***
「けほっ」
思わず零した咳には、肺からの空気だけでなく鉄の味をしたものまでも含まれていた。銃弾で穴の開いた足から再び激痛が駆け昇ってくる。あまりの痛みにまるで胃の中身まで昇って来そうだ。
先ほどから一切、目を開けずに横になっている男――ロベルトを見つめる。彼は俺の問いかけに答えることなく意識を失くした。死んだのか、あるいは気絶しただけなのか。いずれにしても、この男の心臓にトドメを刺した方が死を確実にできるだろう。俺にそれができるのならばの話だが。
――殺したくない、人を殺したくない。
傍に落ちていた男の拳銃を手にした瞬間、俺の頭は俺の行為を否定する。
――既に死んでいるかもしれない。いや、既に俺は人を殺してしまっているのか?それなのに、俺は死んだ人間に向かって再び撃つのか?確かに、死んでいない場合にはそれが正解かもしれないけど、もし既に死んでいたら……
何度も何度も思考が巡っていく。この男が動かない限り、俺は答えを得られないのだろう。
「くそっ!!」
いつまでも拳銃を構えるのに疲れ、俺は腕を降ろした。ふと、右ポケットに違和感を覚え、俺はゆっくりとそこに手を入れる。出てきたのは未使用のナイフだ。それはちょうど目の前の男の息の音を止めること位は可能な鋭さをしている。
――どうやってもこの男にトドメを刺せってことか。
俺はナイフを両手で握り、男の身体に今一歩近づいた。
***
『見てください。生きているということは、こんなにも素晴らしいことなのです』
――これは過去の記憶?
『もう既にあなたもその意味を知っています』
――まるで映画でも見ている気分だ。
『生き残ってください、私の騎士。あなたが生きている限り、私も生きていけます』
幾つもの景色が彼女の脳内を流れて行く。まるで分厚い小説をパラパラと捲っているかのように、その内容を読み取ることはできなかった。
「うっ……」
巨大な閃光がぶつかり合った後、辺りには霧が立ち込めていた。彼女の身体に苦痛はない。勝利をしたのかも分からない程、ぼやけた視界に、思わず彼女は目を細める。
「終わったのか?」
「ああ、終わった」
男の声は彼女の背後から聞こえた。瞬間、彼女の口からは真っ赤な血が飛び出た。
「アルベル……」
「言っただろ、キルヘン。その身体は君の身体ではない。そんな中途半端な存在で奇跡を発現することはできないんだ」
ベルコルの頬を涙が伝う。男はその手で魔女の心臓を掴んだまま泣いていた。
「そんな状態の君が私に勝つ事ができるわけがないじゃないか。全ての人間に祝福を与え、全ての人間に絶望を与えた君が、私なんかに負けるなんて……情けない」
やっとの思いで首を回す魔女。彼女の視界には、悔しさと悲しみを織り交ぜた男の顔があった。
「なるほど、この身体じゃ、あんたみたいな奴にも遅れをとるってことか。まあ、でも悪くない。人間として死ぬというのもいいかもしれない」
「キルヘン……姫様、もう戦いは終わりました。心臓がやられた以上、いくらあなたでも動く事は無理です。私が再び起こしに来るまで、今しばらくお休みください」
丁寧な言葉で魔女に語りかける男に対し、彼女は呆れたように笑みを零した。
「どうしてそこまでする?そんなに元の姿の私に会いたいのか?」
「はい。その悲願を果たすため私は600年以上もの間、生きてきました」
600年――彼女が死体となり、魂だけが残されていた長い間。この男はその時間を、彼女を取り戻すために捧げた。
「可憐だな、アルベル」
そう言い残すと、彼女は眠るように瞼を閉じる。
そして、キルヘン・スイートは動かなくなった。
***
腕を振り下ろす直前、目の前に巨大な光が現れた。
「何だ!?」
俺はとっさに腕で視界を塞ぐことで、目をやられることはなかった。そして光が消え、目を開けると目の前に男が立ち尽くしていた。
「お前は……!!」
「ingの奴か。ロベルトは死んだか。わざわざ復讐のために残してきて連れてきてやったが、自死を選ぶとは」
「自死……?」
「ロベルトが貴様程度に負けるわけがないだろう。手を抜きでもしない限りな。まあ、とにかくそれはどうでもいい。既にこちらの計画は終わりだ。後は貴様だけだ」
「先生はどうした!?」
俺の言った【先生】という言葉に、男は僅かに眉を動かした。誰だという顔をしていた彼は、すぐに要領を得ると嬉しそうに何かを取り出した。
「キルヘンならここだ」
「なっ……」
自分の目が信じられない。しかし間違いなく彼女はそこにいた。首から下以外は。
「貴様、初めて見るのか?綺麗だろ。目を瞑れば彼女に似ていなくもない気がする。髪の毛の色はまるで違うがな。さっさと魂を別に移さないといけない……理解し難いのか?魂は心臓ではなく頭、脳にあるんだ。だから私は首から上だけを持ってきただけだよ」
乾き切ってないのか、彼女の首からはポタポタと血が垂れている。先生だけど、先生じゃない。
俺は目の前の恐怖をただ見つめることしかできなかった。
男は脳さえあればいいのか、先生の長い髪を怪訝な顔で掴むと、一気にそれを引きちぎった。男の力が強く、髪の毛と共に肉も落ちて行く。
「う……あああああああああ!!お前っ!!」
俺は自分でもよくわからない叫び声を上げる。恐怖と絶望と、目の前の非常識に対する当惑を込めて。気づくと、俺は男に向かってナイフを片手に走り出していた。
しかし、男は彼女の頬を撫でる事に夢中で、俺の方をちらりとも見ていない。
「くっそおおおおお!!」
あと少しというところで、俺は床に落ちた先生の髪に目を奪われてしまった。前に進みたいという気持ちと立ち止まりたいという相反する気持ちのせいだろう。俺は肝心な所で躓き、手にしていたナイフは男の頬を霞める程度に終わってしまった。
「痛いな」
男はまるで獣を蔑むかの様な視線を俺に向ける。
「ingだろうがなんだろうが、非常に不愉快だ。それ相応の罰を与える」
そう言うと、男は勢いよく右手を振り下ろした。衝撃が頭の中を巡る。頭が真っ白になりそうだ。いや、事実既に視界は霞んでいる。かすかに男が嘲笑する声が聞こえた。
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