オタマイは毎日のようにレラの元を訪れ、腹の大きさや形を見て触診していた。彼女は村では唯一の助産婦として何人もの子どもを取りあげている。
その日、いつものようにレラの状況を見ていたオタマイが、少し顔を傾けた。
「オタマイ? どうしたの?」
レラの問いに笑顔を向けると「うん、大丈夫だ」とひと言告げて家を出ると、ジュンジに耳打ちした。
「レラのことじゃが、少し胸の音が気になるのぅ。何か普段の生活で気になることはないか?」
ジュンジは、胸の音と聞いて身を硬くした。
「いや……特に気になることはないが――」
「そうか、それなら良い」
オタマイは「取り越し苦労かのぅ……。じゃあ明日」と言って手を上げた。
「ありがとう……いつもすまんね」
ジュンジは、レラがそれほど丈夫な体じゃないことが気になった。大きな病気はしていないが、少し動いただけで息が上がったり胸を抑えていたりしたことは何度かあった。
「オタマイ、レラはお産に耐えられるのか?」
ジュンジが帰って行くオタマイの背中に声をかけた。
オタマイは、振り返って「そりゃわからん。神のみぞ知ることじゃ」と笑った。
ジュンジは家の中に入ると、木の切り株で作った作業台の前に座って、チパパが死ぬ間際にポケットの中で割れた小さな木片を取り出した。
──イルシカ……レラを守ってくれ。
ジュンジは、半分に割れた木片に細工して麻糸を器用に取りつけた。
レラはジュンジの脇で樹皮を織り込む作業をしている。
「レラ、何を作ってるんだ?」
「うん。赤ちゃん用のかごを作ってる」
レラは半分出来上がったかごを手で押さえて強度を確認している。
「そうか……。レラ、これを持っていなさい」
ジュンジは麻糸がついた小さな木片をレラに渡した。
「これは……あのときの?」
「そうだ。松前に行ったときにもらったやつだ。文様が入ってるだろ? きっとお前を守ってくれる」
「お守りってわけ?」
ジュンジは静かにうなずいた。
「ふうん……でも、半分に割れてるよ?」
レラは不思議そうな顔をして目の高さに麻糸をつるした。
春樹は、ジュンジに場所を教えてもらって「イルファの洞窟」に来ていた。
集落より沙流川を少し上流まで行くと川渕に小さな入り江があり、周囲を囲む切り立った岩が陽の光を遮っている。
入り江を奥に入ると、川の水で濡れた大きな二つの岩があり、その奥に岩壁に囲まれるようにして、ひっそりと洞窟の暗闇が口を開けていた。
──ここか……。
春樹は一つ息をすると、二つの岩の間に足を入れた。人が一人ようやく入れる隙間がある。洞窟の前は川水で濡れていた。山からの湧き水や雪解け水も混ざっているようだ。
春樹は持ってきた小さなたいまつに火をつけると、洞窟の入り口にかざしてみた。
それほど深くはない。恐る恐る中に入ると一斉にコウモリが羽ばたいた。思わず身がすくむ。
「なんだ、十メートルもないじゃないか」
洞窟は、数メートル先で行き止まりになっていて、奥に小さな祠がある。
たいまつの火で岩肌を照らしてみた。表面はごつごつとしていて、湧き水が少し流れている。
春樹が用心深く洞窟内を見ているとき、背中に暖かい風が当たり誰かの視線を感じた。
「誰だ!」と、後ろを振り向くが誰もいない。
──あれ? おかしいな。確かに人の気配がしたんだけど……。
思い直して足場を注意深く観察すると、たいまつの火に照らされて細長く光るものがある。かがんで近くからよく見ると、どうやら刃のようだ。
──江戸時代の武士の持ち物か?
表面は所々赤くさびていたが明らかに日本刀だった。武士がここに入り込んだとしてもおかしくない。刀は折れ、刃はボロボロになっていた。
また、人の気配がした。
春樹は洞窟の外まで出てきて、注意深く周囲を見たが、人影はない。
──誰かに見られているように感じる。
そのとき、春樹を激しい頭痛が襲った。思わずうずくまってこめかみを押さえる。
女の声が聞こえた。
「私はイルファ」
──イルファ?
目を閉じて瞼の裏に神経を集中するが何も浮かんでこない。声だけが春樹の頭の中でこだました。
「イルファ! ここにいるのか?」
春樹の声が響く。
大きな声を出し、頭を押さえながら洞窟の内部を照らしたが気配はない。
その日の夕方、囲炉裏の周りで食後のお茶を飲んでいるとき、春樹がイルファの洞窟の話を始めた。
「行ってみたか? どうだった? 不思議な感じがしただろう」
ジュンジはチパパが遺した手帳を見ている。
「ああ、思ったより浅い洞窟なんだな? もっと深くてトンネルのようだと思ってた。反対側に出れば他の世界が待っている……見たいな」
「そんな昔話に出てくるようなもんじゃない。村の人には洞窟に近寄らないように言ってるんだ『イルファの呪い』で不幸なことが起こるって言ってね」
「ふうん」
春樹はゆっくりお茶を飲んだ。
レラが食後の後片づけを終えて囲炉裏に座った。ジュンジがレラの顔をじっと見る。
「レラ、身体の調子はどうだい? 何か変わったことはないか?」
数日前に、オタマイが話したことが気になっている。
「ううん。どこも悪くないよ。ときどき胸が痛くなるけどすぐに治まるし……」
「胸?」ジュンジはタバコを消してレラに向き直る。
「胸が痛いのか?」
胸の痛みは、肺結核などの肺病や、心臓病などの予兆として現れる。春樹の生きる時代では処置さえ早ければ命を落とすようなことは少ないが、この時代は直接死に至る病だ。
「ジュンジ、心配しないで。ほんのちょっと痛くなるだけで、すぐ治まるよ」
レラは明るく笑った。
ジュンジは一息ついて春樹を見た。
「チパパは、未来でいう急性心筋梗塞で亡くなった。胸が痛いのは一番危険なんだ。しかもレラはお産を控えている。春樹も注意してレラを見ておいてくれ」
春樹は無言でうなずいた。
レラは二人の会話を聞きながら、動物の干物で安産のお守りを作っている。
「これは魔除けにもなるから、大丈夫よ。ジュンジ」
春樹はそこまで心配していなかった。レラが出産を迎えるころには、未来の時代に戻っている。
「父さん……。もうすぐ令和の時代に戻れる。レラも一緒だ。未来の医療技術なら心配ないよ」
「そう……だな」と言いながら、ジュンジはチパパの言葉を思い出していた。
『時空を超えても、同じ場所、同じ時代に戻れない』
嫌な胸騒ぎがした。
レラが「先に休むね」と言って立ち上がった。
ジュンジはレラを横目で見ながら春樹に問いかけた。
「春樹、お前の住んでいた令和って、そんなに安心できる時代なのか?」
「ああ、いろいろとあるけどね。でも医学や科学は父さんのいた時代からは格段に進歩してるよ」
春樹はお茶を飲み干した。表情は明るい。
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