奈津美が立ち上がって夕食の準備を始めたとき、部屋にいた里沙が一階に降りてきた。
「お母さん──」
「あら、里沙。一花ちゃんと何を話してたの?」
「うん、そのことなんだけど──」
里沙は、ダイニングテーブルに両手をついて椅子に座った。奈津美の背中をずっと見ている。
「なあに、里沙、どうしたの?」
奈津美は、里沙に背を向けたまま手を動かしながら里沙に問いかけた。
「父さんが生きてるって、本当?」
奈津美の手が止まる。
「何言ってるの?」声が少し震えた。
まな板の上に包丁を置いて振り向くと、思いつめた里沙の顔がある。
「さっきね。一花が話していたの。兄さんから聞いたって……」
奈津美は里沙の視線に耐え切れず目を逸らした。里沙は母の動揺を敏感に察知する。
「やっぱりそうなのね……母さん──母さん、どうなの?」
黙って里沙の顔を見ていた奈津美が観念して口を開いた。
「――一花ちゃんが言ったとおりよ……」静かにそう答えると、里沙の正面に座る。
「じゃあ、やっぱり――」
「そう、あなたには事故で亡くなったって言ってたけど……本当は行方がわからないままなの……お父さんは、どこかで生きてるわ……」
奈津美は肩を落としている。
「なぜ……私には事故で死んだって言ったの?」
「ごめんなさい……どうしても本当のことが言えなかったの──」
「本当のこと?」里沙の疑問が膨らむ。
「兄さんには伝えたんでしょ? どうして? どうして私だけ知らないの? 私にだけ黙っていたの?」
里沙の悲しみの眼差しが奈津美を捉える。感情が徐々に込み上げてきた。
「里沙……ねえ! 里沙聞いて!」
奈津美の声が二人の他に誰もいないダイニングに響いた。
里沙は、テーブルの上に乗せた手で拳を作っている。
父親が生存しているという事実よりも「自分だけが知らない」現実がショックだった。
「里沙……」奈津美が里沙の手を両手で包む。
里沙の嗚咽がこだました。
「あなたが聞いたのはお父さんが生きているっていうことだけ?」
しばらく間をおいて奈津美が訊ねた。里沙が無言のまま奈津美を見つめる。
「そう……」
奈津美は里沙の手を静かに離して立ち上がり、仏壇から指輪を手に取ってテーブルの上に置いた。
「――これは?」里沙は小さいころから仏壇の指輪を見ている。。
「父さんの結婚指輪よ。割れて半分になっているけど……」
「父さんの? 結婚指輪?」
「そう、この指輪は父さんが行方不明になった後に見つかったの──」
冷静な奈津美の声に里沙の気持ちが少し落ち着いてきた。
「どうして半分なの?」
里沙はそう訊ねて指輪をじっと見る。小さい時から「なぜ半分なんだろう?」と思っていた。
「何か意味がありそうなんだけど……。私にもわからない」と奈津美は答えた。
「母さんにも?」
「そう、でも、あの人が私に何か伝えようとしているような気もするの」
奈津美が顔を上げたとき、里沙はうっすら涙を浮かべていた。
「──だったら……。父さんが母さんの前に顔を出して直接伝えればいいじゃない。指輪の半分を送るなんて手間をかけずに──」
怒りとも虚しさとも思える感情が押し寄せて声が大きくなった。
「顔を出せない事情が、あの人にあるのかもしれないわ」
「事情?」あまりにも冷静な奈津美を腹立たしくも思えた。
里沙は指輪を手に取った。胸の内に生まれた数々の疑問が里沙の思考を支配し、呼吸が荒くなっている。
「そもそも母さん、これどこで見つかったの? 指輪が見つかった場所の近くに父さんがいるってことじゃない?」
奈津美は黙っていた。今まで隠してきた秘密を打ち明ける日が来たと悟ったが、うまい言葉が浮かんでこない。目を閉じ大きく息を吸った。
「その指輪はね……北海道の平取町というところで見つかったの──」
「北海道? 平取町?」
「里沙、落ち着いて聞いてね……。その指輪は……あなたが保護されたときに首にかけてあったの──」
指輪をいじっていた里沙の手が止まる。
「私が……保護された? 迷子にでもなったの? どうして私がこの指輪を?」
里沙は答えながら母の目を見た。明らかに平静を失って視線が定まらない。
「ううん、あなたは……あなたはね……。生後間もないころ平取町というところで見つかって警察に保護されたの──」
二人の間にどんよりと暗い空気が流れた。
「お母さん? 急に何を言いだすのよ。わけがわからない」
里沙は引きつった笑顔を見せたが、奈津美の表情を見て思わず口を閉ざす。
――まさか……。
里沙の心臓の鼓動が早くなる。ドクンドクンという体内の振動が時計の秒針を置き去りにした。
「里沙……。今まで黙っててごめんなさい。あなたには本当の母親がいるの……私は、あなたの実の母親じゃないわ……」
奈津美は目を固く閉じ、うつむいて里沙の反応を待った。
「ど……どういうこと? 何を突然。悪い冗談だわ」
里沙の表情から感情が消えた。目をつむる奈津美の顔が遠い存在に思える。奈津美の目から涙がこぼれ落ちた。
「本当……なの?」
恐る恐る訊ねる里沙に、奈津美は「ごめんなさい」と言いながら何度も頭を下げた。
「里沙! 里沙! あのね――」
里沙は涙に濡れた顔を左右に振りながら立ち上がった。追いすがるように握ろうとする奈津美の手を振り払う。
「──私は……拾われた子……だったってこと? 私は──」
幼少期からの思い出が里沙の脳裏をよぎり、今まで秘めていた漠然とした不安が疎外感と共に胸に押し寄せてきた。
ときどき頭の中に浮かんでいた「母や兄と自分は何かが違う」という疑問の答えが「捨て子」という悲しい結果にたどり着く。
里沙は母親に背を向けてリビングを出ようとしていた。奈津美が必死で呼び止めようと里沙に声をかける。
「お母さんもね! 春樹も! あなたを家族の一人と考えてずっと暮らしてきたわ! あなたは私たちの家族よ……。何があっても!」
涙声になってうまく伝わらない。沈黙の後、里沙が向き直って再び椅子に座った。
「お母さん……兄さんも知ってるの? 私のこと──」
蚊の泣くような細い声が奈津美の胸に刺さる。
里沙の目からは大粒の涙が流れていた。声に出して叫びたい衝動を必死で抑えている。
奈津美は努めて冷静に、七年前春樹に里沙の件を話したことや、指輪だけでなく里沙が持っているキーホルダーの木片が見つかったことを話した。
里沙はキーホルダーを取り出して、手の中にある半輪の指輪と並べて見つめる。数日前に受けたカウンセリングの話が脳裏をよぎった。
里沙は冷静になろうと考え、淀んだ失意の中で奈津美の話を理解しようと目を閉じた。瞼に力が入る。なぜ実の母親が自分を捨てたのかがわからない。父親純二と実母との関係を考えると「父の背徳」が頭に浮かび思わずかぶりを振った。やがて思考は、生後間もない自分の首にかかっていた指輪の存在に収束していく。
「――私が……生まれたときに……父さんがそばにいた……会っていたってこと?」
涙に濡れた顔で里沙が声を絞り出す。
「そう……そのはずよ……。だからあなたは、あの人が私たちに託した命なの!」
里沙が再び立ち上がって両手をテーブルについた。奈津美が里沙を見上げる。
「わかってくれる? 里沙?」
「少し……考えさせて――」
明るい顔を見せることはできなかった。
里沙は、奈津美に背を向けて自分の部屋に向かいながら、右腕で涙を拭った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!