鈴木を怒らせてしまい、一人黙々と洗濯物を干していたリニア。彼女の傍に、奏は音もなく近づいていた。そしてじっと、彼女に視線を送り続ける。
「あれ?奏。いつのまに帰ってたの?」
「さっき」
「え、全然気付かなかった!!」
「聡太も気づいてなかった」
「聡太とすれ違った!?」
男の名を聞くや否や、リニアはさっと奏へと顔を向けた。
「あ、あの……奏さん。彼、何か言ってましたか?」
彼女は恐る恐る男の機嫌を伺いたいようだ。奏もその意図を汲んでいるのだろう。
「……」
「何で黙ってるの!?」
「……殺されるかと思ったって」
ぽつりとありのままを証言する奏。それに対し、リニアの顔は徐々に険しいものへと変わっていく。
「あれは愛の抱擁に決まってるでしょ!!」
「本人はだいぶ辛そうだったけど」
「愛っていうのはね、苦しみを伴いながら成長するものなの」
「……」
ひとりで陶酔するように頬を染めるリニア。そんな彼女に何を言う事もなく、奏は淡々とした表情で一部始終を見ていた。
「奏ちゃん?帰って来てるの?」
突然奥の部屋から、スリッパを引きずる音を立てながら魔女│天城紫乃が顔を出した。
「ふたりとも、そんなとこで何してるの」
「愛について」
「愛は辛いものらしい」
全く要領の掴めない二人の解答に、思わず天城も顔をしかめる。そしてつい先ほど、玄関ですれ違った青年を思い出した。
「そういえばあの子、咳込んでいたけど……風邪でも引いたのかしら」
「あ……あはは、たぶん大丈夫かと」
苦笑いをして明後日の方向を向くリニア。非常にわかりやすい。天城は彼女が何かしでかしたのだろうと推測した。
「そういえば」
天城は一呼吸置いてから静かに奏へと顔を向けた。
「あの子、何か言ってた?」
「……リニアに殺されかけたって」
「ご、誤解!!」
冷静な声音で答える奏と、慌てふためくリニア。いつもの彼女なら微笑ましげにその光景を眺めているが今日は違った。
「リニアは?あの子から何か聞いてない?」
唐突に話を振られたリニアは、一瞬戸惑いを見せるも今日の出来事を淡々と述べていった。
「これといって特別な話はないけど……強いて言うなら、聡太、今日は冬期講習に行ってました。本当は私も行く予定だったんですけど、二日酔いでして」
小さく舌を出しておどけるリニア。それでも天城は真剣な表情を崩さなかった。
「彼、何の講義に出たの?」
「忘れました」
「だと思った。さすが私の弟子ね」
「いたっ」
天城はリニアの頭を軽く小突いた。顔は笑っているが、心中穏やかでないのは明らかだった。
「あ、でもでも。講師の名前は覚えてます」
「あらほんと?」
「たしか……エドモン。エドモン・ハイティントンって」
「エドモン・ハイティントン……」
その名を聞くと、すぐに彼女は先ほどの険しい顔へと戻った。
「先生、知ってるんですか?」
「ええ……そうね」
「そんなに有名な講師だったんだ」
驚いた表情を浮かべるリニア。彼女の前で天城は盛大なため息をついた。しかしこれは、彼女の無知故に零したものではない。
「それで?その男の講義を受けてきたって?」
「そう言ってました」
「あいつ……一体どういうつもりで……」
一気に疲れがやってきたのか、そんな様子を見せる天城に、ついリニアも聞き返す。彼女は隠す事もなくリニアに答えた。
「エドモン・ハイティントン。おそらく私が知る中では、世界中で最も顔が広い男と言っても過言ではないだろう。急進派にも穏健派にも属さない、いわば研究所の仲裁役とでも言うべき存在。協会が捕えようにも、上手い口実が見つからない、面倒臭い男よ」
研究所の名を聞き、思わずリニアも目を丸くする。
「同姓同名という可能性は……」
「だといいけど。その講義、コミュニケーションがどうとかってやつじゃなかった?」
「あ」
リニアの反応で魔女の推測は確信へと変わった。彼女はすぐさま何か事が起こった時のための対策を頭で考え始め、ふと、先ほどの青年の動きを思い出す。
「彼はどこに行ったの」
「外に行ってくるって」
奏はほんの少し不安げな顔で魔女を見上げた。彼女の表情は未だに強張っている。
「彼が一体どういう考えであの子に近づいたかはわからないけど……彼も研究所の一員、何を仕出かすかわからないわね」
「私行ってきます」
リニアは急いで玄関へと向かうが、その手を魔女が掴んだ。
「待ちなさい。考えなしに飛び出しても時間の無駄だ」
「でも……」
「しっかりと対策を練ってからにしなさい」
「そんなことしてるうちに聡太の身に何かあったらどうするんですか!」
リニアは魔女の制止も聞かずに、再び玄関へと走り出した。そんな弟子の背中を見送ると、魔女は深いため息と共に大きく頭を項垂れた。
「どんな時も冷静にって……ハンスの指導がなっていないのか。それとも、あの子のためなら走り出すのも無理ないってことかしら」
魔女は顔を上げる。そこには仕方がないと、まるで我が子を見守るかのような顔があった。
「さてと。大丈夫よ、奏ちゃん。今回はリニアに任せましょ」
「……はい」
奏の声色からは明らかに恐怖が伺える。すると魔女は、彼女と同じ視線になるまでしゃがみ、そっと頭の上に手を乗せた。
「今回の相手はそこまで暴力的じゃないから。鈴木君もきっと無事よ。あの男が接触してきた理由も何となくわかってきたし……あの子に真実を告げてしまうかもしれないわね」
「……」
奏は何も言わずに鈴木、そしてリニアが去っていった玄関を見つめる。
「リニアはね、表面的には明るくやってるけど実際の所、非常に不安定。だからきっとあの子は鈴木くんに惹かれているのよ」
「……」
「奏ちゃんもそろそろ本気出さないと奪われちゃうかもよ?」
魔女がこそりと奏に耳打ちすると、彼女の顔は一瞬でゆでダコのように真っ赤になってしまった。
「私は別に……そんなんじゃない」
「冗談よ、冗談」
魔女は楽しげに笑うと、ゆっくりと腰を上げた。
「さてと。万が一のために私も準備しとくか」
彼女は大きく伸びをすると、つい先ほどリニアが閉めたばかりの窓を開ける。冷たい冷気が一気に室内へと入りこんできた。
「そろそろ真実を知るのもいいかもしれない、成長した今ならきっと君も大丈夫だ」
そう言って魔女は、冬空の下に見える街並みに向かい、穏やかな笑みを浮かべた。
***
「やあ、いらっしゃい」
「……」
俺は部屋の真ん中で腰掛けている男│ハイティントンをじっと凝視した。彼も俺からの視線を逃れる事なくじっと見つめ返す。口元には穏やかな笑みを浮かべており、俺が睨みつけているはずなのに、何故か彼からの威圧感を凄まじく感じた。
「お茶でも飲むかい?」
俺は何も答えなかった。すると彼は小さくため息を零して、椅子から立ち上がるとカップを取り出した。そして食器棚からお茶のパックを出し、慣れた手つきでお湯を注ぐ。カップに注がれるお湯の音のみがこの空間に響いていた。
「別に何も入れてないから安心していいよ」
そう言って男は、これ見よがしにカップに口をつける。俺は目の前に置かれたお茶をちらりと見た後、すぐに男へと視線を戻した。
「何か言いたいことがあるんだろう?いや、聞きに来たというべきか」
「……先ほどの話ですが」
「先ほど……君がここに来た時かな。何の話だっけ」
ハイティントンはふざけているのか、あるいは俺を試しているのか。必死に思い出すように首を傾げた。
「金色の魔女」
この言葉だけで充分だった。男はすぐにぴんと来たかのような顔をして、首を縦に振る。
「あなたは先ほど金色の魔女について聞きましたよね。彼女は最近どうしているのかと」
「うん、聞いたね。別に深い意味はなかったんだけど。ただ元気にしているのかなって位で」
「俺が聞きたいのはそうじゃなくて、金色の魔女と言う名前です。どうしてその名前を知っているんですか。いや、あなたは何者ですか?」
俺の質問に男は非常に落ち着いた様子で再びお茶を口にした。
「その前に、あなたっていうのはおかしいじゃないか。礼儀がなってないよ。そうか……一応自己紹介しておこう」
「エドモン・ハイティントン。教授じゃないですか?」
「ああ、間違ってないよ。それは私の本業だ」
「本業?」
男は俺に向かって二コリと笑いかけた。そして│、
「私の職業は研究者。というのは間違いではない。けれど調律師でもあるんだ。人と人の関係をいいように保つ役割とでも言えばいいかな。もちろんetcだとか非科学的なものを用いてじゃない。ちゃんとしたコミュニケーションを実践した上でだよ」
調律師?
思わず俺は眉をひそめた。ハイティントンは俺の理解が追いついていないと察したのだろう。すると、彼は決定打とも言える単語を口にした。
「私は研究所の人間だよ。もちろん君が知っている方のね」
「な……っ!!やっぱり研究所の人間か!!」
すかさず俺は懐に手を突っ込んだ。万が一に備えて、あらかじめ用意しておいたペンと数枚の紙がそこには入っている。防御くらいは出来るはずだ。
俺は男の手、腕、足、全ての動きに注視して少しずつ距離を取っていく。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。私は彼らとは違って全く戦闘力がないから」
そう言って、男は再びお茶を飲む。
「うーん……やっぱりこの味は私には合わないな」
本当はただの一般人ではないか。そう思うほどに彼からは殺気│戦おうと言う気が感じられず、俺も腕に込めていた力を緩めた。
「さて。私の用事は大したことじゃないんだ」
「研究所の人間が大学に用なんてあるのか」
「いや、用があったのは君にだよ。鈴木聡太くん」
「俺……?」
再び俺は警戒態勢へと入る。そんな俺を見てか、ハイティントンは呆れたようにため息を零した。
「だから、私は別に君に危害を加えようと言う気はないんだ。落ち着いてくれ」
男は窘めるように俺へと視線を向ける。そして静かに口を開いた。
「三年前」
その言葉に思わず俺は反応する。しかし男は構わず続けた。
「三年前、ingショックと言う事件……戦争があった。協会と研究所が数百年ぶりに衝突した大規模な争いだ。この事件の結果、この二つの間は未だに冷戦状態であり、更にもう一つの勢力の台等、三つの勢力関係が生まれた。当事者の君はよく知っているだろう」
「……ああ。あなたも参加していたのか」
「そうだよ、私は研究所を戦争に駆り立てたと言っても過言ではないかな」
その言葉を聞き、俺は知らずと握りしめた拳に力が入っていた。
「まあまあ、落ち着きなさい。過去の話だよ。それに駆り立てたと言っても、あれほど大きな争いになるとは思っていなかった」
「……それであなたの用件は何ですか」
「用件?だから言ったじゃないか。君だよ。君に会ってみたかったんだ」
男の言いたい事が全くわからない。
かつての敵の一人を見ておきたいと言う事だろうか。しかし、実際に前線に立っていたのはどちらかというと俺ではなく葵だ。俺は戦っていたというよりは戦うための訓練の方が多かった覚えがある。
「ふむ……どうやらその顔は全く知らないようだね」
「知らない?何をだ」
「君は何も知らずに戦争に参加していたのか?」
妙に男の言い方が腹に立つ。彼の方が多くの情報を持っているせいだろうか。
それとも│、
「俺は教えてもらえないのならいい。きっと悪い内容だろうからな。俺は何も知らないという事に不満はない」
「……不満はない。か」
「……ただあの戦いが長引けば、何かもっとひどいことが起こりそうな気がした。それだけでも充分戦う理由にはなるだろ」
「真実を知らなくても?」
ハイティントンは何度も問いかけるように俺を見据える。
「教えてくれる人がいなかった。それに隠していることを無理に言わせるつもりもなかった」
「その真実が非常に重要なものだというのにも関わらず、君は見ないふりをしたんじゃないか?」
「……それの何が悪い。知らない方がいいこともあるだろ」
「どうも私には、君がただの現実逃避をしたがっているようにしか見えないな」
「違う!!」
男の言葉に思わず俺は声を荒げた。
「俺は現実逃避なんかしていない!!」
「いや、したよ」
「……ふざけるな。目の前で戦いが起こった。それに対処するのに俺は精一杯だった。そんな状態で本当のことだとかを聞いてる余裕があると思うのか!?何も知らないくせに知った様なことを言うな!!」
「……そうだな」
男には俺の勢いに気圧された様子がまるでなかった。彼は小さく笑みを零し、
「結局、君は断片的な情報を頼りに、それを正しいと判断し戦っていた。うん、全てを知らないと言うのは後々、あの戦争による後遺症も少ないだろう。それもいいかもしれないね」
│戦争。ああ、そうだ。あれは確かに戦争だった。犯人を捕まえるだけの探偵ごっこでもない。俺はそれを痛いほどわかっている。そのつもりだった。
「それでも君は真実を聞くことはなかった」
「そうだ」
「聞きたくなかったのだろう?」
俺は鋭く目の前の男を睨んだ。
「悪かった、私も君を怒らせるつもりはないんだ。落ち着いてくれ」
「俺をからかっているのか」
「そのつもりはないけど……悪戯が好きだという点は否定しないね」
ハイティントンは依然として飄々とした態度を続けている。
「当時の君は高校生だったね。まだまだ不安定な子供だ。そんな君に真実を告げるのはまずいと判断したのだろうな」
「いい加減、さっさと用件を言ったらどうだ」
「君はもう子供じゃない。責任を負わなければいけない……そう、君は私の授業をかなり真面目に聞いていたようだったね。けど一見して、私には余裕がないように見えた。日々を大切にし過ぎて、現在よりも過ぎ去っていく時間に追われているようだ」
不愉快だ。
初めて会った人間に自分を評価されるのを黙って聞いていられるわけがなかった。
「残念ですけど、俺はそんな性格じゃないですね」
「本当かい?少なからず当たっているところがあると思うんだけど……余裕がなさ過ぎて現実というものに執着するタイプ。分かりやすく言うとね、君は三年前に非常に多くの非常識なことを経験してきた。だからこそ、そんな過去とは正反対の現在を、現実を必死に過ごしているようだと言いたいんだよ」
「……」
俺は何も言わずに男の意見を聞いていた。
「別にそれを悪く言うつもりはない。賢明な判断だと思う。しかし、どうも私はそれが気に入らない。戦争を経験しておきながら、何も知らないと言って臭いものに蓋をするように現実を生きると言うのはおかしくないか?」
厳しい口調とは裏腹に彼の顔には未だ笑顔が張り付いている。そして、
「これでも私は結構心が狭くてね」
そう言って男は立ち上がると窓を開けた。冷たい北風と部屋にかかった暖房の風が混ざり合い、妙に気持ち悪い。
「ing……自身の運命を開拓する能力として知られている」
「それは俺も聞いた事がある」
その言葉に、彼は驚いて俺へと振り返った。
「誰に聞いたんだ?」
「怠惰のロベルト」
「ははは!!あのロベルトがそんなことを教えたのか!!私以外にも気に入らなかった奴がいたとは……しかし、あのロベルトとはね」
男は大きく笑い声を上げると、再び俺の顔を見据えた。
「ingがどういった能力かは聞いているのか?」
「いや、詳しくは知らない」
「そうか、彼も中途半端に教えたものだな」
そう言って、彼は講義をしているかのような口調で説明を始めた。
「ing。それはetcの中でも非常に特異な能力だ。自身で運命を開拓すると言う事は、自身で自身の未来を決定できると言う事だ。これはあらゆる場面で応用ができる。それ故にあのingショックという事件は起きた」
俺は黙って彼の説明を聞いていた。男も大して俺の反応を待っている様子でもない。
「etcは保有している人間が亡くなれば、違う人間にその能力が移る。それはまだ覚醒をしていなかった人物、且つ亡くなった人間と同じような性格、心の在り方をしている人間だとされている。まあこれは我々研究所が発見したものだから、そうだという確証は未だ得られていなのだがね」
「……それがあなたの言いたかった本当のことというやつですか?」
「いや、これにはまだ続きがある。このingという能力が三年前、ここ日本で君が住んでいるこの地域で発見された」
「ここで……?」
│それはつまり、
「研究所はing保有者を探した。元々この地には既に二人のetc保有者が観測されていたが」
│やめてくれ。
「もう君もわかっているのだろう」
「黙れ!!」
「ingを保有していたのは君だ、鈴木聡太くん。ingショックは君のための舞台だったんだ」
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