イモウトパラレル

ひとりっこの俺にパラレルワールドから妹がやってきてしまった件について
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amenomikana

The 5th day 前編

公開日時: 2020年9月25日(金) 00:00
文字数:8,628

妹がこちら側にやってきて5日目の今日、今日もぼくは妹と大学に出かけた。

講義の前に妹を部室に送り届けドアを開けると、後輩の山羊琴弓が、かわいらしい代官山メガネの奥に泣き腫らした目をしていた。

部室には彼女しかいなかった。

「どうしたの? 何かあったの?」

「がどうざぁぁぁん」

ぼくは山羊琴弓に向かって、何があったか知らないが俺の胸に飛び込んでこいとばかりに両手を広げたが、飛び込んではきてもらえなかった。

「わたしの彼、ハゲてきちゃって思い悩んでて、頭になんかおかしなもの塗るようになったんです!」

山羊琴弓の彼とは、部の先輩の富嶽サトシ先輩だ。

ぼくは彼女を席に促し、その向かいの席に腰をおろして彼女の話をじっくり聞くことにした。

始業ベルが鳴り響いていたが、ぼくは出席を諦めることにした。

サトシ先輩が禿げてきた頭に一体何を塗り始めたのか、それはぼくの頭頂部付近まで後退したM2型の額にも効果があるものなのか、じっくり話を聞いて見定めなければいけなかった。

ぼくは机の上の、部内の連絡事項などを記すノートを一枚やぶると、ボールペンを片手に彼女の話に耳を傾けることにした。

「一昨日彼に会ったとき、彼、ものすごくいやな臭いがしたんです」

その臭いは頭からしていたそうだ。

「だからわたし聞いたんです。頭に何かつけてるの? って。そしたら彼、インターネットで見つけたハゲ防止の方法だって」

その方法とは以下のようなものだそうだ。


①焼酎とオレンジを用意する。


②オレンジを果物ナイフで一口サイズに小さく切る。


③切ったオレンジを焼酎に漬ける。


④出来上がったオレンジを漬けた焼酎を頭に塗る。


そんなハゲ防止の方法があったとは、ぼくは驚きを隠せなかった。

はたしてその効果のほどはいかほどのものなのか。

焼酎とオレンジでハゲが治る、そんなことが本当にありえるのだろうか?

これはじっくり彼女の話に耳を傾ける必要がある、ぼくはメガネを指で押し上げながら、彼女に話を続けるよう促した。

「でもでも、絶対そんなにおいじゃなかったんです! 彼の頭からしてたのはもっといやなにおいだったんです!」

だから彼女はサトシ先輩が頭に一体何を塗ったのか激しく問いつめたのだそうだ。

「そしたら彼、焼酎もオレンジもなかったから、ウィスキーとグレープフルーツで代用したって」

代用できるわけがない。

「わたし、本当にそのにおいがいやで気持ち悪くなっちゃって。二度とつけてこないでって言ったんです」

だけど、昨晩、11時頃いつものように彼女がサトシ先輩に電話をかけると、いつもなら5コール以内に出てくれるはずの彼がなかなか電話にでてくれなかったという。

もう寝ちゃったのかな、さびしいな、彼女がそんなことを考えながら、20回ほどコールした頃、

「なんだよ」

サトシ先輩が電話に出たそうだ。

いつも優しい先輩がそのときは何故かぶっきらぼうで、彼に身も心も捧げてしまった彼女はそんな普段見せない 彼の一面にさえキュンときてしまったのだ。そんなのろけ話はどうでもいいな、とぼくは思った。

「あのねあのね」

山羊琴弓はいつものように先輩に、自分がどれだけ彼のことが好きかを彼に話しはじめたという。

だが、いつも優しくうなづいて彼女の話を聞いてくれる彼が、昨晩はどこかそっけない。

彼女の話を聞いているようで聞いていないような、何か作業をしているようだったという。

耳をすませば、カッポン、カッポンと何やら音がしていたという。

「ねぇ、何かしてるの?」

山羊琴弓は尋ねてみることにした。

「何してるの?」

すると、

「怒られるから言わない」

とサトシ先輩は言って、またカッポンカッポンと音が聞こえたのだという。

山羊琴弓はもしやと思い、おそるおそる彼に尋ねてみることにした。

「ひょっとして、焼酎にオレンジ浸けてるわけじゃないよね?」

先輩とは先日そのことで、彼の頭の臭いのことで、喧嘩をしたばかりだった。

「怒られるから言わない」

先輩から返ってきたのは先ほどと同じ台詞だった。

彼女は悲しい気持ちになったという。

「もうしないでってお願いしたのに、もうしないって約束したのに、ねえ嘘でしょ? サトシさん。焼酎にオレンジ浸けてるなんて嘘でしょ? 嘘だと言って!」

しかし彼女のそんな懇願もむなしく、

「うるせえな!」

彼を怒らせる結果となってしまったのだという。

「そうだよ! ウィスキーにグレープフルーツ浸けてんだよ!」

ぼくは彼女の肩を両手でぐいとつかみ、揺さぶった。

「だからそれじゃだめだって! サトシ!!」




山羊琴弓の話を聞くために講義を休んだぼくは、その後部室に顔を出した空気の読めない男どもと格闘ゲームの勝ち抜き戦を始めていた。負けた者は 交代し、勝った者は引き続きプレイするというオーソドックスな勝ち抜き戦をぼくたちはときどき行っていた。10連勝した者は昼食を他の者から奢ってもらえ るというルールが設けられており、ぼくたちは常に必死だ。ゲームはカプコンVS.SNK2ミリオネアファイティング2001である。

ぼくはひとりっこで友達も少なかったから、対コンピューター戦ではそこそこ強く難易度を最大にしてもノーコンテニューでラスボスまでいけるが、 対戦となると後輩たちにはまるで歯が立たない。ぼくの番が回ってきても、一試合ですぐに後輩たちにコントローラーを譲ることになる。

順番が回ってくるまでの間、ぼくは妹とおしゃべりをして過ごした。

「この間から気になってたんだけど、お兄ちゃん、髪長いよね。何ヶ月美容院行ってないの?」

そういえば、随分と髪を切っていない。最後に髪を切ったのはいつだったろうか。


みなさんはウィングプラザパディーをご存知だろうか。

ぼくの実家のある町にある大型スーパーマーケットで、1階にヤマナカ、2階にヨシヅヤという、この地方ローカルの二大スーパーがひとつの建物に 入った複合施設である。できたのは20年ほど前のことで、そのせいで駅前の商店街や駅裏の弥富銀座は廃れ、次々と潰れていった。しかしその大型スーパー マーケットも10年ほど前に進出してきたジャスコに押され気味で、商店街や銀座と同じ末路を辿りそうにある。

その1階、フラワーショップはなぞのの隣に、ぱ~ま屋さんという恥ずかしい名前の美容室がある。

カットだけなら2000円を切る、いわゆる田舎の奥様御用達のファミリー美容、そこがぼくの行きつけの美容室であった。

ぼくは大体「短めでお願いします」とか「思いっきり短くしてください」とだけ言って、あとは美容師におまかせなのだが、この美容室の美容師は毎 回必ず「カリアゲちゃっていいですか?」と聞いてくる。いつも若い女性の美容師なのだがバリカン片手に必ず聞いてくる。ときどきオカマっぽい中肉中背の男 性なのだがバリカン片手に聞いてくる。それがおもしろくて通っていた。

ぼくは部内の男どもほどではないけれど髪型やファッションに疎い方であったから、19歳の大学生をつかまえてカリアゲても良いか否かを聞くことの是非についていつも悩まされるのだ。

イケメン髪型大図鑑を片手に入店したときもやっぱり聞かれた。

カリアゲと聞いて思い出すのは、小学校の同級生だ。

ちあきちゃんという女の子がカリアゲてたので、あだ名が6年間ずっと「カリアゲ」だった。

少女漫画が大好きな恋に恋する女の子が6年間もカリアゲと呼ばれて続けていた。

こどもというやつは実に残酷だ。

そのせいかカリアゲたらいじめられるような気がして、ぼくは毎回首を何度も横に振ってこう言うのである。

「い、い、イマドキの若者みたいな感じで、お、お、お願いします」

七三分けにされたことがある。

美容師の中には「カリアゲちゃっていいですか?」と聞いてこない者もいるにはいるのだが、美容室というお洒落空間においてお洒落とはかけ離れた 巨漢の女性であった。だがカリアゲてもいいかどうか聞かないということはカリアゲなくてもちゃんとカットできる自信のあるということなのだろうと、この人 なら安心だ、安心して任せられる、ぼくはそう思い、髪の悩みを相談することにしたのだった。

ぼくの頭は所謂M字ハゲというやつで、M字ハゲにも二通りのM字ハゲがある。


①M1型


生え際のラインの両端がやや後退した状態。若い人に多い型である。



②M2型


M1型がさらに後退した状態で、頭頂部付近までラインが後退したもの。



ぼくやドラゴンボールのベジータはM2型に該当する。

ちなみにこのM2型を自毛植毛によって治療しようと思うと、840,000円かかる。いつだったかインターネットで調べたことがあった。

ぼくは前髪をかきあげて美容師さんにラインの後退具合を見せた。

美容師がごくりと生唾を飲み込む音が聞こた。

「これをうまくごまかしてほしいんです。よろしくお願いします」

「えぇ…なんとかしてみせるわ…おばさんにまかせておいて…」

ぼくは美容師にすべてゆだねることにして、目をつぶり完成を待つことにした。

すると、そのとき、


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


突然鳴り響いた轟音にぼくは驚き目を開けた。

するとどうだろう!

鏡に映るぼくの後ろにはバリカンを片手に微笑む巨漢の美容師さんの姿があったのである。

美容師さん、あんたもか!

ぼくはそう思わざるをえなかった。

「な、何をする気ですか?」

思わず尋ねたぼくに、美容師は、

「無理だから。それ、ごまかすの無理だから。考えてみたけど無理だから。無理だから。無理だから」

美容師は呪詛のことばのように「無理だから」と繰り返しながら、ぼくの額にそっとバリカンをあてがったのである。


「この真ん中のとんがってるところ剃っちゃいましょう。それで楽になりましょう」


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


「美容師さん!」


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


「美容師さん!!」


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


以来、ぼくはこの美容室に通わなくなったのである。

あれからもう半年か、とぼくはひとり微笑み、またあの美容室に顔を出してみようか、とそんなことを考えていた矢先の出来事だった。


ヴイイイイイイイイイイイイイイイイインンンン!!!!


突然鳴り響いた轟音にぼくは驚き振り返った。

するとどうだろう!

そこにはどこから持ってきたのかバリカンを片手に微笑む妹の姿があったのである。

ぼくは叫んだ。

「おまえもか!」







「ねぇ加藤くん、知ってる?」

講義を終えて部室に戻ると、部長が目を輝かせてぼくにそう訊ねてきた。

「モーニング娘にね、今外国人がいるんだって!」

部長のことだからてっきりぼくの父花房ルリヲの続報かと思っていたぼくは、心底落胆した。

そういえば父は元気にしているだろうか。

連絡はない。

父の執筆再開を伝えるミクシィニュースに続報はなく、そのニュースについて書かれた日記も69件のまま止まっていた。父について書かれた不特定 多数の人たちの日記に一通り目を通してはいたが、父の復帰は賛否両論といったところだ。どちらかといえば、否の方が多かった。断筆宣言をしファンから復帰 を心待ちにされる巨匠とは違い、一度作家として「死んだ」と酷評された父が再び息を吹き返したところでたかが知れているだとか、どうせ金がなくなったんだ ろうだとか、人というものはどうして他人にこれほどまでに興味を持ち、それほどまでに興味を持ちながら何故父の小説に理解を示すことができないのか、ぼく には不思議でならない。

死んだと酷評されたもう最後ではなくなった小説だって、そこらの書店に平積みにされているベストセラーよりもはるかにおもしろいものであったし、ぼくの小説など比べることさえおこがましいとさえ思えるものであったというのに。

父の新しい小説がたかが知れているかどうかは、来月になればすぐにわかることだ。

連絡がないということは、元気にしているということなのだろう。

ぼくは、ため息をつきながら、

「ジュンジュンと、リンリンでしょ」

と、部長に返事を返す。

第7期生の久住小春が、きらりんレボリューションで声優デビューしたことは記憶に新しいが、ジュンジュンやリンリン、それから光井愛佳、3人の第8期生の知名度はあまり高いとは言えない。

「知ってるんだ…しかもさらりと言えちゃうんだ……」

部長の反応を見て、ぼくはしまった、と思った。

「まさか、とは思ってはいましたけど……」

後輩の山羊琴弓が、ごくりと生唾を飲み込んでそう言った。

ぼくはなんとか取り繕おうと、

「えっとさ、加護ちゃんも芸能界に無事復帰して、まぁ無事かどうかはあやしいところだけど、ゴマキも弟の逮捕でハロプロ脱退してエイベックスに移 籍して、オタ奴隷なんてのがいた、なんてのが夏の終わりにニュースになったりしてさ、なんていうか、こう、モー娘ブーム再来っていうか、その……」

とりつく島もない。

かと思えば、ぼくの発言から、昨年のゴマキの弟の逮捕やなっちの人身事故の話など、話題は元モーニング娘の女の子たちのその後についてに向かっていったので、ぼくはほっと胸を撫で下ろした。

「ゴマキも安倍なつみもモー娘卒業してからぱっとしないですねー」

「のんちゃんは出来ちゃった結婚しちゃったしね」

「えーっと、あの子誰でしたっけ? ちょっと男の子っぽい子」

「ヨッシーのこと?」

「ていうか、加藤さん、なんでモー娘のメンバーを愛称で呼んでるんですか?」

ぼくはまた、しまったと思った。

「……吉澤ってまだいましたっけ?」

「……い、いや、そ、卒業、したよ…? あの子、弟を交通事故で亡くしたりして大変だったんだけど。涙も見せずに、立派に卒業ライブを…。その前に卒業したのは、まこっちゃじゃないや小川真琴とこんこ、紺野あさみで……だ、だいぶ、前だけど」

「加藤くん、なんでモー娘のメンバーの入れ替わりまで把握してるの?」

部長の思わぬ発言にぼくの心は激しく揺さぶられた。

「さ、さぁ、どう、どうして、だろうね」

だ、だめだ!

このままではぼくにアニメオタクというレッテルだけでなく、アイドルオタクという色眼鏡までかけられてしまう!

このままでは今ここにいない佳苗貴子や他の後輩たちにも、明日にはもうぼくがアイドルオタクだということが伝わってしまう!

なんとかしなければ、なんとかしなければ、なんとか、なんとか、そ、そうだ!

「福田明日香が今何してるか知ってる? 高校を中退してお母さんがやってるスナックで働いて……」

「もうやめて!」

部長が泣き叫ぶようにそう言った。

「加藤くんがものすごいアイドルオタクだってこともうわかったから……」

ぼくは部長の肩をぐいと掴み、声を荒げた。

「ち、違うんだ! 部長!!」

ちなみに、ジュンジュンとリンリンは中国人である。




後輩の佳苗貴子がぼくの目の前の席に座っている。

ぼくは昨日彼女から、彼女の彼氏がオタクかもしれないという相談を受けたばかりだ。

ぼくは彼女が部室にやってくる前に、ぼくがアイドルオタクであるということが部長たちにばれたばかりだ。

彼女は今日も元気がなく、うつむきがちに黙々と携帯電話を操作していた。

「佳苗さん」

と、ぼくは後輩にも、さん付けで呼ぶ。

声をかけると、ぼくを見上げる彼女の目にはきらりと光るものがあった。

涙、だった。

その悲しそうな、売られていく子牛のような瞳を見てしまったら、

「どうしたの? また何かあったの?」

ぼくはそう声をかける他なかった。

ぼくが他の女の子にそんな風に優しい言葉をかけることを、隣にいる妹があまりよくは思っていないことは知っていたけれど。

「か、か、がどうざぁぁぁん」

佳苗貴子の瞳から、一筋の涙がこぼれた。

「わたしの彼、やっぱりオタクだったんですぅぅぅぅ!」

ぼくは今日、彼女の相談を再び、受けることになったのである。

「今度彼と箱根に旅行に行くことになったんです。芦ノ湖も見に行こうって」

それで昨日、佳苗貴子と彼はふたりでるるぶを見ながら旅行の予定を立てていたそうなのだが、

「彼が行きたがるところが全部ちょっとおかしいんです」

という。

彼が行きたがったところというのは、

箱根湯本駅、

芦ノ湖脇の桃源台、

大湧谷、

彼はそんな場所にばかり行きたがり、佳苗貴子が行きたいと思う場所はすべて却下されてしまったという。

彼女はなぜ彼がそんな場所にばかり行きたがるのかまるでわかっていない様子だったが、ぼくにはどこかで聞いたことのある地名ばかりだった。

だからぼくは、

「そうか、聖地巡礼か」

そう思い至ったのである。

「聖地巡礼!? なんですかそれは!!?」

一般の女の子にはなじみのない言葉かもしれない。

聖地巡礼とは、本来の意味は、宗教等において重要な意味を持つ聖なる地(発祥の地など)に赴くこと。転じて、映画・ドラマ・漫画・アニメ等の作 品の「物語の舞台となった地」や、スポーツの名勝負の舞台となった(なっている)地等を実際に訪れ、思いを馳せることを指すようにもなった。この場合、特 段の宗教的な意味は持たない。

このような「聖地」は、観光地のように予め整備されているわけではなく(一部例外あり)、場合によっては私有地であったり、何も知らない一般人が居住している場合もあるので、「聖地」を訪れる人は現地の方々に迷惑をかけることの無いよう、充分に心がける必要がある。

「そそそ、そんなものが……」

佳苗貴子はめまいを起こしながらも、なんとか平常心を保とうと必死の様子であった。

「例えば、冬のソナタがきっかけで韓流ブームが起きて、ロケ地を廻るなんていう旅行ツアーが組まれたりしてたよね。あれも聖地巡礼」

問題なのは、

「佳苗さんの彼の場合、どうもエヴァンゲリオンみたいだね」

ということだ。

箱根には「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれた光景が広がっている。

箱根湯本駅に行けば父親の碇ゲンドウと仲違いした碇シンジが送り届けられた新箱根湯本駅がそこにあり、芦ノ湖脇の桃源台へと行けば展望台からタ ワーのそびえる新第三東京市を湖岸にそなえた芦ノ湖の光景を瞼の裏に見ることができる。逃亡したシンジが寂しさを抱えながら見下ろした雲のたなびく大湧谷 はまさにそのままの光景。箱根はまさに「エヴァ」の聖地。すなわちアニメファンの聖地なのだ。

「やっぱり……。薄々感じてたんです……。一緒にDVD観たし、なんかどこかで聞いたことがあるような、見たことがあるような場所ばっかりだったから……」

「きっとサトシさん、鋼鉄のガールフレンドの同梱DVDでも見ちゃったんじゃないかな。。。」

エヴァンゲリオンのプレイステーション2専用ゲームである「鋼鉄のガールフレンド」には「中川翔子のデリケートにゲームして♡出張版」という、しょこたんがエヴァの舞台である箱根・芦ノ湖を訪れ紹介するというDVDが特典としてついていた。

聖地巡礼なんてものを一度も考えたことないぼくでさえ、しょこたんと第3新東京市を歩きたいと思ったものである。だってぼくはアニメオタクで、アイドルオタクなのだから。

「それ、ひょっとして中川翔子の……?」

さすがに、

「彼氏の部屋に、ありました……」

本当に観ているとは思わなかったけれど。

その後、佳苗貴子の彼はるるぶの巻末の地図を広げ、そこにコンパスでいくつか円を描いたそうだ。

「だから、わたし何してるのって聞いたんです! そしたら、そしたら、戦略自衛隊がN2爆弾を落としたとこだって……」

「また地図を書き直さなきゃならんな」

ぼくは冬月副司令になりきって、今にも泣き出しそうな彼女にそう感想を述べた。

「わたし、見ないふりしてたけど、青い髪の白いパイロットスーツの女の子のフィギュアが、彼の部屋にあって、なんか部屋に行くたびにポーズが違っ てるんです。前に行ったときは胸をこう抱きかかえるようにしてひざ立ちしてたんですけど、昨日行ったらなんかすごく長い槍持ってて……」

「フロイラインリボルテック、綾波レイか……」

「まさか加藤さんも持ってるんですか!?」

「うん、毎日家に帰ったらこねくりまわしてるよ?」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ。これ以上私の中に入ってこないで! 私の心を汚さないで!!」

佳苗貴子は使徒に精神干渉された惣流アスカ・ラングレーのように泣き叫んだ。

「わたし嫌なんです! 彼氏がオタクだなんて! 絶対嫌なんです! 加藤さん、何ていいましたっけ、さっき」

「え? 聖地巡礼のこと?」

「それです! 彼氏と聖地巡礼なんて絶対いやなんです! そんな言葉口にするのもいやなんです!」

それだけ言うと、佳苗貴子はすっと席を立って部室を後にした。

部室にはぼくと妹だけが残された。

「ねぇ」と、妹がぼくに訊ねる。

「本当にフィギュア、こねくりまわしたりしてるの?」

ぼくは笑った。

「してないよ。ぼくがそういうことしてるように見える?」

「うん、見える」

妹の言葉に、ぼくは少し落胆した。

「そういうお兄ちゃんも嫌いじゃないからいいけど」

今日の講義はもう終わりだ。まだ3時前。このまま部室で過ごすのも悪くはないけれど、どこかに出かけるのも悪くない、ぼくはそう思って隣に座る妹の顔を覗き込んだ。

「これから、日帰りで旅行にでも行こっか?」

妹は「うん」と目を輝かせて、ぼくに抱きついてきた。

佳苗貴子の話を聞いて、ぼくも聖地巡礼がしたくなってしまった、とは言えなかった。

「浜松に行こう。うなぎ、おいしいよ」

浜松は、ぼくが好きな漫画「苺ましまろ」の舞台である。


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