診断室の扉が開いた。
男が看護師に誘導され待合室の椅子に腰掛けた。
診断時間は30分以上と通常の診断に比べ長かった。
女は心配そうに男の方を見つめた。
看護師がこれからの受付手続きを男に話していた。
女は思った。
「私が代わって話したい…、私に話しかけるあの人の声を聞きたい。」と
男への説明が済んだのか、看護師が受付に来て、精算及び保険証の件も説明したと告げてくれた。
女は愛想なく頷いていた。
男は診断室に入る前と同じようにテレビの方を向き、女の座る受付には関心を示す様子は全くなかった。
女は、男が自分のことを本当に忘れてしまっているのかと思い、悲しくなった。
医師が診断室から、そっと出て来て、受付の処方担当の者に処方箋作成用のデータ書類を手渡し、また、何も言わずに、そっと診断室に戻って行った。
女は医師の態度に違和感を覚えた。
いつもは不機嫌そうな顔をし、処方箋の作成について、必ず細かな指示を出すところ、何も言わず、そそくさと戻って行ったのだ。
女は何気なく、医師の動きを横目で追いかけた。
すると、医師は診断室の中へ入って行くと、机には戻らず、ドアの隅に身を潜め、ドアを完全には閉めず、少しほど半開きにし、その隙間から男に気づかれないよう男の方を覗いていた。
女は、情けなく、かつ、悲しくなった。
「何故、こんな情けない臆病な男と結婚してしまったんだろう。恐らく、診断中、あの人を怒らせたに違いないわ。狡猾なだけで何一つ人の心が見えない机上の医者。どうして、あんな男と結婚してしまったんだろう…」
女は悔やんでも悔やみきれない悔悟の念に駆られてしまった。
自分の病院なのに、自分の城なのに、コソコソと患者を覗き見している情けない医者。
不細工な顔、陰険な性格、守銭奴の如く銭勘定ばかりのがめつい欲深い性格…
「この人の何処が良くて、私は結婚したんだろう?いや、良いとこなど無いわ。嫌なところばかり…」
女は人知れず涙を流した。
そして、中学生の少女の頃から恋焦がれ、永遠の恋人と神にも誓った唯一無二の存在、かつ、二度と逢うことは許されないと諦めざるを得なかった忘却の存在である彼が目の前にいる奇跡
女はその奇跡に、涙で濡れた瞳を向けた。
その時、女の視線の中に男の視線が突き刺さった。
強く深く頑丈であって、綺麗で優しい漆黒の瞳が、女を捕らえた。
女の唇が自然と開き、女は微かな吐息を漏らした。
女は感じた。
言葉以上に男の視線が心に響いた。
「何故、俺から離れた。」
男の瞳はそう言った。
身体も感じた。
抱かれて逝かされていたあの頃の男の強さが突如、女の身体の奥深くに蘇り、身体の内部が「ジュン」と鳴った。
女は心も身体も感じてしまい、降参するよう、ゆっくりと視線を逸らした。
「○○さん、受付にお越しください。」
女の隣でもう1人の受付の職員が男を呼んだ。
男はゆっくりと立ち上がり、杖を突きながら、下を向く女の姿から視線を外さず、受付に向かった。
女は男の顔を見ることができない。
見たいのに、声を掛けたいのに、顔を上げることがどうしてもできない。
「此方が薬の処方箋になります。今日のお会計は○○円です。」
隣の職員が平気で男に言葉を発している。
「千円から頂戴します。」
「お釣りは○○円です。」
「お薬は1か月分処方してます。」
「保険証が無いと言うことですので10割負担となっていますが、国民健康保健にお入りなった際は、それまでの分は医療控除できますのでご安心ください。」
「では、お大事に!」
女は声だけでも聞きたかったが、男は一言も発しなかった。
玄関の自動ドアが開いて閉まる音が聞こえた。
女はやっと顔を上げた。
その時、診断室の扉もゆっくりと閉まった。
「奥様、受付を交代します。」
看護師の職員が女に声を掛けた。
女は、「はい」と返事をし、立ち上がった。
「あっ…」
女は腰を僅かにくねった。
少し濡れていた…
女は身体が自然と男を愛したことに喜びを感じた。
それと同時に、診断室の扉の向こうに居る存在
愛のない配偶者
1秒たりとも愛した事のない夫
その男の側に向かわなければならない、やるせ無い現実
女は力無く扉を開けて、診断室に入って行った。
医師は、今朝ほどの威勢の良さは消え失せ、男の事は何一つ話さなかった。
女は思った。
「高校時代と同じだわ。この人は、あの人の前では何も出来ない。あの人が確実に去った後でないと、何も出来ない。まるでハイエナ…」と
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