「何か不満でも?」
狭い車内。ハンドルを握っているゴトーはちらりと隣に座る男の様子を窺った。
「もう少し温度下げてもいいんじゃないかな」
「このくらいが丁度いい」
きっぱりと告げる彼女に対し、男は諦めたように座席へ背中を預けた。
「……近いうちに何か行動を起こしたい。だが金色の魔女はもちろん、時宮葵やリニア・イベリンがどのように動くかもわからない、君も協力してくれるね?」
「私はお前を守れと言われている」
「助かるよ、ありがとう。君を派遣してくれたベルコルも、思っていた以上に中々良い奴だったんだな」
「……わかればいい」
***
「リニア・イベリン」。彼女がこの名前にしてから五年、あるいは四年が過ぎた。正確な年数は彼女自身でさえ把握していない。それでも彼女はこの名前を気に行っていた。
以前の名前は非常に長かった憶えがある。それ故、家の者は彼女を『ロミ』と呼んでいた。しかし、ロミという名前を彼女はあまり好きではなかった。それは彼女の幼少時代を象徴する名前であり、自身が家に縛られていた頃の記憶を必ず呼び起こすからである。
彼女の父親は子供に対し、あまり関心がなかった。決して心を開くことはない。彼女はそんな父親を軽蔑していた。『余裕がない人』│自身を乳母やハンスに預けるほどに、彼は余裕がない人なのだろうと彼女は今でもずっと思っている。
「……」
トイレの鏡に映る自身の顔をリニアはじっと眺めていた。
窓の外では微かに水滴が落ちる音がする。雨が降って来たのだろう。
鏡に映る彼女の顔はどこか影が落ちている。普段の様子とはまるで正反対だ。鏡を見ると自身と正面から向き合わなければいけない。それは単に表面的な部分だけでなく、彼女にとっては自身の現在もそこに映し出されている様な気にさえなってくるのだ。
│自分は一体何をしているのか。何のため、誰のために生きているのか。
「えいっ」
漠然と浮かぶ不安を打ち消すように、リニアは両手で自身の頬を叩いた。
「笑顔!!笑っていなきゃ!!」
彼女はにこりといつも通りの笑顔を映す。いや、映したつもりだった。しかし次の瞬間、その顔は先ほどの無表情に戻っていた。
この笑顔は偽物なのではないか。他人の前でだけ見せるためのものではないのか。本来の私の表情はこんなものではないのではないだろうか。
再び彼女の心中に広がる不安。
「それでも│、」
周りも私と同じはずだ。他人の前では良い顔をする、笑顔でいる。それは悲しいことだが仕方がないことだ。当然の事のはずだ。
「しっかり。リニア・イベリン」
鏡の前の自身に向かって、彼女は再び呼びかける。リニア・イベリン│イベリン。決して捨てることのなかった名字。
彼女は気付いている。何故名字を捨てることができなかったのか。
自身の子に関心を示さなかった父親。きっとそれは彼女のトラウマとして今も心中に植えつけられているのだろう。彼女は自身を見てもらいたかった。家を出て、魔法士になった。 それでも父親は彼女を視界に入れることはない。彼女は今でも思っている。
│本当に最後まで余裕のない人。
***
「ふああぁ」
思わず零れる欠伸。俺は睡魔に抗うように顔を上げる。図書室前の渡り廊下で俺はぼんやりと校舎裏を眺めていた。
「……結局、あの男は何者なんだ」
先ほどの研究室前での一件。彼は何故、金色の魔女という名を知っていたのか。疑問ばかり浮かぶが、どうやら俺の脳はだいぶ疲れているらしい。まるで脳が強制的に瞼を閉じさせようとしている気さえ│、
「みーつけた!!」
突然響いた声に、ぱっと俺は目を開いた。振り返ると、そこにいたのはリニアだった。
「お前……やっと起きたのか」
「ごめんごめん」
彼女は悪びれた様子を一切見せず、いつものように笑っている。普段なら小言のひとつでも言ってやる所だが、実際のところわざわざ起きて、彼女が大学まで来た事に俺も驚いていた。
「何してるの?聡太」
「別に」
俺は大きく伸びをする。そして何となく落ちていた石ころを拾うと、壁に無かって投げた。
「壁に八つ当たり?何かあったの?」
「何もない」
素っ気なく答えたはずなのに、彼女はニコニコと笑いながら俺の隣に腰を下ろした。そして当たり前のように腕に手を絡ませてくる。
「離れろ」
「え!!この程度のスキンシップならいいじゃない!!」
「重い」
「……余裕のない人」
「はあ?」
ふと、彼女の口から洩れた言葉。思わず聞き返すと、リニアははっと我に帰った様な顔で首を横に振った。
「何でもない、何でもない!!」
「……」
しばらく俺たちは会話をすることなく周囲を眺めていた。
長期休暇期間、滅多な事では学生も学校に来ることはない。彼らには皆、理由があって今日ここにきているのだろう。
│目的。理由。
「あー……ただでさえ、頭ん中ぐるぐるしてるのに余計なことを」
傍にリニアが居ることも忘れ、ふと口をついて出てきた言葉に彼女はいち早く反応する。
「何?悩みがあるんだったら、このお姉さんに全部言っちゃいな!!」
自身たっぷりな顔で胸を張るリニア。彼女を見ていると│、
「お前さ」
「ん?」
「どうして魔法士になったの?」
唐突な質問に彼女も、俺自身も当惑した。
「えっと……ど、どうしてなったんだろうね」
空笑いをして頬を掻くリニア。まずい質問だったのかもしれない。そう思った頃には、もう彼女の中では決心がついたのか、リニアはゆっくりと口を開いた。
***
「私の家はね、すごい金持ちで私は何不自由ない生活を過ごしていたの。でもね、そんな表面的に裕福でも私の心はいつもさみしかった。周囲の人間との会話、親とさえ満足に会話をすることもない。したとしても、そこにはいつも礼儀や気品を求められる堅苦しい世界」
リニアの顔はいつになく真剣だ。そしてとても辛そうである。
「聡太?」
思わず俺は立ちあがっていた。
「話したくないなら、無理に言わなくていい。辛い話ならしなくてもいい」
「あ、私そんなに怖い顔してた?」
「別に俺もそこまで知りたいわけじゃないし……仲のいい関係でも秘密の一つや二つあるものだろ。だから無理して言う必要はないってこと」
すると先ほどまでぎこちなく笑っていたリニアは、ふっと優しげに微笑み、
「ごめんね」
「……いや、俺の方こそ。なんかごめん」
俺は彼女の顔を見れずにいた。じっと、降り出した雨を眺めている。
「うん……いつかちゃんと話すよ。誰かに聞いてもらいたいからさ」
ちらりとリニアの顔を横目で伺うと彼女はどこか遠い景色を眺めているようで│。
「なら、その時を俺も待ってるよ」
「うん」
にこりと笑う横顔は、やっといつも通りのものへと戻っていた。
そして彼女は勢いよく立ちあがる。
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