月が満ちるまで数日になった日の朝、ジュンジは沙流川に砂金を探しに出かける準備をしていた。
「ジュンジ? 昼までには帰ってこれる?」
レラが奥の部屋から声をかけた。
「ああ、そんなに時間はかからない」
春樹がジュンジの背中に声をかけた。
「どこに行くんだ?」
「川の上流だ」
「ハルキ、ジュンジは砂金を採りに行くんだよ」
レラが、笑いながら春樹に声をかけた。
ジュンジは、毎日レラの様子を見てくれるオタマイへの感謝の印として砂金を渡すつもりだった。
レラが家の前でジュンジに手を振る。一瞬自分の下腹部に違和感を覚えたが、気にせずに家の中に入った。
しばらくして、オタマイと娘がやって来た。
家の中に入った老女が部屋の奥を見ると、レラが腹を抱えて苦しそうにしている。
「こりゃ! 大変だ!」
急いで家の奥の部屋に入る。
「誰か! 誰もおらんのか!」
オタマイの叫び声が家の外まで反響した。
「どうした?」
春樹が家の入口から中を覗くと、かなり慌ててオタマイが叫んだ。
「ジュンジは! ジュンジはどこにいる!」
春樹はその声に驚いてその場に立ち尽くす。
「か、川に出かけたけど……」
「川? 何でこんなときに!」
「こんなとき?」
春樹が不思議そうにオタマイを見たとき、レラのうめき声が聞こえた。
「レラ! レラ! どうしたんだ!」
オタマイは、慌てて家に入ろうとする春樹を片手で制止して叫んだ。
「レラが産気づいた! ジュンジがいないのならお前が代わりに手伝え! すぐに湯を沸かすんだ!」
春樹は狼狽して部屋の中を右往左往している。
「ど、どうしたら……それに、まだ予定よりずいぶん早いじゃないか!」
「早くしろ!」オタマイの声はなおも大きくなる。
オタマイの娘が、知り合いの女を呼びに行くとすぐに、三人の女が走って来た。
女たちは、梁に縄をかけ、葉を敷いた座を作ってレラを静かに座らせる。レラは苦しそうな顔で額から大量の汗を流していた。
ジュンジが沙流川から帰って来た。家の中の異様な騒ぎに反射的に砂金の袋を放り投げて、家の中に入る。
「どうした!」
オタマイがジュンジを見て大声で叫ぶ。
「ジュンジか、レラが産気づいた。早産だ……このままだと母も子も危ない!」
「わかった! 春樹は?」
「そこにへたり込んでいる。まったく! 役に立たんやつだ!」
春樹は、湯を沸かすこともできずに玄関に座り込んでいた。おろおろしている。
「春樹! 落ち着け! オタマイはこの村では一番の助産婦だ! オタマイに任せておけば大丈夫だ!」
ジュンジは湯を沸かし始めると、すぐに春樹を誘って外に出た。火を焚いて座り頭に冠を乗せて必死の形相で手を合わせる。
「何をしてるんだ? 父さん!」
春樹もジュンジの隣に座り込んだ。
「神に祈るんだ。アイヌの世界では、邪悪な魔物が赤ん坊に取りつかないように祈るのが男の仕事だ。女が産気づいたら、家に居ちゃいけない」
家の中から、レラの叫びにも似た声が耳に刺さる。
春樹はジュンジのまねをして手を合わせた。
レラの叫び声がひときわ大きくなった。
「ああ! ああ! 痛い! 助けてぇ!」
春樹は思わず耳を塞いだ。
──こんなに早く……。
この時代では、早産は瀕死に値する。
「レラ! 踏ん張れ! レラ! もう少しだ!」
オタマイの叫び声が響く。梁にかけられた縄を握ったレラは、顔を上げて苦しそうに唸った。
「大丈夫だ! レラ! もうすぐだ!」
オタマイの両手が布をかけられたレラの足の間で動いている。
大きく開かれたレラの両脚が、伸びきって大きく痙攣した。
レラの叫びが続く。
「ああっ!」声の大きさが頂点に達した。
レラの叫び声が大きく長く響いたとき、一瞬の沈黙ののちに安堵の赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「生まれた!」
家の外で祈っていた春樹がジュンジの顔を見るが、ジュンジはまだ目を閉じたままだ。
家の中に慌てて入ろうとする春樹をジュンジが大きな声で呼び止めた。
「まだだ! 春樹! まだだ! 座ってろ」
ジュンジは目を閉じたまま必死に祈っている。
赤ん坊の泣き声は止まっていない。オタマイが汗にまみれて出てきた。
ジュンジが立ち上げってオタマイに近づく。春樹は座ったままだ。
「ジュンジ。どうやら峠は越えた。じゃが……」
「どうした? オタマイ?」
オタマイはジュンジに耳打ちした。
「レラは……助からんかもしれん」
「えっ!」
「レラは胸の病気じゃ。お産は何とかしのいだが、何日持つか……」
ジュンジは座り込んでいる春樹の顔を見た。唇をかみしめる。二人は奥に寝ているレラと、生まれたばかりの乳児の顔を見た。レラは汗まみれの顔でにこやかに二人を迎える。
「心配かけてごめんね……」
レラの顔は、一つの大仕事をやってのけた達成感にあふれていた。春樹はレラを見て気持ちの昂りが押さえきれない。
「レラ! すごいよ」レラの手を握って涙を流した。
「ハルキ……この子の父親になってくれる?」
春樹はレラとレラの子の将来を一手に背負う覚悟でいたが、実際にレラの横に眠る子どもを見て、軽々に「責任」を口にした自分を恥じた。
――本当に俺にできるだろうか?
一児の親になるという責任の重さが、春樹の心にのしかかってきた。
ジュンジが横から春樹の肩を叩いた。
「春樹、いろんなことを一人で背負いこもうとしちゃだめだ。大切なのは、レラとこの子を思う気持ちだ。ただ、その気持ちや親子の愛情というのはすぐにはわからない。特に男親にはな」
春樹はジュンジを見てつばを飲み込んだ。
「ハルキ?」レラは春樹の答えを待っていた。
「大丈夫だ……レラ。最初はいろいろ戸惑うかもしれないけど、俺も男になる」
「ありがとう……ハルキ」レラの顔が満面の笑みになった。
ジュンジは幸せそうな二人を笑って見ていたが、オタマイが耳元でささやいたことが気になっている。
『何日持つか』
――レラが……そんなことは信じられない。こんなに元気じゃないか。
ジュンジの記憶にチパパの言葉が蘇った。
『過去を変えることを歴史は許さない』
満月の日がやってきた。朝早くから春樹は家の掃除や、荷物の整理の後、慣れない食事の準備に取り組んだ。
普段ならレラの仕事だ。奥の部屋で不器用に短剣を扱う春樹を不安げに見ていたレラが
「ハルキ、無理しないで」と起き上がろうとする。
ジュンジがレラを制した。
「レラ、まだ少し休んでなさい」
「でも……」不安げに春樹を見つめる。
午後、ジュンジはある思いを胸に秘めて春樹を外に呼び出した。手にチパパの手帳を持っている。二人は屋外にある大きな丸木に腰かけた。
「父さんは、やっぱり一緒に行けないの?」
ジュンジは春樹の物悲しい細い糸のような声を耳にしながら、まっすぐ沙流川の流れを見ていた。ジュンジの決意に迷いはない。
「ああ、この手帳を読んで自分なりに出した答えだ。ただ、母さんのことは気になるが、お前に託したい」
ジュンジの奈津美を想う気持ちは変わらない。たくましく成長した春樹に期待を寄せていた。
「それで……父さんはこれからどうするんだ?」
ジュンジは春樹に手帳の中のあるページを見せた。走り書きで読み難い。
「多分、チパパが死ぬ間際に最後の力を振り絞って書いたんだ」
『わしの人生はそろそろ終わりのようだ。レラも大人になった。わしにはアイヌの将来がわかっている。この先アイヌは少数民族と差別され辛い時代を迎えることになる。心残りはそれだけだ。できればジュンジにわしの遺志を引き継いでもらいたい。自分達の考えや意見が主張できるように、アイヌの人々に日本語や日本の文化を伝えてほしい。』
春樹は読み終えて目を閉じた。
――アイヌに日本の文化を教える……。父さんは自分を犠牲にしようとしているのか?
「春樹、明るい未来に希望を持つのは大事だが……。俺は、この世界でアイヌの人々がその日その日を懸命に生きている姿を見てきた。その、アイヌ人のために何かの役に立てるのなら、それも一つの人生じゃないか?」
ジュンジはまっすぐ前を見ている。
静かに話すジュンジを見ながら、春樹は、自分がとても小さな人間のように思えた。
「それに、チパパの言うとおり将来のアイヌ民族のことを考えると、今からいろんな準備をしておく必要があると思う……やることは山ほどあるよ」
「父さん……」
「歴史や時代は俺のやることを許さないかもしれんが……」
ジュンジは、そう答えながら手帳をアットゥシの袋に入れ、ひもで口を閉じて春樹に渡した。
「これは、お前が未来へ持って行け。その、考古学? の参考になるだろう」
「父さんは、これがないと困るんじゃないの?」
春樹はそう言いながら硬い生地の袋を自分のベルトに巻きつけた。
「いや、もう過去に捕らわれるのを止めることにする。大切なのは未来だ」
オタマイが娘を連れてやって来た。
「ジュンジ、どうじゃ? レラの様子は?」
「ああ、あれから寝込んだままだが……変わりはないようだ」
「そうか、ちょっと邪魔するぞ」
オタマイは娘と家の中に入っていった。オタマイを目で追っていたジュンジは、春樹に向き直りチパパやレラについて話し始めた。
「チパパは俺がここに来るより前にタイムスリップを経験したんだ……」
チパパは、本名を与那嶺譲二といい、沖縄で琉球民族やアイヌ民族の歴史、ルーツに
ついて調べていた考古学者で、生涯独身を貫きひたすら自身の研究に打ち込んでいた。
ある日、沖縄本島にある鍾乳洞を調べていて気を失い、鍾乳洞に現れたイルファに出会った。
「そういえば、チパパが言ってたが、アイヌ人のルーツは、朝鮮半島や中国なんかの大陸にも関連しているらしい。チパパの住んでた沖縄人とのつながりも考えられる」
「へえ、チパパはその辺の研究をしてたんだ。よく考えたら、沖縄の人って堀が深くてアイヌ人の顔の特徴に似てるよね」
「チパパがこの世界に来たとき乳児が隣で泣いていたそうだ。それがレラだ」
ジュンジはチパパから聞いた話をそのまま春樹に伝えた。実はレラも時空を超えて来た
らしいことも伝えた。
「えっ! じゃ、レラも?」
「ああ。チパパがそれを確信したのは俺が旅から帰ってきたときだ」
ジュンジは矢越岬や人身御供にまつわる話の一部始終を春樹に話した。
「じゃ、レラは、そのイルシカという女の――」
「――そうだ、イルシカの娘だ……少なくとも俺はそう考えている。チパパも同じ考えだった」
「その、イルシカ? が自分の子供の命を救うためにこの世界にタイムスリップさせたというのか……」と言って春樹はため息をついた。
あまりにも一度に聞いたので頭の中で順序を組み立てるのがやっとだ。
ジュンジはひと息ついて話を続ける。
「ただ、一つ心配なことがある……」
「心配なこと?」
「ああ、レラがイルシカの子だとすると、歴史上ではレラは生きていないことになる」
「それが?」春樹は息をのんだ。
「死んだはずの人間が生きているという事実を『歴史』が許すかどうかだ……」
「えっ! じゃあ……レラは……」
「歴史が本来の時の流れに戻そうとした場合……レラは生きていられないことになる」
「そんな!」 春樹の脳裏に嫌な予感が走り抜けた。
「じゃあ父さん! レラは? レラの命を歴史が奪うって言うの?」
嫌な予感がやがて不吉な想像に発展し春樹の心がいたたまれなくなった。
「レラの子は? 本来が産まれるはずがないっていうこと? それも歴史が許さないってこと?」勢い込む春樹をジュンジの冷静な視線が抑えた。
「そうなる。だが、イルファの意志はすべてを超越しているようにも感じる。イルファの強い愛情でレラもレラの子も無事に生きていくことを信じたい……」
――すべてイルファの意志にかかっているのか?
「ねえ、父さん? 父さんの考えだと、レラは人身御供の悲劇から救うためにこの時代に来させたことになるね」
「そうだな……幼いレラを育てるために、俺やチパパをこの時代に呼び寄せたんだろう」
「じゃ、俺は? 俺がこの世界に来た理由は……タイムスリップの目的は?」
「それも……多分レラのためじゃないか? イルファはレラと春樹が惹かれ合うことを察していたのかもな」
「そうか……」春樹はそう言うと黙って下を向いた。
「母親が子を思う気持ちは、時として常識や科学を超越してしまうんだよ」
ジュンジはそう言って宙を見上げた。思慮深い言葉が春樹の胸にしみてくる。同時にレ
ラと未来で生活することの意欲や希望も湧き出てきた。
「レラの将来は、春樹、お前にかかってるんだ」ジュンジが春樹に優しい視線を向ける。
「父さん。イルファは、レラやレラの子が未来で暮らすことを望んでいるのかな?」
春樹の不安は、自分がイルファに導かれた実感がないことにあった。未来に戻れるかどうかもはっきり確証があるわけではない。イルファの意志に任せるしかない他力本願なのだ。まるで、どこに落とし穴があるかわからない砂漠の上に足を踏み入れる感覚がある。
ジュンジは十分考えた上で心配そうな春樹の顔を見た。
「よくわからんが……それがレラの望みなら――。母親は子の望みを叶えようと必死になるんじゃないかな。歴史と争ってでも――」
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