事務所に戻った裕也は、理恵に面接用紙のファイリングを依頼した。
「新しいクライエントのファイルを作っても良いですか?」
理恵の問いに「いや、まだ良いだろう。今回の面談だけで終わるかもしれない」と答えてデスクに着いた。
飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、スマートフォンを手に取る。
連絡先を検索して「上川雅美」の表示をタップした。
「あら、桐谷ちゃん。どうしたの土曜日の朝から電話なんて珍しいじゃない」
電話口から明るい声が聞こえてきた。
「雅美さん。おはようございます。実は緊急で相談したい案件がありましてね――」
上川雅美は天神に事務所を構える福岡市内でも評判のカウンセラーで、特殊な能力を持ち合わせている。年齢は裕也よりも一つ上でカウンセリングの方法も彼女からレクチャーを受けた。
クライエントの過去が見えるという現象が「過去視」だと断定したのは雅美だった。当時、突然身に起こったことが理解できずに悩んでいた裕也が、偶然雅美のカウンセリングを受けたことからその全貌が明らかになる。彼女も同じ能力を有していた。
以来、何度も相談を持ちかけ、その度に的確なアドバイスをしてくれた。雅美は超常現象についても造詣が深い。裕也にとっては心強い先輩カウンセラーだ。
「相談したい案件? また超常現象の話かしら?」
「ええ、ちょっと複雑な内容なんで電話では説明が難しいんですよ。どこかで時間取れません?」
「いいわよ。今日は土曜で予定もないし、桐谷ちゃんの新しい事務所も見てみたいから、午後にでも伺おうかしら」
「そうですか、それは助かる。ぜひお願いします」
裕也は、午後の約束を取り付けて電話を切った。
「理恵、今日は午前中で上がってもいいぞ」
本来土曜日は休みなので、午後の来談者はいない。
「あっ、でも今の電話は雅美さんでしょ? 久しぶりにお会いしたいから午後も残るよ。資料の整理もたまってるし……」
「そうか、なんか悪いな」
「大丈夫です。時給はちゃんといただきますから」と言って理恵はにっこり笑った。
裕也は理恵の席に近づいて、机の上のノートパソコンの画面を覗いた。裕也の顔が自分に近づいたのを感じて理恵の頬が少し赤くなる。
「午後二時ごろに来られるから、予定をここに入れておいてくれ」
「はい」
理恵がノートパソコンで予定表にコメントを入れてエンターキーを押した。
「まだ少し時間があるな……。一度家に帰るよ。確認したいことがある。昼ごろに戻ってくるからよろしく」
「じゃあ、お昼のお弁当お願い。桐ちゃんごちそう様」
理恵は笑顔で裕也に昼食をねだった。
「わかったよ、理恵。でも仕事中に『桐ちゃん』は勘弁してくれよ」
「いいじゃん。誰もいないんだから」
理恵は、夜、スナックでアルバイトをしている。そこは裕也の馴染みの店で、理恵との最初の出会いもその店だった。ホステスからは「桐ちゃん」と親しみを込めて呼ばれている。
裕也は笑顔で軽く手を上げ事務所のドアを開いた。自宅までは歩いて十分足らずだ。途中で理恵がいつも昼食を調達している弁当専門の小さな店の前を通りがかった。ゆっくり歩いて店内を確認しながら通り過ぎる。
自宅へ向かう道の左右にはすでにピンク色の蕾を膨らませた桜並木が続いていた。
玄関を開けると、妻の淳子がキッチンから出てきた。
「あら、どうしたの?」
「うん。ちょっと調べたいことがあってね」
そのまま書斎に入ると何冊かの本を持ち出した。リビングに戻りソファに座って数冊の本のページをめくり始める。
「三月なのに今日は少し寒いわね」
淳子がお茶を持ってリビングに入って来た。裕也の前にカップを置いて、対面するソファに腰を下ろす。
「また、何か不思議なことがあったの?」
非科学的な案件で相談を受けると、自宅の書斎に並んでいる「超常現象の専門書」を持ち出していろいろ調べることがある。
「ああ、今日一花の友達が相談に来てね」
「へえ」
淳子は、しばらくの間リビングで数冊の本に目を通していたが、やがて立ち上がり「買い物に行かなくちゃ」と部屋を出ていった。
裕也は一冊の本を手に取り、あるページに目を止めた。
「これか――シンクロニシティ……」
『身近な人間の身に起こったことを遠く離れたところで感じる現象』
「この現象と彼女の自律神経系の不調には関係があるかもしれないな……」
他の本にも目を通すが、里沙のように「震える」症例については「自律神経失調症」以外に記載がない。
ただ、数冊の本の中には「夢」について詳しく書かれているものがあった。里沙が話していた「不思議な夢と、閃いて将来を察知する現象」について、幾つかの事例が紹介されている。
裕也は、二冊の本を小脇に抱えて部屋を出た。
午後、約束の時間に上川雅美が事務所に現れた。いつもの黒いワンピースでふくよかな身体を覆っている。
「お久しぶり。元気にしてた?」
「ああ、思ったよりも忙しくてね」
応接室のソファに座った雅美は、部屋の中を見回して「それらしくなったじゃない」と笑った。手帳を手にした裕也がテーブルを挟んで座る。
理恵が紅茶とお茶菓子を盆に載せて応接室のドアを開けた。
「雅美さん、お久しぶりです」
「理恵ちゃん。お元気? 桐谷ちゃんからいじめられてない?」
「ええ、もう……人使いが荒くて――」
理恵が裕也の顔を見ながらほくそえんだ。
「あら、まあ」雅美も裕也に向かって苦笑する。
「おいおい」裕也の苦笑いが二人の大きな笑い声にかき消された。
理恵が裕也の隣に腰を下ろす。
思い出話に花が咲いた。雅美の大きな声が周囲を明るくする。
理恵は今でこそ明るい姿を見せているが、過去には想像を絶する悲劇を経験している。二年前に裕也や雅美と出会ったことが理恵の人生を変えた。今では辛かった日々も笑って話せるようになっている。
しばらくして理恵は「ごゆっくり」と雅美に会釈をして応接室から出ていった。
「理恵ちゃんも、もう一人前ね……」
雅美は目の前に出された紅茶のカップを手に取った。
「ところで、朝の件だけど――」と切り出して、裕也は一ノ瀬里沙との面談で起こったことを話した。
「古代の記憶が見えたの?」
雅美が裕也の話に興味を示す。
「ええ。百年くらい昔の光景だったんで最初は前世が見えたのかと――」
「そうね。でも、私の経験だと前世が見えたときは、そんなにはっきりとした光景じゃなかったわ。なんていうか、モヤモヤした感じで……」
「そうなんですか。じゃあ、やっぱり前世の記憶じゃないのか……」
過去視に現れた光景は映画を見ているようにはっきりとしていた。
次に裕也は、里沙から聞いた予言のような現象を話した。自分の出した結論が正しいかどうか雅美の意見を訊きたいと考えている。
「そう……気になる現象だわね」
雅美は難しい顔をした。ここぞとばかりに裕也が自分の考えを話す。
「うん、俺は『シンクロニシティ』じゃないかと考えています――」
雅美は細かく首を縦に振りながら考えている。何か腑に落ちない点があるようだ。
「――そうね。でもテレパシーや強い念のような感じもするなあ……何度も経験するってところが気になるわね」
「と、言うと?」裕也が身を乗り出した。
「離れていても感じる……その、共時性って感じた本人は偶然の一致と思うわけよ。だけど、同じ感覚が何度も起こるとなると当事者も意識するようになるでしょう? 偶然じゃなくなるわ」
「確かに、それはいえますね」
「人間って深い無意識の領域では密接に繋がってるからね。誰かの強い想いがその領域に働きかけて、いろんな現象を引き起こしている可能性もあるわ」
落ち着いた雅美の話し方には自信と経験に裏づけされた説得力がある。
「それは、無意識に見る夢に働きかけることも考えられますね」
里沙の見た夢の話を思い出す。
「うん。それもありだわね……。桐谷ちゃんや私の過去視だってそうよ。無意識の領域でアカシックレコードにアクセスすることで能力を発揮するわけでしょ?」
「確かにそうですね。過去視が現れるときは無意識の状態です」
過去視については裕也もそのメカニズムを正確に理解しているわけではない。
「潜在意識や潜在能力の話をしたことあるわよね」
「ああ、人間の意識下で働く力はほんの一部で、潜在的にはもっと大きな能力を秘めている……てやつですよね」
「そうそう。さっきのシンクロニシティの話だって、潜在意識下で感じた閃きかもしれないわ」
人間の意識の底には科学では証明できない領域がある。裕也は実際に目の前で里沙が震えているのを見た。
「そのクライエントが経験していることや夢なんかもそうなんじゃない? 誰かが潜在意識に呼びかけているって考えてみたらどう?」
「なるほど……第三者の想いが働いている――」
「そうよ、特に親や親族の想いって、時間や空間を超えて伝わってくる場合もあるっていわれてるわ」
「時空を超えて? SFの世界みたいですね。一般常識じゃ考えられない」
「そうね。つくづく人間の意識って複雑で不思議な存在だって思うわね――」
雅美は、カップをテーブルに置いて自分のスマートフォンを取り出した。電話がかかってきたようだ。
「あらら、大変」
「どうしました?」
「急に相談したいっていうクライエントからだわ。ごめんなさい、もう行かなくちゃ」
「引き止めてしまってすみません。今日はありがとうございました」
雅美は裕也に微笑みを向けてソファから立ち上がった。
上川雅美を玄関まで見送った裕也が、事務所に戻り一日のクライエントの主訴を書いたメモに目を通し始めたとき、一花から電話がかかってきた。呼び出し音を聞いてスマートフォンの電話マークをタップする。
「里沙は? どうだった? お父さんのとこに行ったんでしょ?」
「ああ、見えたよ。午前中の早い時間だった」
裕也は帰宅する支度を始める。話をしながら机の上のパソコンを閉じて周辺を整理し、スマートフォンを持ったまま事務所の天井灯のスイッチを切った。
「お疲れさまぁ」と声をかけながら理恵が白いバックを肩にかけて事務所を出ていく。
「で? どうだったの? 気になるぅ」
一花の鼻にかかった声を聞きながら、裕也はバックを机に置いてスマートフォンを持ち換えた。
「だめだよ。いくら家族でもクライエントの情報はいえないね」
「なんでよ!」
「守秘義務ってもんがあるんだよ。残念だがこちらからは話せないな。本人に確認したらどうだ?」
「ええっ……。里沙が電話に出ないからそっちにかけたのにぃ! ケチッ!」
一花はしぶしぶ了解して「今度訊いてみよ」と言って電話を切った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!