翌日。
先輩に教えてもらった教室の前には俺一人がいた。リニアも一緒に行くとは言っていたものの、見かけより酒が弱い彼女は昨晩、幼稚園に戻る前にダウンしてしまった。結局俺が彼女を背負って帰ったわけだが。
そのような経緯で俺は今、先輩が言っていた講座を受けている。金髪の外国人先生は、英語を交えながらも非常に流暢な日本語で講義をしており、一般の教授と変わらないほど聞きとりやすい内容だった。講義自体も普通のものとさほど大差は無い。
先輩が面白いと言っていたのは何だったのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら受けていると、あっという間に三十分もの時間が流れていた。特に物珍しいこともない退屈な授業に、思わずため息を零す。
そしてちらりと窓を眺めた。きっと顔には情けないと書いてあるだろう。講義が始まってから気づいたのだが、先輩の姿が見当たらない。昨晩はそこまで酔っていなかったはずだ。おそらく面倒臭かったのだろう。つまり何が言いたいのかと言うと、俺は先輩に騙されたのだ。
「いやいや、ポジティブにいこう」
俺は心に積る重たいものを払うように、顔を上げた。そうだ、仮にもこれは講義だ。必ず俺のためになる内容があるはずだ。
事実俺のほかにも生徒はおり、彼らは俺とは違い、熱心な様子で授業を聞き入っていた。俺だけがこんな気持ちでいるのは失礼ではないか。
「しかし│、薦めた人間はサボり。一緒に来ると言ってた人間は寝坊」
どうにも意欲的になることは難しかった。
「大体、これは何の講義なんだ……」
「それじゃあ、最後に今までの流れを整理してみましょう」
気がつくと講義は終盤に差し掛かっていた。六十分講義なのか。
さっさと終わらせて昼飯を食べに行こう。その後は普段通り、図書館に行って│、
「一般的にコミュニケーションというものは、情報や意思の伝達、それを解読する過程を言います。よく『言葉の意味が解らない』という言葉がありますが、これはまさに相手が自身の言った言葉│情報、あるいは意思を解読できない時に使われます。そこではコミュニケーションは成り立っておりません。我々はコミュニケーションを成り立たせるために、相手に自身の意志を伝える努力をしなければいけません」
生徒を前に講師は熱心に語った。三十代半ばの西洋顔に綺麗な金髪が映える。一見気難しそうな外見だが、あまり整っていないひげがラフな印象を与え気さくな雰囲気にも見える。
「コミュニケーションを成立させるためには、まず情報あるいは意思を持っている者と、それを受け取る相手が必要です。しかし、テレビのニュースやマスメディアはコミュニケーションとは言えません。あれらは情報を一方的に流すのみ│というのもありますが」
そこで彼は言葉を切ると、口元に手を当てて考え込んでいた。
「ええと……すみません。上手いこと合う日本語が見当たらないというか、難しいですね」
照れくさそうな表情で外国人教師は謝罪する。すると、よくあることなのか周囲の生徒はくすくすと笑みを零していた。
「まあ、これも私という個人の考え方なので、皆さんは皆さんで独自の考えを出して下さいということにしましょう。大体、こんな難しい題を六十分で説明できるわけがないですからね」
困ったという風に両手を上げると、講師は再び生徒に向かって口を開く。
「よく本ではコミュニケーションは符号を解読する事と言われていますが│、人と人の対話で解読するのは頭ではなく心です。コミュニケーションは相手を理解しようとする行為だと、私は思うんです」
まるで語りかけるように話し終わると、講師は今までとは一転して気楽な様子で身体を伸ばした。
「元々、この講義は別の方が担当する予定だったんですけどね、偶然私のところにこの大学で親交のある人間から連絡があって来たんです。誰も生徒がいなかったらどうしようと思いましたけど、良かったです。皆さんありがとうございました」
最後にと講師はぐるりと教室中を見渡す。だが俺の方を見ると、どこか確かめる様な視線でしばらく見つめていた。
俺が正規の受講生じゃないとバレたか……!?申し訳ない気持ちで俺はさっと視線をずらすと、しかし講師は暖かな笑みを向けてきた。
「誰かに連れてこられたのかい?」
「え?」
「見かけない顔だったからね。知り合いにでもこの授業に出るように勧められたのかい?」
俺は意味がわからないと言った顔をしていたのだろう。講師はニコニコと笑いながら再び口を開く。
「生徒たちには言っておいたんだ。自分の代わりに誰かを出席させれば本人も出席扱いになるってね」
やはり俺は先輩に騙されただけだったのか。予期していた真実を打ち明けられ、一気に疲れが出てきた。そんな俺を周囲の生徒もニコニコと笑いながら見ている。なんだか不思議な気分だ。
「とにかく最後まで聞いてくれてありがとうございます。それでは最後に│、この講義は冬休み一杯で終わりです。おそらくあなた方が私と会う事ももうないでしょう。それでも私の授業を通して、より一層あなた方が学問への追求を深めてくれる事を願っています。我々が勉強するということは、人間の好奇心や名誉、金銭など様々な理由がありますが、やはり私はこれに尽きると思います。勉強をすれば一人の人間として自身の役割を果たす事が出来る可能性がより広がると。これが我々が勉強│すなわち何かを学ぶ理由だと私は思っております。それでは、これで本当に最後にしましょう。ありがとうございました」
講師が深々とお辞儀をすると同時に、終了のチャイムが鳴り響く。生徒たちも各々帰宅の準備を始めだした。俺も教室を後にしようとしたところで、ふと、講師が俺の目の前に立っている事に気付いた。
「あ、あの」
「君、少し付き合ってくれないか?」
***
四階の学科研究室。講師の後に続いて俺も中に入った。研究室内は思っていたより片付いていて少し意外な印象だ。
「臨時の場所だからね。そこまで私物はないんだ」
まるで俺の考えを見透かしたかのように答える講師。ただでさえ普段近づかない場所にいるせいか、やけに心臓の鼓動が早まっていた。
「ふむ、結構疲れたね。さて、君は知り合いの薦めで来たということで良かったんだっけ?」
「は、はい。知り合いの先輩に勧められて」
「大丈夫だよ。そういう生徒はよくいるんだ。それにしても随分と疲れて見えるね、バイトや勉強で忙しいのかい?」
「そうですね。でもまあ他の人も同じように大変でしょうから。それに今日疲れているのは……昨晩遅くまでお酒を飲んでまして」
恥かしかったが、実際昨日はバイトに行ってないので思わず本当の事を漏らしてしまった。すると講師は呆れた表情を見せるでもなく、大きな声で笑い始めた。
「つまり二日酔いということか!」
「は、はい」
先ほどの講義をしている様子とはまるで違う。とても気さくで話しやすい雰囲気だった。
「先生はどちらの国の人ですか?」
「私?私はオーストリア人だよ」
「日本語上手ですね」
「そう?ありがとう」
当たり障りのない会話を終え、研究室内は沈黙に満ちた。特に話す内容もなく微妙に気まずい。
「えっと……何か話があったのでは?」
「ん?あー……そうだね。特にはないよ。ただちょっと君と話してみたかっただけだ。この部屋に来たのは君が二番目でね、中々誰も来てくれないんだ。だから時々遊びに来てくれると嬉しいんだが」
「は……はあ」
要は雑談相手が欲しいのか。あの時偶々目が合ってしまったから、連れてこられたのかもしれない。
彼と話をしたくないわけではないが、どこか気まずい。俺は早々にここを出るべきと判断し、ゆっくりとドアの方に後ずさった。
「えっと、すみません。ちょっとこの後用事があるので」
「そうか、またきてね。鈴木聡太くん」
「……どうして俺の名前」
「出席簿に名前があるじゃないか」
「……俺はさっきの授業、正規に登録していないはずですけど」
すると講師は、あっと小さく息を漏らし、
「最初にアンケート用紙を渡した時に見たんだ」
そういえば一番初めに何かのアンケートで名前を書いた覚えがある。つい自分の名前を書いてしまい、正規の生徒ではないかとばれるか不安だった。しかし、名前を書いただけで俺だとわかるのか。
妙な気分に囚われたものの、俺は再びドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、失礼します」
「うん、また遊びにおいでね」
そして俺は研究室のドアを閉める│その瞬間、
「そういえば、金色の魔女は息災かな」
***
聞き間違いだろうか。
金色の魔女│先生を知っていた?何故?どういうことだ?
俺はドアノブを握りしめたまま、たった今出てきた扉を見つめていた。入る時とは違う、それは巨大でとても重たい鉄の扉の様にさえ思えてしまう。
俺の聞き間違い、きっとそうだ。そうにきまっている。研究所の人間が大学内にいるわけがない。頭の中で必死に自身にそう言い聞かせるも、体は正直だった。額に浮き出る冷や汗が止まらない。俺は急いで階段を駆け降りると、逃げるように校舎を後にした。
***
「やばい、やばい、やばい!!」
大学構内の敷地を全速力で走り抜ける女性。彼女の額には冬だというのに、うっすらと汗がにじんでいた。服装もやや寄れており、慌てて家を出てきたことが明らかである。
「もう!!あのバカ、起こしてくれてもいいじゃない!!私の記念すべき初登校がー!!」
構内に虚しくこだまする彼女の嘆き。彼女│リニアが目覚めたのは、昨晩鈴木と約束した講義の終了十分前だった。勢いよく飛び起きた彼女は転がるように幼稚園を後にし、ここまで走り続けてきたわけだが│、
「やっぱり遅かったか……」
教室内の生徒は僅かしかおらず、彼らもすぐに教室から出て行った。案の定、彼女は講義に間に合わなかったのだ。だが、学内デートの夢が潰えたわけではない。リニアは顔を上げると、再び構内を走り出した。
「きっと聡太は図書室にいる……!!」
入口で見かけた構内図を思い出し、リニアは一直線に図書室へ向かった。
「たしかこの駐車場を抜けた先に……」
ふと、彼女の視界に車の前で佇む女が映った。何てことはない、特に気にすることはない一場面。リニアはすぐに視線を戻し、図書館へと足を進める。
「……」
その後ろ姿を女はじっと見つめていた。それはまるで驚きと怒りを混ぜた様な冷たい視線で。
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