
「痛い! 兄さん! 何すんのよ! あっ!」
春樹が強い力で里沙を抱き寄せた。里沙は思わずベッドの上に倒れそうになる。一花は大きな目をパチクリさせて二人を見ていた。
「どうしたのよ!」里沙が春樹の手を振りほどこうともがく。
抱き寄せた里沙の腰に涙まみれの顔をうずめて、大声で泣き始めた。
「ちょっと! 止めてよ! 気持ち悪い。一花も見てるわよ!」
一花はストローを口に咥えたまま唖然としている。
「生きてたんだね!」
「当り前じゃないの! 私は生きてるわよ! 失礼ね」
里沙は突然のできごとにあたふたしているが、春樹が里沙の腰を離そうしない。
一花が見かねて声をかける。
「春樹! 何が何だかわからないけど、里沙が嫌がってるわよ。手離しなさいよ」
一花の声に気がついて、春樹は里沙の腰から腕を離し。
「ここまで大きくなって、立派に成長して、良かった、良かった!」
「兄さん! わけのわからないことばかり言って、恥ずかしい……」
里沙が赤い顔をして春樹を睨みつけた。春樹の表情を横目に一花が里沙の肩に手を置いた瞬間一花の視界が緑色の膜に覆われた。
「あっ!」と、一花が自分の口を両手で押さえる。
目の前の里沙の顔が二重に見えた。
一人の女子高生が制服姿でこちらを見て笑っていた。
その女子高生が、振り返りながら走っていく。
突然立ち止まり振り向いた。顔がアップになる。
――あれ? 高校時代の里沙の顔だ。
一花は、不思議な懐かしさ感じた。
笑い声が止み、少し目を伏せて恥ずかしそうにはにかんでいる。
再び顔を上げると、その面持ちはもっと若い里沙になっていた。
中学生の里沙? 一花は固唾を呑んで里沙の顔を見続けた。
すると、顔だけが徐々に若返っていく。首から下は見えなくなった。
フラッシュのような光が一定の間隔で点滅する。
光の点滅の度に里沙の顔が若返って、幼いそれへと移り変わっていた。
小学生の幼い里沙。
幼児の顔の里沙へ段階を追って次々と移り変わる。
そして幼児は乳児となり、生まれたての赤ん坊になった。
次第に顔以外の光景が一花の視界に現れる。
雨が降っている。周囲は暗い。
ゴツゴツとした岩がそそり立っている。
乳児は樹皮のかごに包まれていた。
かごを抱きかかえた男が赤ん坊の里沙の顔を見ている。
その顔は雨に濡れた春樹の横顔だった。
ハッとして一花は我に返る。少し吐き気がした。春樹の顔……だったわ、とベッドに座った春樹に焦点が合った。視界から緑色の膜は消えていく。
次の瞬間、女の声が一花の脳裏をかすめた。
『レラの子』
視界を天井の角に向けると美しい顔が笑っている。
──イルファ!
一花を見ているイルファの顔の輪郭が徐々に消えていく。
『サヨウナラ』かすかな声が一花の耳の奥にこだました。
一花はうっすらと涙を浮かべて天井の角を見つめる。
「一花! 一花? また何か見えたの?」
里沙は、涙を流している一花の顔をのぞき込んでそっと背中に手を当てた。一花の涙は珍しい。
「一花……」
一花は胸を押さえ口を真一文字に閉じて振り向き、泣き笑いしている春樹の顔を見た。
「春樹……。さっき、レラさんの子を抱えて洞窟まで走ったって言ったよね?」
「ああ──」
春樹が一花を見つめる。
一花は涙を拭いもしないで里沙を見た。心配そうな里沙の顔が目の前にある。
「そうだったのね……」
一花の顔は幸せをかみしめる表情に変わっていた。
「里沙……落ち着いて聞いてね……」
里沙が一花を見る。
「あなたはね、レラさんの娘だったの」
「またぁ、一花、何を言い出すのよ」と里沙が笑ったが、一花は涙をためたままじっと里沙を見ている。
「えっ? 何よ……一花……冗談でしょ?」里沙の言葉が宙に浮いた。
春樹はうっすらと涙をためて里沙に微笑みかける。
「何よ、二人して……」と不審な顔をする里沙の脳裏に奈津美の言葉が浮かんだ。
『あなたは、平取町っていうところで保護されたの』
一瞬の静寂の後、里沙は「はっ」として目を見張った。頭の中で、今までのさまざまなできごとが次々に現れては消えていく。アイヌ文様の木片をほしがって春樹と喧嘩したことや、自分の存在が母や兄とはどこか違うと考えていた過去――。
そして、最後に、あの手帳の最終ページに書かれていた言葉。
『レラの子を助けて、未来の世界で育てる。ここは明治初期のアイヌ部落』
徐々に里沙の身体から力が抜けていった。涙が出てくる。
「私は……過去から……この世界に来た──」
一花が、呆然と立ち尽くす里沙に抱きついた。何ともいえない虚無感が里沙の心を満たしている。
「里沙! 前にも言ったでしょ。あなたが誰でも、どんな過去を持っていても、里沙はあたしの親友だよ! それはこの先も変わらないよ!」
春樹は二人を見て純二の言葉を思い出していた。
『母親が子を思う気持ちは、常識や科学を超越してしまう……』
あまりにも受け入れがたい事実に里沙の心は乱れた。やがて、ざわついた胸の中が徐々に整理され事実を受け入れる覚悟ができ、ゆっくりと顔を春樹に向ける。
「兄さん……。レラ──ううん、私のお母さんのこと、もっと教えて」
里沙は落ち着いて自分の過去を冷静に受け止めている。一花は改めて里沙の強靭な精神力と深い洞察力に改めて感心した。
日が暮れている。窓の外はすでに暗い。
母
「そろそろ、母さんが着く時間ね」
一花が里沙を見て、レンタカーの鍵を目の前で振った。
「あたし一人で迎えに行こうか? 里沙は春樹といろいろ積もる話もあるでしょ?」
「ううん。大丈夫。一緒に行くわ」
里沙は春樹に手を上げて「母さんを迎えに行ってくるね」と明るく声をかけた。
「ああ、暗くなったから気をつけてな」
二人が席を立って病室の入り口から出ようとしたとき、例の看護師が春樹の夕食を持って現れすれ違った。
「ね。二人だけにしてあげた方が良かったでしょ」
里沙の声が思ったよりも明るい。一花は安堵の気持ちで病室のドアを閉めた。
駐車場にパトカーが一台入って来た。もう一台ワゴン車が続いている。暗いのではっきり確認できなかったが、ワゴン車は白いボディに黒い字で「北海大学」と書かれているようだ。
里沙と一花は、ワゴン車が駐車場に停まるのを見ながら、自分たちの車に入った。
一花がエンジンをかける。
「さあ、行くわよ」
二人の乗った車は駐車場を迂回して国道に出た。
刑事の掛川がパトカーから出てきて、運転席の白石に声をかける。
「例のものは、持ってきてるだろうな?」
警察から連絡を受けた北海大学の考古学研究室は、若い研究者三人を春樹の面会に行かせた。ワゴン車から出てきた三人は掛川たちと一緒に病院に入って行く。
彼らの視線は、白石が手にしている大きなナイロン袋に集まっていた。中のものを興味深く見ている。
掛川が三人の若い研究者に声をかけた。
「一ノ瀬春樹さんは、今朝発見されて時間がたっていないので、安静を保つように病院から話が出ています。本人の体調回復を第一に考えてください」
掛川と白石が病室に入ると、学生三人が後に続いた。
「一ノ瀬さん、体調はどうですか?」
「ああ、刑事さん。お世話をかけました。だいぶ回復してきました」
春樹は笑顔で掛川と白石を迎えたが後ろについてきた学生には少し不審な顔をする。
考古学研究室の大学院生は個々に研究目的を抱えて忙しい。わざわざ札幌からここまで来たのは何か別の目的があると、春樹は察知した。
「一ノ瀬さんが、発見された場所で回収されたものです。近くの木にかかっていました」
白石がナイロン袋に入った衣服を春樹に渡すと、学生たちの目が光る。
「一ノ瀬さんの失踪と関係があるんじゃないかと思いましてね――」
掛川が静かに声をかけた。衣服は、春樹が雨の中をイルファの洞窟に向かう前に、純二から預かったアットゥシの羽織だった。
「ありがとうございます!」
春樹が明るく笑いながら受け取ると、すぐに袋から出して広げた。背中に大きくアイヌ文様が縫い込まれている。春樹にとっては、自分が過去から帰還したことを意味する重要な証拠品でもあり、一か月間の思い出が詰まったアットゥシだ。
懐かしそうにアイヌ文様の刺しゅうを手でなぞりながら純二のことを思い出す。
すると、三人の学生が、口々に驚きの言葉を吐きながら、掛川と白石を押しのけて春樹の座るベッドに駆け寄った。
「すげえ! アイヌのアットゥシじゃないか!」
「文様もはっきりしてるし新しい!」
三人は、春樹の手から着物を奪い取った。
「何かあるかもしれないと室長が言ってたが……。きっと室長も喜ぶ!」
掛川は半ば呆れてその姿を見ている。
「これさえあれば……。我々の研究論文は世界的に認められるな!」
三人は春樹の顔を見もせずにアットゥシの着物を手に病室を出ようとした。
「待ちなさい――」掛川が声をかけたと同時に春樹が大きな声を出した。
「ちょっと待て! お前ら何しにここへ来たんだ!」
春樹の迫力に三人が立ちすくんだ。
「あっ……一ノ瀬さん。僕らは、その、一ノ瀬さんを心配してですね……」
一人の学生が言い訳がましく答えようとする。春樹は点滴をつけたままベッドから立ち上がると着物を手にした学生の襟首を掴んで引き寄せた。
「お前らは、人ひとりの命よりも、自分たちの研究成果を優先するのか!」
春樹は、自分でも何を口にしているのかわからなかったが、あまりにも非常識な行動に心底呆れかえっていた。
「もういいから、とっとと札幌へ帰れ! どうせ室長の入れ知恵だろう!」
三人は肩をすくめて口々に何か言っている。
掛川が後ろから口を出した。
「刑事の目の前で窃盗ですかぁ……。度胸がありますなぁ。何なら署でお話をお訊きしましょか?」
横で白石が吹き出しそうになるのをこらえている。
「ひやぁ!」三人は大急ぎでアットゥシを放り投げて病室を出ていった。
掛川と白石は振り返って「いやはや」と言いながら顔をしかめた。少し笑っている。
「いやあ、今どきの学生さんたちは人道とか常識という言葉を知らんのですかね……」
と言いながら春樹を見て左手を顔の前に立てて謝った。
「あ、いや、すみません一ノ瀬さんも学生さんでしたね」
病室内に和やかな笑い声が響いた。
「じゃ、私たちはこれで、ゆっくり養生してください」
掛川と白石が一礼して病室を出ていった。
春樹は、改めてアットゥシの着物を広げると、背中の文様に顔をうずめた。
「父さん……」
自然に涙が出てきた。父を思う追憶の念が春樹の胸を締めつける。
春樹は、純二の言葉を思い返していた。
『アイヌの人たちに何かの役に立てるのなら、それも一つの人生じゃないか?』
純二の言葉には、わが身の保身が全く感じられなかった。
「俺は、父さんの最後の言葉を聞いた唯一の人間だ……」
春樹はこれからの生き方を考えていた。純二の生きざまに影響され「俺も……」という気持ちが強い。
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