イルファ

時空を超えた奇跡
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告白

過去の真実

公開日時: 2021年10月12日(火) 15:49
文字数:4,627

 一ノ瀬奈津美は、食料品などが入ったショッピングバッグをテーブルの上に置くと、居間に入り仏壇の横に置いてある半輪はんりんの金属片を手に取った。そのままダイニングのテーブルに近づき椅子に腰を下ろす。

 

 金属片は結婚指輪だった。本来環状の指輪がほぼ中央の位置から半分に折れている。奈津美はテーブルの上に置いた指輪をじっと眺めた。

 

 指輪の内側には「純二」という名前がアルファベットで刻み込まれている。

 

「純二さん……」

 

ほとんど声にならない嘆きが静かになった部屋に心細く響いた。

 

階段を小走りに上る足音が聞こえる。里沙が一花いちかを見送って自分の部屋に入ろうとしていた。

 

奈津美は静かにため息をついた。

 

春樹が北海道の大学に進学して七年の月日が過ぎようとしている。

 

四人掛けのダイニングテーブルには、春樹がいたころの家族三人の楽しい思い出が染みついていた。笑顔の絶えない食事風景が目に浮かぶ。

 

春樹の消息不明を伝えてきた大学職員の冷たい声が耳の奥にこだまする。

 

奈津美は大学からの報告を受けて急いで札幌へ向かった。空き家同然の春樹の部屋を目撃して途方とほうれた自分の姿を目に浮かべる。

 

「あのとき、あんな話をしなければ……あの子がいなくなることはなかったんだわ」

奈津美の声が静かなダイニングに小さく響いた。

 

 

──七年前──

 

 高校を卒業した一ノ瀬春樹は大学に進学せず気ままな毎日を送っていた。

 

その日家に帰ると母親の奈津美が思いつめた表情で春樹を呼び止めた。

 

「春樹、ちょっといいかしら」

「ああ、良いけど……何?」

 

 奈津美は、帰って来たばかりの息子をダイニングに呼び寄せた。

 

テーブルに近づき椅子に腰を下ろした春樹は、面倒くさそうに足を投げ出してスマートフォンを取り出し、にやにやしながら画面を眺めている。

 

奈津美は、立ち上がって仏壇から「半輪はんりんの結婚指輪」を持ってきた。

 

「あのね、春樹」

「うん」

 

春樹が生返事をする。椅子に浅く座り背中を丸めた格好で視線はスマートフォンの画面に集中していた。

 

「お父さんのことなんだけど──」

 

「お父さん? 俺が小さいころに事故で死んだって言ってた?」

 

「そう言ったけど、本当は事故で亡くなったわけじゃないの――」

 

春樹が「どういうこと?」と、初めて顔を上げて奈津美を見た。急にピンと張りつめた空気が流れる。

 

「ある日突然行方不明になって、ずっとそのままなの――もうすぐ二十五年になるわ」

 

「行方不明? 何を言い出すんだよ……突然」

 

春樹は厳しい目で母を見た。父親がいない事実はすでに春樹の中で完結されている。これまでどれだけ「父親がいない」ことで苦い思いをしてきたか計り知れない。我慢を強いられた幼少期や、クラスメイトと自分を比較して悩んだ思春期のつらい記憶は、誰にも言わず胸に押し込んできた。

 

「春樹……今まで黙っててごめんなさい。でも本当なの――」

 

 母の冷静な声を聞いて徐々に行きどころのない怒りが込み上げてきた。

 

「冗談じゃない! 母さんだってそうだろ? 今まで父さんがいないことでどれだけ苦労してきたか!」勢い込んで大きな声を出したが、奈津美は冷静にじっと春樹を見つめている。

周囲に響くだけですぐに消える虚しさにやるせなくなり、春樹は「何言ってんのかわからん」と渋い顔でいったん上げた腰を下ろした。

 

「ある日……突然消息がわからなくなってね――」

 

奈津美は憮然とした表情の春樹に静かに話した。春樹はスマートフォンをテーブルにたたきつけた。大きな衝撃音が静かな部屋にこだました。春樹の怒りは徐々に落ち着いてきたが、まだ胸の奥でくすぶっている。

 

自分たち兄妹を育ててきた母の苦労は想像を超えるものだった。春樹はそんな母の背中を見ながら、自分の思いやわがままは胸にしまい込んだ。

 

母への思慕は強い。

 

思春期の頃、奈津美に早く再婚して幸せになってほしいと考えたが言い出せずにいた。再婚に踏み切れないのは自分たちがいるからだ、と考えたからだ。

 

「行方不明って……。突然言われても理解できないよ」

 

「私たちが北海道にいたことは話したわよね」 

「小さいころ札幌にいたのは聞いてるけど……」

 

「あのね、最初は二風にぶたにってとこに住んでたの」

「二風谷?」

 

「そうよ。私とお父さんは、二風谷で出会って結婚したわ」

 

 奈津美は最初の結婚に失敗して幼い春樹を連れて家を出たことや、純二と出会って再婚したことを話した。

 

「あの人は、私たちがアイヌだっていうのを気にも留めずに愛してくれた……」

「アイヌ?」

 

「そう、私たちにはアイヌの血が流れているの――当時はアイヌへの差別が激しくてね。でもあの人は違った」

 

 春樹は自分の目を見ながら話す奈津美の声を黙って聞いている。目を閉じた。兄妹二人を育てるために、寝る間も惜しまずに働く母を思い出す。

 

「だから? だから母さんは再婚もせずにいた……」

奈津美は少しうつむき加減でうなずいた。

 

「それで? 母さんは今でも父さんが帰ってくるって信じてるのか?」

「信じてるわ……私は、純二さんを――」

 

 奈津美が『純二さん』と言ったとき、母の言葉になまめかしい女の情を感じ父に対する嫉妬心が生まれた。その嫉妬がくすぶっていた怒りに再び火を点ける。

 

「だって母さん! 連絡もなしで二十年以上も姿をくらましてんだよ! そんなの母さんに対する裏切りじゃないか!」

 

 春樹が握りこぶしをテーブルに押しつけて身を乗り出した。ガタッと椅子がテーブルにあたる音がする。

 

「春樹……でもね、私には彼を信じて待ち続けた理由があるのよ」

 

「理由?」冷静な奈津美の声と態度に、春樹の憤りは再び行き場を失くした。

 

「あなたはまだ小さかったから覚えてないかもしれないけれど──」

 

奈津美は静かに微笑み、落ち着いた口調で話し始めた。

 

 奈津美が三歳になる春樹を連れて、当時、北海道開発局ほっかいどうかいはつきょくに勤めていた一ノ瀬純二と再婚したのは二十五歳のときだった。

 

奈津美はアイヌであることを周囲に隠していた。当時は、民族差別に周囲からの同調圧力が加わってアイヌとわかるだけで蔑視べっしされる風潮があり、最初の結婚相手とも奈津美の血筋を調べた親族から無理やり別れさせられた。

 

春樹は初めて聞く母の再婚の話に少しの恥ずかしさと女の生々しい匂いを感じた。

 

「……その頃? 母さんが父さんと知り合ったのは……」

 

「そう……あの人は差別なんかに無頓着むとんちゃくだったわ」

 

 春樹はドキッとした。母の顔は紛れもない女の顔になっている。

 

「結婚して間もない頃だった……。突然あの人の行方がわからなくなったの……」

 

「俺はまだ小さかったから、あまり父さんの記憶が無い」

 

 純二のことを思い浮かべる奈津美を見ながら、春樹は自分の心に歯痒はがゆい思いが芽生えてきた。

 

「それでね……一週間ぐらいたったころに警察から連絡があったの」

 

 奈津美の目がまっすぐに春樹を見つめた。春樹はいよいよ本題に入るのか、と予感して身構える。

 

「最初はあの人が見つかったと勘違いして浮足立ったわ……でもね、警察からの連絡はあの人が見つかったんじゃなくて、一人の赤ちゃんが見つかったっていうの」

 

「赤ん坊? それが何か父さんと関係があるって言うの?」

 

「赤ちゃんと一緒にね。あの人の持ち物が見つかったの」

 

 警察からの連絡は、生後間もない乳児が二風谷ダム付近で見つかったということと、一緒に純二の運転免許証が見つかったという事実だった。

 

「免許証だけじゃなかったわ……その子の首にね……あの人の指輪がね……」

 

 奈津美は顔をおおった。当時の記憶が奈津美の涙腺を襲う。

 

 発見された生後間もない乳児のそばにあったのは純二の免許証と結婚指輪だった。指輪はなぜか半輪はんりん状に切れている。奈津美は瞬間的に純二の生存を確信した。同時に純二に対する思いがあふれて目がうるんできた。そして、その乳児は純二が奈津美に託したに違いないと判断した。

 

 奈津美は春樹にそこまで話して、過去の追憶が胸に迫ってきたのを感じた。

 

「ちょっと待ってよ! じゃあその赤ん坊っていうのは――」

 春樹が興奮して大きな声を出した。

 

「その子が……。里沙よ……」

 奈津美の声は冷静だ。

 

「俺たちは本当の兄妹じゃないってこと?」

 

 突然、妹の出生しゅっせいの秘密を聞かされたことで気が動転している。

 

「そうよ、少なくとも里沙は私が産んだ子じゃないわ……」

「そんなことって……」

 

 小学校に行きはじめたころから、何かと自分にまとわりついてきた妹との思い出が次々と思い出される。幼い里沙の屈託のない笑顔が目に浮かんだ。天才的な頭脳で次々と算数の難題を解く妹を、誇らしいと感じたことが昨日のできごとのようだ。

 

「その……その子が里沙だとして、里沙は父さんが他の女に産ませた子だと思わなかったの?」

 

 春樹の中に父への憤りが、また首をもたげてきた。

 

 ──突然行方をくらまして何年も連絡をしないような男だ。

 

 奈津美が春樹を優しい顔で見つめた。

 

「そうかもしれない……。それでもかまわない。里沙は、あの人が生きている証よ──」

 奈津美の冷静さに春樹は戸惑った。

 

「そんな! それでも母さんは父さんを許すっていうの?」

 

 春樹は「信じられない」と顔を伏せた。

 

 無言のため息がダイニングの空気を湿らせる。

 奈津美は手の平に置いた半輪はんりんの指輪をじっと眺めていた。

 

「母さん、その指輪? 里沙の首にかかっていたのって……」

 

 徐々に落ち着きを取り戻した春樹が不思議そうな顔で訊ねた。いつも見ていた仏壇の上の指輪が、まったく違うもののように感じられる。

 

「そうよ。それから……変わった模様の小さな木片もくへんがあったの覚えてる?」

 

「ああ、覚えてるよ。仏壇の父さんの写真の横にあったやつだろ? 俺が中学生のときに磨いてきれいな形にして里沙にやったら喜んでた……」

 

 里沙の笑顔が春樹の頭の中に浮かんできた。

 

「その木片もくへんも父さんの免許証と一緒に見つかったの……」

 

「そうか……。わかったよ、母さん。血の繋がりがないっていっても里沙はずっと俺と一緒だったんだ。俺の妹に変わりはないよ……。だけど、父さんは許せない。母さんを苦しめて姿を見せないなんて……」

 

「春樹――」

 

 奈津美の表情がまた少し硬くなった。春樹は、スマートフォンをジーンズのポケットに押し込んで席を立った。

 

「このこと、まだ里沙には黙っててほしいの。あまり刺激したくないわ」

 

 立ち去ろうとする春樹に追いすがるように奈津美が声をかける。

 

「うん」と言って振り向いた顔がかすかに笑った。

 春樹が階段を上がっていく。

 

 ひとりになった奈津美は、里沙を預かったころのことを考えていた。

 

 春樹は自分の部屋に戻り、スマートフォンを机の上に放り出して畳に座り込んだ。奈津美の訴えるような視線と里沙の笑顔が目に浮かぶ。

 

 ――里沙の出生しゅっせいのことをすべて知っているのは父さんだ。

 

 家族を残したまま北海道で消息を絶った純二への憤りと、真実を知りたい気持ちが春樹の心の中で交錯こうさくする。

 

奈津美が純二を信じ切っていることにも、嫉妬に似たもどかしさを感じた。

 

――どうして、あそこまでかたくなに父さんを信じることができるんだろう。

 

夫婦間の愛情の深さなど春樹にはまだわからない。父親がどこにいて、なぜ連絡をしてこないのか……里沙の実母の正体も知りたい。春樹の頭の中は次から次へとわいてくる疑問でいっぱいになっている。

 

部屋の中央にあるテーブルにひじをついて「二風谷……アイヌ……」と言いながら、ここで考えていても結論が出ないと考えた。

 

「すべてのカギを握っているのは父さんだ――父さんに会って話を訊かないと何もわからない……」

 

 春樹は純二を捜して真実を訊き出す目的で北海道へ行く決意をした。

 

「母さんのためにも……」

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