時刻は午前1時を回った。
女はスマホを握り、うとうとと眠りに落ち掛けていた。
その時、スマホが「ブンッ」と震えた。
女は急いでスマホを見た。
「14時に来い。」
彼からのメッセージであった。
女は嬉しくも少し、怖くなった。
女は彼の愛だけ考えることにした。
彼との大切な思い出だけ、想いながら、最期の眠りを味わおうとした。
女は死ぬつもりでいた。
どんな死に方をするかは分からないが、今日、男と一緒に死ぬつもりでいた。
なかなか思い出せない。
怖くて、楽しい思い出など全く思い出せない。
女は眠ることを諦め、本を読むことにした。
「平原の町」
主人公のカーボーイと恋に堕ちた娼婦が、悲劇の最期を迎えるストーリー
女は自身をその娼婦に置き換えていた。
「私は娼婦と同じ。愛してもない夫に身体を売り、生活を養って貰っている。
自由もない。
だから、最期はここから飛び出したいの。
愛する人の元に。」
女は何百回も読んだラストシーンのページを開いた。
主人公のカーボーイと駆け落ちする場所で裏切り者に殺される娼婦
そして、娼婦が死んだ事も知らず、駆け落ち場所で佇むカーボーイ
女は思った。
「私は違う。一人で死なない。彼と一緒に…」
「彼が私をこの売春宿から救い出してくれる。」
「私が行くべき道を示してくれた」
そう思いながら、女はいつしか眠りに堕ちて行った。
【女は彼のアパートに居る。女は彼のジャージを借り、髪の毛を乾かしている。彼は料理を拵えている。女は彼に近づき、料理を眺める。彼は微笑み、腕を振るう。女はコタツに入り、料理が揃うの待つ。彼が手際よく料理を運んでくる。女は乾杯ようの缶ビールをそれぞれの席に置く。「ほら、食べなよ。」と彼が言う。女は箸を伸ばし、彼を見遣る。「美味しいかい?」と彼が問う。女はにっこり笑って「うん、うん」と頷く。食事が終わっても昔話は尽きない。女は心から笑った。こんな幸せ、永遠に続くと信じ、私の傍に、彼は永遠に居続けると信じ、子猫のように戯れながら、彼に抱きつく。彼は優しくキスをしてくれた。女は幸せ味を噛み締めキスを返す。いつしか二人はソファーベットに横たわる。女は自ら服を脱ぐ。彼の好きな下着を今日も着けて来た。彼はその下着を一眼見て、アッサリと脱がしてしまう。女もそう願っていた。彼の優しく、そして力強い愛が女を覆う。女は津波の中に居る。女は快感という大波を何度も何度も被り続ける。永遠の快感、永遠の幸せ。女が意識を取り戻した時、最初に見えるのは彼の横顔。女が1番好きな彼の横顔。女は子猫のように彼の懐に潜り込む。彼が必ず頭を撫でてくれる。頬を撫でてくれる。唇を撫でてくれる。そしてまた、女の敏感な部分を撫でてくれる。女は彼を見遣る。女は彼にお願いの眼差しを向ける。彼は優しくそれに応えてくれる。優しく、そして力強い、大きな波、津波のような、決して抗う事のできない快感の大波を引き起こしてくれる。女はまた彼の腕の中で溺れてしまう…】
「ピー、ピー、ピー」とスマホの目覚ましが鳴った。
午前6時であった。
女は夢を見た。
男と付き合っていた頃の夢を
「神様、感謝します。」
女は胸の十字架を握りしめ、神に祈った。
そして、女は今日取るべき行動を確実なものにしようと誓った。
女はそっと部屋を出て、化粧道具を洗面所から持ち出し、部屋に戻った。
女はメモ用紙に「熱があるので、今日は家に居ます。」と記し、また、そっと部屋を出て、キッチンのテーブルにそれを置き、部屋に戻った。
午前7時頃、夫の足音が部屋の外から聞こえた。
女は「あっ」と思い出し、急いで、部屋の鍵を閉めた。
夫が部屋をノックした。
女は布団に潜り込んだ。
何回かのノックで夫はやはりドアが開かないことを了知し、部屋から離れて行った。
午前8時頃
夫が玄関から出て行く音がした。
女のスマホが震えた。
「ゆっくり休むように。」
夫がLINEを送って来た。
女は返信もせずLINEを閉じた。
ブロック・削除したくても出来ない相手
女は我が身の在り方に虚しくなった。
女は気を取り直し、バスルームに化粧道具を持って行った。
女は最悪の場合、顔化粧だけでもと思い、化粧道具を持ち込んだが、事は上手く運び、邪魔者は家から去った。
女は湯船にお湯を入れ、これが最期の入浴だと感じ、身体中を念入りに洗い、まだまだハリのあるヒップに乳液を塗り、乳房も優しくマッサージをした。
女は風呂から上がり、身体を少しバスタオルで拭き、全裸のまま、リビングの姿見の前に行き、身体全身を写した。
横を向き、ヒップの上がり具合を確認し、そして、また、寝室に戻り、取っておきの下着を持ち出し、それを着け、リビングの姿見の前に行き、モデルのようにポーズを取った。
「彼、覚えているかな…、この下着、彼の好きだった下着…」
女はそう思い、哀しそうに姿見に写る自分を見つめた。
時刻は午後9時を回っていた。
女は念入りに顔化粧をし、マニュキアを塗り、耳にハートのピアスを着け、そして、香水を纏った。
女はスキャンティーの上からも香水を「シュッ」とひと掛け吹いた。
女は下半身が疼くのを感じた。
女は指で触った。
女は「あっ」と吐息を漏らした。
女は声色を確認するかのように、指をゆっくりと動かし、「あっ~、あっ」と喘いだ。
女は瞬く間に逝ってしまった。
女が、この濡れ汚れたスキャンティーを取り替える事なかった。
この香りを男に感じて欲しかったのだ。
女はジーンズを履き、白のセーターを着込み、黒のダウンジャケットを羽織った。
女は覚えていた。
「彼、私のジーンズが好きだった。彼…、いつも、お尻を触って…」と
女は歯に噛んだ。
女は今から向かう死に場所が、男、いや、彼とのデートの待合場所であるかのように思っていた。
女は次第に恐怖心が消えて行った。
今は彼に普段着の自分で会える、その嬉しさに満ち溢れていた。
「やっと逢える。やっと、二人っきりで…」
いつしか時計は12時を回っていた。
女は早めに出る事にした。
ゆっくりと歩いて向かいたかった。
女はマンションを出て、振り返ることもなく、ゆっくりと歩いた。
「あの時と同じ…」
女は感じていた。
あの35年前、彼に手編みのセーターを渡しに向かっていた二十歳の自分を…
「今度はしっかり渡すの!
私の真の愛を…」
女は片手で胸の十字架をぎゅと握り、上を向いて、歩いていった。
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