二人は、話を終えて家へ向かった。
ジュンジが春樹の背中を押して「いよいよ今晩だな」と笑った。
二人が家に入ると、家の中から大きな声がとんできた。
「ジュンジ! 帰って来たか! ちょっと来てくれ!」
レラの様子を見に来ていたオタマイが悲痛な声でジュンジを呼ぶ。
「どうした?」
「レラが!」
「レラがどうした!」
「突然、様子がおかしくなった!」
オタマイの声がさらに大きくなる。
ジュンジは険しい顔をして土間から屋内に入る。
「どうしたんだ! 父さん!」
春樹はジュンジのただならない雰囲気に気がついた。
「レラは! レラは胸の病かもしれないんだ!」
振り向いたジュンジの声に、春樹は「なんだって!」といったきり次の言葉が出ない。
オタマイは薄い布で仕切られた奥の部屋で涙を流していた。
「オタマイ!」
ジュンジが叫ぶ。
春樹は、オタマイのそばで横たわっているレラを見て愕然とした。
「レ……レラ!」
レラの顔は蒼白になって、荒い息を吐いていた。
春樹が駆け寄って「レラ!」と叫び、肩に抱きついた。
「ハ……ル……キ」かすかに声を出したが、急に身をねじって咳き込んだ。
春樹がレラの上半身を支えて背中をさする。
ジュンジは、オタマイを見た。
「オタマイ……何があった!」
「さっきまでは普通に話していたんじゃが、急に咳き込み始めた。やはり、お産は無理じゃったのかもしれん……」と言ってオタマイは「おお」とその場に泣き崩れた。
やがて、春樹の腕の中でレラの呼吸が安定してきた。
「レラ!」春樹はレラの肩を掴んだ。
ジュンジは、涙目の春樹をそっとレラから離した。
「オタマイ!」
「ああ、ちょっと見させてもらおう」
オタマイが目配せした。ジュンジは「わかった」と言い、春樹を促して囲炉裏のそばに座った。春樹はあふれんばかりの涙を拭おうともしないで、奥の部屋を気にしている。
しばらくして奥からオタマイが出てきた。苦悶の表情を浮かべて震える声で静かにジュンジに向かって口を切る。
「ジュンジ……今は落ち着いているが、あまり良くない。覚悟はしておけ」
そばで聞いていた春樹は胸の奥に不安と恐怖を感じた。目は空を彷徨っている。
春樹の脳裏に『歴史が許さない』と言ったジュンジの言葉が悲しく響いた。
「そうか……よりによって一番大事な日に……」ジュンジが唇をかんだ。
三人は寝ているレラのそばに座った。
オタマイの娘がレラの左手を握って涙ぐんでいる。
レラの呼吸は治まっていたが、視線は定まらず宙をさまよっていた。
「ハルキ……ゴメンね……一緒に行きたかったんだけど――」
レラの目から涙が落ちた。春樹は左右に首を振って話しかける。
「レラ、今は考えないようにしよう。身体が一番大事だよ!」
レラは春樹の声の方に顔を向けて涙を流しながら震える手を差し出した。
春樹はレラの手を両手で包み込み、自分の頬に押しつけてレラの目を見た。
西の空に雷鳴が響き、雷の光が周囲を照らした。雨が降り始める。
レラが「ウッ」と呻いた。苦しみに顔が歪んでいる。
「レラ!」春樹はオタマイを見た。
オタマイは「神が悲しんでおられる!」と大きな声で言って手を合わせ祈り始めた。
「ハルキ……私は……一緒に行けないみたい……この子をあなたの世界で育てて……」
春樹は耳を疑った。
「何言ってるんだ。レラ、親子が離れ離れになるなんて――」
「――いや春樹、それがレラの望みだ」
ジュンジが涙をためながら春樹の背後から声を出した。春樹は涙ながらにジュンジを見た。『歴史が許さない』ジュンジの言葉が、また春樹の脳裏に刺さる。
大きな雷鳴が響いた。家全体が揺れる。
ジュンジが奥の土間で作業を始めた。切り株の上で何かを短刀で叩いている。ジュンジ
の頭の中にはチパパが倒れる前に言い残した言葉が繰り返されていた。
『同じ時代、同じ場所に帰れるとは限らない……』
ジュンジは一心不乱に目の前の金属に短刀を振り下ろしている。
金属片が二つに割れた。
ジュンジは、割れた片方の金属片に麻糸でひもをつけて、レラの寝床のすぐそばでかごに入ってニコニコしている乳児に近づいた。
春樹はレラの肩を抱きかかえている。
ジュンジは春樹のポケットにもう片方の金属片をねじ込んだ。春樹は気づかない。
――これで、離れ離れになっても……どこかで会える。
レラの体が海老のように反り呼吸が再び荒くなった。オタマイの祈りの声はさらに大きくなる。レラは力を振り絞り上体を起こして乳児用に作ったかごを覗いた。
「――お願いよ……幸せに……幸せになってね……」
力を失って仰向けに倒れたとき、レラの手から何かがポトリと落ちてかごに入った。
「レラ!」春樹の叫び声が雷鳴に消された。
「ハル……キ……」レラのかすれた声と共に、両腕が震えながら空中を彷徨う。
春樹はレラの両腕をしっかり掴み、そして抱き寄せた。
「お願い……ハルキ……お願い……」レラの瞳には力がない。
「レラ! レラ! おい! 誰か!」春樹の叫びが家の中に響く。
レラは振り絞った力で春樹の首に両手を回して目を閉じた。涙が一筋流れる。
「ハ……ルキ……最期は……あなた……に……抱かれ……たい」
「レラ……」
春樹はレラの震える唇に、自分の唇を合わせた。ジュンジもオタマイも目を閉じて手を合わせている。
一層大きな雷鳴がとどろき、イナビカリが周囲を照らす。
「春樹! 時間がないぞ! 月が天上の位置に来てしまえば、お前まで戻れなくなってしまう!」
「俺は、俺は、もう戻らなくていい! このままレラと一緒にいたい!」
春樹は涙顔になっていた。
レラを抱きしめたまま離れようとしない。
ジュンジの手が春樹の襟首に伸び、もう片方の手が頬を叩いた。
「目を覚ませ! それがレラの望みなのか! よく考えろ!」
ジュンジが目に涙を浮かべて春樹を諭す。
春樹がジュンジの顔を見て「だって……」と振り返るとレラは力なくうなずいた。
「行って……ハル……キ……お願い──」
レラは力尽きてゴザの上に仰向けに倒れた。
春樹は、泣きながらレラを見て歯を食いしばった。振り向いてジュンジを見る。
力強い目を見たジュンジは大きくうなずき、レラが準備した樹皮のかごを持ち上げた。中を覗くと、ニコニコと笑う幼子が目を空けて周囲を見ている。
ジュンジがかごを春樹に預けると「春樹、これを着て行け、多少の雨ならしのげる」と言いながら、壁にかけてあったアットゥシの羽織を渡した。
春樹は、レラを見ながら、幼子の入ったかごを抱いて外に出た。
雨が春樹の顔を叩く。
春樹は沙流川流域の道をひたすら走った。
「レラ! レラ!」叫び声が周囲の原始林に響く。
走り始めると、雨が徐々に上がり雷鳴も遠くへ消えた。
雲間から青白い満月が顔を出す。
沙流川上流の小さな入り江に着いた。
春樹の息は上がっている。
二つの岩の間をすり抜けてイルファの洞窟の前に立った。
幼子は不思議そうな顔をして春樹を見ている。
青白い月の光が入り口の岩に反射して春樹の足元を照らした。
春樹は膝まずき、夜空を見上げ天井近くで妖しい光を放つ青白い月を見た。
「イルファ! イルファ! レラを! レラを助けてくれ!」
天に向かって声の限り叫んだ! 洞窟の中に春樹の声がこだまする。
目を閉じ、顔を下に向けたとき、正面の洞窟の奥の方から明るい光が春樹を照らした。
光を感じて顔を上げる。
「イルファ……」
一か月前に見た美女が全裸のまま春樹の前に浮かんでいた。顔は微笑んでいる。
すると、イルファの横に杖をついたチパパが現れた。
「ハルキ……お願いね」
頭の中でイルファの声が響く。その声にかぶさるようにチパパの笑い声が聞こえた。
意識が徐々に遠のいて行く。
視界は暗闇に変わった。
意識がなくなる寸前に、春樹は「レラ……」と呟いた。
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