政宗が勝ち戦で笑った、そのもう少し前。
織田信長は、自分の世界に浸って熟考していた。
(う〜ん、悩むな……。あの本願寺顕如の野郎に対して、一体どう対処したらいいのか……。こっちの軍勢のほうが圧倒的に強力なはずなのに……)
そんな信長の隣で、彼の気を阻害さすまいとほんの少しも動かずに正座を続けている男がいる。
「よし、蘭丸!」
「はい!」
「甘味処に行こう」
「承知しました」
信長は住居を出て、すぐ近くに作らせた甘味処に出向いた。事実上尾張の御用達店の2号店となるものだ。
信長は足早にのれんをくぐった。後ろの蘭丸もそれに続こうとした。
すると、風が吹いた。
その風で、蘭丸の視界左端の看板が倒れた。彼はそれをただし、駆け足で信長のもとに追いつこうとした。
しかし、そこに信長はいなかった。
「いらっしゃ〜い、お一人様は珍しいねえ」
「あっ、いや」
彼は状況をつかめずに、ただ少しの間、何も言わず立ち尽くすことになった。
────
「いらっしゃいませー」
営業は2週間目に突入していた。新しく、ニーズのある本を購入したり、客の持ってくる本に値段をつけて買ったり、客の選んだ本を売ったり……。そんなサイクルが今後ずっと続くのかと思うと、何かと気が進まない。唯一思い浮かぶのは、伊達政宗との不思議な体験だけであった。
すると、風が吹いた。
それは奇しくも、自分以外全員が店を出たあとだった。
「いらっしゃいませー」
裕人は、また単純な足音に一つ挨拶した。カチャカチャと聞こえるわけではないので、鎧を着た戦国武将である可能性は低い。ただし、鎧を着ていないタイプの武将である可能性は、まだ捨てられない。
その思いで、裕人は毎度毎度入り口に向けて目を凝らす。それは、たいていハズレに終わるが、今回は違ったようだ。
贅沢そうな羽織を身にまとい、見事なちょんまげを結った男がいるのだ。 (確定だ)
彼は早足で表口に向かった。既にひと目見たので、あともう何百目か見るためだ。
もちろん、現代人から見ればかなり特殊なその衣装に見馴染みなどなく、パッと見だけでもその姿が目に焼き付くということは言うまでもない。
戦国武将なんて全員見た目は一緒なので、それだけで区別はつかない。裕人はまずその正体をつかもうとその人影に向かった。
「あの〜、すみません」
「……」
裕人の言葉に、彼は無言で振り向いた。その目つきは鋭く、思わず押しつぶされそうになってしまうほどだった。それに裕人は少し縮こまったはものの、続けて質問をぶつけた。
「お名前、なんと言うんでしょうか」
彼は心の中で、初っ端からこの質問は不味いのではと多少後悔していたが、言ってしまったものは仕方がない。今はこの威厳ある者の回答を待つのみである。
そしてその答えというものは、裕人にとてつもないショックと驚きを与えるものだった。
「織田信長だ」
「えっ?」
しばらくの間、裕人は固まった。歴史の授業で習った信長。戦国最強の信長。みんな知ってる信長。有名な信長。そんな情報でもない情報が彼の頭を駆け巡る中、その考えは一つに固まった。それは実に簡単でいて、不可思議なものだった。
自分の店に、信長がいる。
「え、あ、ごめんなさい」
「何だ?」
「織田信長さんでよろしいですか?」
「ああ、そうだが」
裕人は現実を受け入れられず、もう一度質問してみたが、イタいコスプレイヤーという可能性が消えただけという結果になった。
第六天魔王信長。信長はそう自称している。これもイタい。そんなことより、彼は冷酷無残で、人間の命のことなどそう深く考えていない男だという。それはつまり、裕人の隣に、誰の命でも脅かす人間がいるということを示唆していた。
ふと、信長の左ももに目が向いた。そこにはご丁寧に、いや、あくまでも当たり前だが、二本の長さの違う刀が差してあった。伊達政宗のときもそうだったのだろうし、彼は全く戦闘態勢の服装をしていたが、彼の刀に目が行くということなどなかった。
裕人は織田信長という言葉を聞いたその瞬間、命の危機を感じていた。もしもこの人の気にそぐわなければ、自分はまんまと首をかっ切られる。
「どうした?」
すぐ上から、さっきの声が聞こえた。自分の命を危ぶんでいるうちに、呆然としていたらしい。ここはとにかく、できるだけ厳正な対処をしよう。彼は、そう天に誓った。
「あ、はい、何でもないです」
「そうか。なら良かった」
なんでまだ二人目なのに信長なんだよ。そんなこと、言えるわけもなかった。
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