――スラム街には決して近寄ってはいけない。そこにはジンとアヘンで狂った人間が山のようにいるから。
産業が革命的に進歩し、大量の労働者が首都にあふれるようになってから、ほどなくしてそんな警告を良識者たちは口にするようになった。
長時間の労働に苦しむ人々は、そのストレスを解消するために安酒と麻薬に走った。そうして中毒になった人間たちがスラム街にあふれている。そして、彼らは次第に正気を失いはじめていた。
スリや暴行、強盗といった犯罪が社会に蔓延りはじめた。その治安の悪化という脅威に、ようやく政治を支配する上流階級の人間たちも危険を感じ取ったのだろう。少しずつ、貧困者の犯罪を防ぐための福祉政策も意識されるようになった。
――これは、そんな過渡期に起こった事件。
アルコール中毒者の男が人から金を奪うために、通りで身なりのいい若者をナイフで脅し――
そして近くに居合わせた警察官が、銃を引き抜いてそれを制止して。
けれども酒の影響で理性の飛んでいた男は、ナイフを構えて警察官を襲おうとした。
すると焦った警察官が、新式の連射式拳銃を男に向けて発砲し――
その時、ほかの薬室への伝火現象が起こってしまって。
暴発した銃弾が、まったく関係のない通行人の命を奪い去ってしまった。
そんな、あまりにも不運で不幸な事故。
多くの市民にとっては、一年もすればすっかり忘れてしまうような――
それでいて、関係者にとっては忘れがたい悲しい出来事。
そう、セオ・フローリーにとっては……あまりにも大きすぎる、衝撃的なことだったろう。
◇
私室の机の前でぼんやりと立つ彼を、私は戸口のほうから眺めていた。
そう年月が経っているわけでもないのに、凛々しかった彼の顔はどこか老け、生気が欠けているように見える。その原因がなんなのか、私は痛いほどよくわかっていた。
彼――セオ・フローリーはため息をつくと、机の引き出しを開ける。
そこから取り出したのは一丁の拳銃だった。燧石で火薬を点火させる、古くから使われているタイプのものである。
「――銃なんて持って、どうするの?」
私の声にセオは答えることなく、彼は撃鉄を起こした。そして、ゆっくりと引き金を引く。
燧石が打ち金とぶつかり、音を鳴らし火花を散らした。だが火薬は入っていないので、それだけで終わりである。意味のない行為だった。
もし弾と火薬を込めた銃を、誰に撃ってもかまわないと言われれば――セオはいったい、誰に銃口を向けるのだろうか。
衝動的な犯罪に走ったアルコール中毒者か、それとも誤射をしてしまった警察官か、あるいは――自分自身か。
「――ヘレナ」
セオが私の名前を呼んだ。
それは生きる気力を失った声色ではなく。
どこか決意を含んだような言葉であった。
「俺はさ……新聞記者になろうと思うんだ」
あまりに唐突な発言に、私は目を見張ってしまった。それくらい、意外すぎる職業だったからだ。
工場経営者の父親を持つセオは、そこらの貴族よりもよっぽど裕福な身分の青年だった。次男なので跡取りの可能性は低いが、それでも親の仕事と関係する職に就けば安泰が約束されているはず。なのに――わざわざ記者になるというのは、世間の常識からは大きく外れていた。
「……そんなこと言ったら、お父さんから縁を切られちゃうよ?」
セオの父親は政治家とのつながりも多かった。つまるところ、上流階級側の人間なのだ。そして新聞や雑誌などのメディアは、支配階級にとっては抑圧すべき対象として見なされていた。
昔から印紙税法に対する反発などもあって、新聞各社は政府に対して批判的な立場を取っている。そんな中で、セオが新聞社に就職する道を選べば――彼の父親は絶対にいい顔をしないだろう。
セオはそれ以上、何も呟くことはなく――笑みを浮かべた。
自分には、彼の意志を変えることなどできない。そうわかっているから――私もかすかに笑った。
「……がんばってね」
――彼のことを、これからも見守っていこう。
私もそう決めて、優しく応援の言葉をかけた。
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