「ジュンジ! ジュンジ!」
振り返るとレラが叫びながら走っている。
「レラ! その身体で走っちゃダメじゃないか!」
レラはジュンジの声を聞いて立ち止まった。両手をメガホンのようにして叫んでいる。
「大変なの! ジュンジ! チパパが! チパパがぁ!」
反射的にジュンジが立ち上がって走る。春樹も続いた。
「チパパがどうした!」
近くに寄るとレラが大粒の涙を流している。
──ただごとではない。
直前に感じた「嫌な予感」がジュンジの胸に去来した。レラは身体を折るようにして泣き叫んでいる。
「どうしたんだ! チパパに何があった!」
ジュンジがレラの両腕を掴んで力を入れる。
レラはしきりに「チパパが!」と叫ぶだけで話が通じない。
ジュンジと春樹は顔を見合わせた。
「春樹! レラを頼む」
ジュンジはそう言い残して家に向かって走り、レラが春樹の胸に顔をうずめた。
「ハルキ! 私、どうしたらいいか……チパパがね、突然倒れて動かないの──」
──チパパが……。
春樹は泣きじゃくるレラの肩をしっかり掴み抱き寄せた。
「レラ、大丈夫だ。父さんに任せよう」
倒れそうになるレラを何とか抱き止めながら、春樹はゆっくり家に向かって歩いた。
家に入った春樹は愕然とした。
部屋は雑然としていて囲炉裏の灰が舞っている。
ジュンジがチパパを抱き起して寝床へ運んでいるところだった。
春樹は、ひとまずレラを奥の部屋に座らせる。
「父さん! チパパは?」
ジュンジは春樹の方を見てゆっくりうなずいた。
「大丈夫だ! 気を失っているが呼吸はある」
レラの息が急に荒くなり呼吸が早くなった。
「うっ! うっ!」苦しそうな声と共にうずくまる。
──過呼吸か!
春樹は、近くに会った布袋を口と鼻にかぶせ上から押さえた。
「レラ! 大丈夫だ! ゆっくり! ゆっくり息をして!」
片方の手のひらでレラの背中を優しくさすりながらジュンジとチパパを見た。
ジュンジはチパパの頭を少し低くして気道を確保しようとしている。
しばらくして、チパパの意識が戻ったが呼吸は浅く心配そうなレラを見て静かに瞬きをした。チパパの消えそうな声がかろうじてジュンジに届いた。
「ジュンジ……わしも……そろそろお役御免の時が来たようじゃ──」
「何を言ってるチパパ! 気をしっかり持て! まだやるべきことがあるだろう!」
チパパはいつも肩身離さずに持っていた手帳を、震える手でジュンジに手渡した。
「これを……ジュンジ……レラを……レラのことを頼む──」
チパパは、最後に何か言い残そうとして口を半ば開いたまま静かになった。
一瞬の沈黙。
「チパパ!」
ジュンジが力の限り叫び、動かなくなったチパパの体を揺すった。
「いやああ!」
レラがその場に泣き崩れる。
春樹は言葉を失った。体中の力が抜けたレラを懸命に支えている。
顔はチパパの表情から離れない。
呆然としてその場に座ったままで固唾をのんだ。人の死に立ち会う初めての経験に身がすくむ。
「チパパあ!」レラの声が家中に響いた――。
チパパの死から、一週間が過ぎた――。
レラは埋葬が終わるまで終始泣き続け、いつも春樹がその背中を支えていた。
「ジュンジ……。チパパは最期に何を言いたかったんだろう?」
レラは、簡素なチパパの墓碑の前にひざまずいて、悲しい顔でジュンジを見上げた。
ジュンジはレラの胸中を察して目を伏せる。
「ああ、よくわからんが……チパパは最後までレラのことを心配していた」
レラが顔を両手で覆った。レラの嗚咽がジュンジの胸に刺さる。
ジュンジは、チパパが生前レラの出生について話していた内容を思い出していた。
『レラはイルシカの子。イルシカはイルファとなって、わしやお前をこの時代に呼び寄せた。レラを育てるために……』
矢越岬で相原から聞いた「イルシカ」という女の名前がジュンジの記憶に蘇る。
ジュンジは忙しそうに毎日動き回っていた。
村の人たちにとってもチパパの存在は大きい。
今までも何かあると必ず相談にチパパの元を訪れている。
ジュンジはチパパを引き継いで和人の言葉を村の人たちに教えていた。
チパパ亡き後、人々は次々とジュンジの元に訪れ、チパパの死の意味を口々に話していた。ほとんどの人は自分たちが和人の言葉を使い始めたことを心配していた。和人の言葉を教えたチパパに神の怒りが降りかかったと言う。
ジュンジは「そんなことはない」と人々を説得してまわっていた。
夕暮れ時、沙流川のほとりに座ったレラと春樹はとりとめのない話をしていた。春樹はレラを元気づけることしか考えていない。
「私にはね、父さんや母さんがいないの……ずっと、チパパを私のお父さんだと思い込んでいたの――」
レラは小石を掴んでしきりに川に投げ込んでいる。
「ひとりになっちゃった」泣きそうになったレラを春樹がそっと抱き寄せる。
沙流川は、一人の男の死など知らぬと言わんばかりに上流から絶え間なく波を送り続けている。
「なあレラ?」
「ん?」レラは春樹の肩に頭を乗せて川の流れを静かに眺めている。
「レラの……お腹の子の父親にならせてくれないか?」
春樹は真顔で偽りのない気持ちをレラに伝えた。レラが急に顔を上げ、頬を赤くして春樹を見つめる。
チパパの最期に立ち会って一人の男の壮絶な生き様を目の当たりにした春樹は、今まで自分に足りなかった「生きていく逞しさ」を身につけたいと思った。同時に男としての責任感に目覚め、レラとお腹の子を幸せにすることを自身に誓ったのだ。
「ハルキ──」
「一緒に未来へ行こう」
「ハルキっ!」
レラが春樹の首に抱きついた。二人は強く抱き合い震えながら静かに唇を合わせる。暖かい唇の感触が春樹の神経を刺激した。レラの心の中には将来の希望が広がっている。
「一緒に暮らそう。俺が住んでいた未来で……」
レラは春樹の肩の上にあごを乗せて静かにうなずいた。
「ありがとう……ハルキ──」
その日の夕方、囲炉裏端でチパパが残した手帳を見ているジュンジに、春樹が昼間レラに話したことを伝えた。
ジュンジは手帳を閉じ、満面の笑顔で春樹を見た。
「そうか! それはいい! それはいい!」
ジュンジの大きな声に、レラが少し驚いて春樹を見る。
「春樹! お前も一人前になったな」
「喜んでくれるかい?」
「もちろんだとも、レラも……良かったじゃないか」
「うん」
レラは嬉しそうに春樹の左肩に手をかけた。
ジュンジは「うん、うん」としきりに首を縦に振っている。ジュンジの脳裏に『歴史は許してくれるのか』と言ったチパパの顔がよぎったが、かぶりを振って今は考えないようにした。
レラは嬉しそうに立ち上がると囲炉裏のそばを離れて食事の準備を始めた。
「父さんも一緒に未来へ行けるよね? 母さんもきっと喜んでくれるよ」
ジュンジは「それは……」と少し困った顔をした。
「どうやら、俺は元の世界に戻れないようだ……」
ジュンジは少し顔を上げて春樹の視線を避けた。
「どういうこと?」
「今、チパパのメモを見てたんだが、未来へ戻るには洞窟の中でイルファの亡霊に出会って導かれる必要があるらしい」
「それが? どうしたの?」
「イルファが現れるのは、ブルームーンの夜だけだ。それも、一度それを逃すとイルファには二度と会えないようだ……」
ジュンジは生前のチパパと話した「時空を超える難しい条件」を伝えた。チパパが日記のように記した日々のできごとの中には、幾人もの流人が時を超えて現れ突然いなくなったときのことが克明に書かれていた。それはイルファに導かれてからひと月以内の満月の夜。しかも一年に四度だけ姿を見せるブルームーンの夜だった。
「運よくブルームーンの夜に洞窟へ行った人間だけが時代を超えられるらしい……」
「じゃあ、父さんも──」春樹は言葉を飲み込んだ。
「ああ、そうだ。俺は元の時代に戻るタイミングを逸したことになる……」
ジュンジはこの世界で生きていく覚悟を決めているが春樹には父の気持ちが理解できない。ジュンジの帰りを信じて待っている奈津美の心情を考えると、やりきれない思いが春樹の胸を締めつけた。
「じゃあ、父さんは……このアイヌ集落でずっと生きていくの?」
力を失った春樹の声が虚しく家の中に消えていく。
「ああ、かなりの覚悟が必要だが……チパパの遺志を継いで生きようと考えた」
チパパの手帳によると、時空を超えて過去に迷い込んだ流人で、この時代に残された人間はすべて和人に連れて行かれている。
明治初期に蝦夷地開拓の命を受けた開拓使は日本語が話せるアイヌを日本語学校の講師として登用した。講師と言えば聞こえが良いが不当な労働条件でほぼ奴隷のような扱いだった。命を落としたものも少なくない。
チパパが和人との接触を避けてひっそりと生活していた理由はそこにあった。砂金採りに来ていた松前藩の人間とジュンジが出会ったときもチパパはたいそう心配していた。
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