「なぁ」
「……」
「ムシすんなよ」
「またあの話でしょ」
「あの話ってどれ」
「とぼけないでよ!」
「とぼけてなんか……」
「毎日毎日訳分かんない話ばかり……もう限界なのよ!!」
感情を爆発させ、泣きそうな顔をする女性。
「そう怒るなよ」
なだめる男性。
「あなたは分かっちゃいない! なんにも」
「……俺……」
「もうやめてってば!」
「俺、ゴキブリを趣味で終わらせたくないんだ。ゴキブリで食っていく」
「ゴキブリで食うも、ゴキブリを食うも、絶対無理よ!」
男性は女性に向かって手を伸ばし、肩あたりに手を置こうとした。
それを彼女は振り払った。
「触らないで! ゴキブリにまみれた汚らわしい手で!!」
「そんな言い方……」
「何よ! おかしいのはそっちでしょ!」
「……そうか」
彼はしばし黙って彼女を見つめた後、静かに呟いた。
「……しょうがない。君とはお別れだ」
「……!!」
女性は激しく怒りをたぎらせた目で、男性を睨み付けた。
その後、ほんの少しだけ冷静な声を作って、男性に尋ねた。
「……私とゴキブリ、どっちが大事なの」
「答えたら傷つけるから」
彼は言いにくそうだ。
「とっくに傷ついてるわ! 何なのよ、ゴキブリに敗北して捨てられる私って! ありえないでしょ!? 女としての存在意義を踏みにじられたわ!」
「……君は俺が、ゴキブリを趣味にしている頃から、いい顔をしなかった」
「当然でしょ! 誰が喜ぶのよ!? よりにもよってなんでゴキブリ!? しかもペット用のマダガスカルゴキブリとかじゃなくて、家に出るやつ!!」
「分かってくれないならもういい」
「何を分かれっていうのよ!!」
男性は悲しそうに背を向けると、女性の前から姿を消した。
「なんで……なんでこんなことに……。何があなたをそうさせたのよ……」
女性は静かに泣き崩れ、一人呟いた。
彼はこんな人ではなかった。いつの間にかゴキブリにのめり込み、気づいたら心は遠く離れていた。
女性は、男性と最後に楽しく過ごした時を思い出していた。
男性は彼女の誕生日に、「光る流しそうめん機」を10台買ってきて、暗い部屋でライトアップしてくれた。
そこに彼は、夏祭りでよく見るようなスーパーボールをたくさん流した。
スーパーボールが光りながら流れていく光景に女性は喜び、「綺麗」とはしゃいだのだった。
……もうあんな、ごく普通の幸せは戻ってこない。彼の価値観は歪んでしまった。
もう帰ってこない。もういないのだ、私に微笑みを向けた彼は。
今頃彼はあの笑顔をゴキブリだけに向けているのだろう。
私の頭をなでたあの手で、数多のゴキブリをつまんでいるのだろう。
女性はそんな想像ばかりしては、毎日涙を流した。
そんなある日。
女性は、彼と近所のコンビニでばったり出くわした。
彼女は思わず、手に持っていたデザート半額クーポンを落としてしまった。
クーポンはひらひらと儚げに足元を舞う。
嬉しそうに彼の腕に抱きついている女がいた。そいつは……
「運子……どうして……」
女性の親友、運子だった。
ここのところ運子の態度もそっけなくなったとは思っていた。
が、まさか。一体なぜ。
男性が、女性に向かって静かに言う。
「運子は僕のすべてを受け入れてくれたんだ。君と違って」
……
『彼女の態度が冷たい』『趣味のゴキブリがうまくいかない』『途方に暮れている』
彼はそんな弱音を運子に漏らしていた。それを運子は密かに聞き続け、いつしか彼の心を掴んでいたのだった。
『世間は多様性だなんだと言ったって、結局真の多様性から目を背けた。俺とゴキブリをつまはじき者にした!』
そう嘆く彼の頭に、運子はそっと手を置いた。
『世間はまだ、あなたとゴキブリの素晴らしさに気づいていないんだよ。人々はゴキブリをあまりにも恐れ、ゴキブリとあなたを叩く以外に方法がなかった。でも、これからはきっと違う。……あなたは誇り高きパイオニアでしょう。卑屈になっちゃダメだよ』
運子が支え続けてくれた事実を、運子を抱き寄せながら語る彼。
ゴキブリを触った手で触れられても、運子は平気なようだった。
「……俺はこの人生、ゴキブリだけで良いと思っていた。でも運子となら……運子になら、側にいてほしいと思った」
「……何よ、私が悪いっての」
「君が悪いわけじゃない。俺たちの道は……別々だったってだけだ」
「……あんたたちどっちもおかしいわ。もういい、あんたたちへの興味も愛情も完全に失せた。さよなら」
女性は泣きそうになるのをこらえ、足元のクーポンを拾ってコンビニを出て行った。
まさか運子まで私を裏切るとは。
一体何が起こったのか、女性には理解が追いつかなかった。
「……何なのよ、あいつら。なんで急に頭おかしくなったのよ。自分が何か特別な人間だと思い込んだゴキブリ男と、そこにつけ込んだゴキブリホイホイ女め……! あんなやつらを今まで、大切な存在だと思っていた私がバカみたいじゃない!」
「あの二人はきっと、悪いトイレにでも入って、ゴキブリの霊に取り憑かれたんだわ」
「それか、私のことを嫌う何者かが、私を孤独にさせようと、二人に呪いをかけたのかもしれない。どこかでそいつが私を嘲笑っている気がする」
自分を納得させようと、いくつか仮説を立てた女性。しかしその後、急に冷静になった。
「……バカバカしい。何もかも無かったことにしよう」
考えるだけ時間の無駄。過去は取り返せない。なら、今から切り替えるしかない。女性は自分に言い聞かせた。
思いを振り切るように、勢いよく部屋に帰った女性。
その部屋のど真ん中に……黒光りする昆虫が鎮座していた。
「ゴキブリ……」
女性の人生を狂わせた元凶。憎きあの二人のお気に入り。
女性は思わず、感情的にゴキブリを踏みつぶそうとした。
が、人生のみならず、靴下と部屋までゴキブリに汚されるのは悔しかった。
彼女は殺虫剤を使うことにした。しかし殺虫剤はもう中身がなかった。
「何してんのよ、私のバカ」
自分の不手際に焦りながら、部屋を見渡してゴキブリを仕留められるものを探す彼女。
しかし不意に、「彼と運子の心を、あそこまで狂わせたこの虫とは、一体何なのか?」という疑問が沸き上がった。
彼女はその場にぺたんと座り込み、ゴキブリを覗き込んだ。
女性の眼差しには、憎しみと、悲しみと、寂しさと、その他諸々の複雑な感情がこもっている。
ゴキブリの艶やかな背中と、流れるような翅脈。長い触角と、トゲトゲした脚……。彼女は、見るとはなしにそれらを眺めた。
ゴキブリの独特な形の目は、どこを見ているのか、そしてどういう表情をしているのかよく分からない。が、困ったようなたれ目……泣きそうな顔にも見える。
ゴキブリはこの謎めいた表情と、脂ぎった輝きと、トゲトゲの脚で彼らの心を捕らえたのだろうか。
ゴキブリがこんな形をしていたなんて。彼女はまるで、今までゴキブリを見たことがなかったような気持ちになった。
この生き物の姿は、完璧かもしれない。ゴキブリの瞳の輝きは、流しそうめん機やスーパーボールの美しさと、同じなのかもしれない……。
失う物がもうない彼女は、ゴキブリと向き合ったこの瞬間……
唐突に何かが吹っ切れ、悟りを得た。
その後、彼女は再びコンビニで男性と運子に会ったが、もう握りしめたデザート半額クーポンを落とすことはなかった。今度こそデザートを買うと決めていたのだ。
女性は満面の笑みで二人に「お幸せに」と言った。
その言葉に、嫌味な響きはない。
その後も女性は、スーパーのおもちゃ売り場や、ゲームセンター、児童館の絵本読み聞かせ会、公民館の映画上映会などで、二人とばったり出会った。
が、彼女の心にもう、怒りや嫉妬はない。彼女の心は二人と同じく、ゴキブリに向かっていたのだった。
ある日回転寿司店で、また女性は二人と偶然会った。
女性の穏やかな目を見た運子は、微笑みながら話しかけてきた。
「ゴキブリのこと……喋る?」
三人はぽつりぽつりと、思い思いのゴキブリ像を語った。
ゴキブリとの今までのこと、そしてこれからのこと。
女性が急にゴキブリに目覚めたことも、彼と運子は温かく受け入れた。
いつしか三人は、ゴキブリトークで盛り上がっていた。
女性がかつてない喜びを感じたその時、隣の席の人から「バカヤロー! 飯がまずくなるだろ!」と怒鳴られた。
「……うち、来る?」
怒鳴られたことなど気にも留めない様子で、運子がにっこり微笑んだ。
その後、女性は運子と男性とゴキブリと一緒に暮らすことになった。
女性は、親友の愛も彼の愛も取り戻し、さらに、新たな生き甲斐を得たのだ。
運子はその後、ゴキブリに魅せられた人間をどこからともなく拾ってきては、自分の家に住まわせた。慈愛に満ちた運子の笑顔はゴキブリと共にますます輝き、運子の家のゴキブリも増えていくようだった。
こうして三人は、仲間たちやゴキブリに囲まれ、末永く幸せに暮らしたということだ。
おしまい。
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