「おや?誰かと思ったら私の研究室お客様第一号のゴトー君じゃないか」
「変な呼び名はやめろ。リニア・イベリンを発見した」
女の発言に男は豪快な笑みを浮かべる。
「ほら。ゴトー君、君も笑って。笑顔は幸運を運んできてくれるよ」
男が呼びかけるが、それでも彼女は眉ひとつ動かさず彼に冷ややかな視線を送った。
「それで、ゴトー君。リニア・イベリンはどこで見たんだい?」
「図書館に向かっていた。鈴木聡太を探しているようだった」
「ほう」
女は余裕げな表情の男に一歩近づくと、
「ここに鈴木聡太が来たらしいな」
「ああ」
「今後はどうする」
「さあ。それより私は、何故今も君が私の傍にいるのかが知りたいね」
二コリと笑いかける男に対し、ゴトーは、やはり感情のわからない声で返答する。
「私はベルコルと約束した。お前の護衛をすることを」
すると男は自身の髪を触りながら、ふと声のトーンを重くした。
「ゴトー君、急進派は瓦解した。君が私を守る義理はない。ベルコルはもう死んだんだ」
「黙れ。お前のような人間に指図される謂れはない。ベルコルと約束したから、私はお前の傍にいるだけだ」
「やれやれ、それは有り難いことだ」
淡々と自身の主張を述べるゴトー。その物言いにどこか好感を持ったのか、男は再び表情を戻して笑いかける。
「それにしても、相変わらず綺麗な黒髪だね」
「な……!!」
「ああ、そんな恥かしがらなくていいよ」
「っ……!!」
ゴトーは込み上げてくる怒りに耐えられなかったのか、顔を真っ赤にして勢いよく扉を閉めて出て行った。そして研究室には再び静寂が戻る。
「普段なら誰も来ない場所に二人も来てくれるとは……良かったな、ハイティントン」
男は自身の名前を口にし、ふっと笑みを浮かべた。
「さて、これからどう動こうか」
***
ゴトー・フリードリヒ。これは彼女の名前だ。一見男性のようにも思われる自身の名が、彼女はあまり好きではなかった。そのため誰かに自身の名前を呼ばれると、自然と顔が強張ってしまう。その癖は大人になってからも治る事はなかった。
彼女の家系は数少ない、古くから研究所と縁深い家柄だった。彼女の両親は共に研究所で働いており、幼いころから彼女も研究所を出入りしていた。それ故、彼女が研究所の一員となるのも必然のことだった。
しかし、彼女が所属したのは両親とは正反対の思想、異端集団とも言われていた急進派だった。
急進派。研究所内で最も極端な思想を掲げる集団。血が流れなければ成果は出ないと考え、早くから協会と対立する道を選んでいた。1600年以後、度々協会と揉め事を起こしてきた彼らは、自然と研究所内でも危険視され、後に彼らの歯止め役として穏健派と呼ばれる集団が出来たのは当然のことだった。
急進派と穏健派、双方の思想は異なれども共に歩んできたのは確かだ。急進派の出す犠牲を糧に穏健派も高い知識を得る。それは研究所の発展にもつながる。
ところが近年、彼らの溝は深まっていた。
そもそも個人主義の集まりとして創立された研究所であるそれは、義理や人情というものは一切皆無であった。この創立当時の思想は二種類の人間に分かれて受け継がれている。
個人主義という思想を色濃く受け継いだ者たち。彼らは原論主義者と呼ばれる者たちだ。急進派でも穏健派でもない彼らは、組織がどのようになっても全く関係ない。彼らが研究所に入った理由は研究をするためであり、これといった思想は持っていないのだ。 それでも彼らは研究所内の人間に白い目で見られる事はない。事実、彼らの成果は研究所の繁栄には欠かせないのだ。
そして創立当時の思想そのものを最も受け継いだ者たち(その最たるものたちが急進派と呼ばれるのだが)は、協会の存在そのものを否定する者たちだ。協会の行動は世界にとって間違っていると信じて疑わない。そこで団結したのが彼らだった。彼らは原論主義者とは違い、研究や個人的な活動は行っていなかった。しかし、協会との対立では話が違う。協会と対立する時のみ、彼らは一団となって戦うのだ。
だが、彼女は知っていた。間違っているのは自分たち研究所側だと。それでも彼女は研究所側につくしかない。研究所と関わった家系に生まれ、当たり前のように彼らの思想を受け入れていたからだ。誰よりも研究所側の行動を知っていても、彼女はそれらを止める事も異議を唱えることもなかった。何より彼女も協会の姿勢だけは、どうしても受け入れられなかったからだ。今あるもの│、現在だけを重視するのはおかしいと。
「寒い」
ゴトーはふと、心中にそんな感情を抱きコートの裾を微かにつまんだ。
│急進派に入った理由。
彼女自身、おぼろげな記憶ではあるがこれだという確信はある。
幼いころ、両親に手を引かれて研究所へ行った時の記憶だ。自身の両親と談笑している若い青年。外見は若いが、どこか大人びた│老いたといってもいいだろう雰囲気の青年。
ゴトーは何故か彼から目を逸らす事ができなかった。やがて彼女の視線に気づいた青年は、ゆっくりと腰を降ろして彼女の頭をなでる。とても幼い時の記憶だが、彼女は覚えていた。
その後も彼の傍を離れなかったゴトーを見て、両親は大層不安げだった。
正確な年齢もわからず、自身らの思想とは異なる男。しかしゴトーはそんな彼に惹かれて行った。年齢不詳の怪しげな雰囲気、感情を表に出さない行動。
そして彼女は急進派に所属する事を望んだ。親の激しい反対も退け、自身の研究に没頭する日々。急進派の一員として彼女は様々な事を学んだ。
そして今から数年前の大事件。etcの能力は前回の保持者の記録が研究所内には大量に保管されている。それを元に彼らはその能力に対抗するための手段を考えるのだが、あの事件は違った。今までに確認されていないetcの能力│自身の運命を開拓する力『ing』。
この前例のない特異能力は研究所にとって非常に驚異的な存在だった。
当時、研究所内では激しい論争がおこなわれていた。ing 保持者の青年をどうするか。急進派はもちろん彼を処理する事を主張したが、穏健派はそれを断固として反対した。何も知らない未来ある青年を無残に殺すとはいかがなものか。と。
ゴトーは彼らの論争を冷たい表情で見ていた。今まで大勢の人間を犠牲にしてきた彼らが、青年ひとりの命をそこまで惜しむのが滑稽で、愚かで、理解しがたかった。
呆れたようにその場を去ろうとした中、彼女の背後で上がった声。それは原論主義者の中でも最も原論主義者らしくない、穏健派と急進派の調停役とも呼ばれていた男│エドモン・ハイティントンだった。
「私も青年を殺す必要はないと思う。急進派の君たちが言いたいこともわかる。だが、今の時勢を考えてみてくれ。無残に殺す必要もないだろう」
そう言って彼は話を続けた。彼が提示したのはある可能性の話だった。「etcの文書」。伝説、幻と呼ばれる書物。それが協会の旧支部であるパリの地下室に隠されているという話だ。
「etcの文書。これは人間が持っている特殊能力etcを学問化したと言われている噂の書物だ。君たちも耳にした事があるだろう。私が言いたいのはこうだ。青年を拉致し、彼の能力を利用してetcの文書を探し出す」
当然のごとく、室内は嘲笑と失笑で満たされた。それでもなお、ハイティントンは冷静な声音で続ける。
「十二年前、etcの文書が盗まれたと言う情報。あれは真実なのかもしれない。十二年前、これは金色の魔女が目覚めた時期と重なる。仮にこれを盗んだのが彼女でないとしても、盗難という言葉が出る以上、それはetcの文書があるという可能性を充分高める証拠のひとつだろう」
『青年を殺さず、野放しにもしない』
ハイティントンの意見には多くの異論があったが、急進派と穏健派のトップの合議により結果的には肯定された。そして後にingショックと呼ばれる大事件が起こったのだ。
結果は悲惨だった。
急進派は壊滅的な状態に陥り、穏健派もかなりの被害を被った。ゴトーの両親もこの事件で命を落としてしまった。彼女が急進派に所属してから、一度もまともな会話をせずに別れることになったのだ。
その後、事件を先導した急進派は弱体化し、勢いも失った。彼女はこれといった成果も上げられずにひとり故郷へと戻っていった。
それでも昨年。突然ベルコルから連絡があったのだ。etcの文書を手に入れる計画を立てていると。初めは開いた口が塞がらないほどの衝撃と呆れがあったが、結果的に彼女はベルコルに従う事にした。
脳内に浮かんだ、幼い頃の記憶が彼女をそうさせたのかもしれない。彼の行く末を、彼の目的を知りたかったがために。
ふっと彼女は白い息を吐く。冷え切った廊下には鮮明に彼女の息遣いが浮かんだ。
│ベルコルはもういない。
数か月前の戦闘で行方不明になったという。唯一生き残ったケラーでさえ、固く口を閉ざしたままだ。急進派は終わった。そう確信した彼女だったが、それでもここ日本を離れないのには理由があった。
ベルコルとの最後の約束。
『ハイティントンを護衛しろ』
ベルコルが亡くなった時点でこの契約を破棄しても良かったのだが、彼女はしなかった。何故か。彼女自身もわからないでいる。
***
「あれ?帰ったんじゃなかったの?」
男は再び顔を出した女に向かって、からかうように視線を向けた。意地が悪いのか、彼女はつんとした表情でドアの前から一歩も動かない。
「勘違いするな」
「ん?」
「お前を守るのはベルコルとの約束だからだ」
「はいはい。私は必要ないって言っているんだけどね」
「うるさい!!」
男│エドモン・ハイティントンは目の前の彼女の機嫌も知らず、柔和な笑みを崩すことはなかった。
「ゴトー君。笑った方がいいと言っただろう。同じパターンの繰り返しは私もつまらない。それに何より、せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
ゴトーはじとりと眉間のしわを深める。
「それよりどうしたんだ?外で待機していると思っていたけど」
周囲の本を片付けながら、何気なく訊ねるハイティントンだったが、返ってくる声はなかった。
「うん。まあ話したくなければいいんだけど」
黙々と自身の作業を続けるハイティントン。そして思い出したように、彼は腕時計へと目をやった。
「おや、もう十二時過ぎだ。そろそろお昼でも食べに行こうか」
「外は寒い」
着替えを取りに行こうとした彼の背中に、予想外の声が届いた。
「外は寒い。だから中に来た」
「ああ……そうだね、今の季節は寒いね」
一瞬戸惑いを見せたものの、彼はすぐにいつもの調子に戻った。
「うん、それなら今出るのはやめた方が良いかな。まだ身体が冷え切っているだろう」
瞬間、はっとなってゴトーはその真っ赤な顔をあげた。ハイティントンはそんな彼女の様子を気にも留めず、ポットから二人分の小湯をコップに注いでいる。
「コーヒーは身体によくないから、ただのお湯になっちゃうけど。緑茶も私はだめでね」
「ひどい待遇だな」
「君は私のボディーガード。客じゃないんだろ?」
ニコニコと笑う男。きっと彼に口で敵うことはないのだろう。そう思ったゴトーは静かにコップに注がれたお湯を口にした。
「それで。ここに来た本当の目的は何だ?」
「目的?ああ、前に言わなかったけ。私は彼を見に来ただけだよ。どんな立派な青年に成長したのか。まあついでにリニア・イベリンも見ておきたかったからな」
「リニア・イベリン?」
「ああ、今説明すると長くなる。それは後で話すよ」
するとそこで会話が途切れたのか、彼らは揃ってカップを傾けた。
「それにしても……こんなお付き合いを始めるとは思ってもみなかったな」
「は?」
「四十五にもなって二〇代の女性とお付き合い……長いこと生きていると色んな経験するもんだね」
ハイティントンは窓の外を眺めて小さく口元を緩める。
「お付き合いというのは訂正しろ。私はお前を守るために一緒にいるだけだ」
「世間ではそれを付き合っていると言うんだよ」
そういってハイティントンは大きな欠伸をする。
「私の推測が確かなら、彼はまだ自分の能力をわかっていない」
ふと、低い声色が部屋に響く。
ハイティントンはすっと目を細め、目の前の女性│いや、ゴトーを見た。
「ingだよ……可哀そうな奴」
「私の資料によると、金色の魔女と協力関係のようだが」
「ああ、だが自身がetcの保持者なのだとは想像もしていないだろう。いや、むしろ彼らの周りがそれを必死に隠していたようだな」
「何故?」
ハイティントンは机をコツコツと叩きながら、ゴトーの問いに答えた。
「手に負えなくなるから。当時の彼は十六歳。自身のせいで世界各地で紛争が起こったと考えてみろ。普通の人間なら耐えられない」
「私は耐えられると思う」
「さすが鉄の女性と呼ばれるだけはある」
静かに笑う男に対し、ゴトーはやや口調を強めながら、
「他に隠す理由はないのか」
「……彼の周囲が彼を大切に思っているから。とか」
「……」
「大切な人が傷付くのは見たくない……そういう風に思ってくれる人間がもっと世界中にいてくれたらいいのにね」
何も言わないゴトーに対し、ハイティントンは静かに独り言を呟く。そして、エドモン・ハイティントンは、ゴトー・フリードリヒを真っすぐと見つめた。
「私の計画は、彼に自身の能力が一体どんなものかを教えるつもりだ」
「それに何の意味がある」
「いや、少々腹立たしくてね。周囲の人間が頑張っていると言うのに、当の本人は何も知らずに平凡と暮らしている。それに│、」
「それに?」
「彼ももう子供じゃないんだ。真実を知るのも悪くないだろう」
「……金色の魔女が制止する可能性は?」
「さあ。彼の命が脅かされない限り大丈夫だとは思いたいね」
そう言ってハイティントンは机の上にカップを置いた。
「どうだい?身体は温まったかな」
「……別に」
ぶっきらぼうに答える彼女に向かい、彼は窘めるようにため息を零した。
「その口調どうにかした方がいいと思うよ。せっかくの綺麗な顔には似合わない」
「うるさいっ!!」
「あ……でも今のは割といいかも」
罰が悪そうに目を逸らす彼女を前に、ハイティントンは楽しげに笑う。
「ベルコルが一体何を考えて君を私の護衛にしたのかは知らないが……退屈はしないな」
「馬鹿にしているのか」
「まさか。君は面白いね、だから私は君が護衛についてくれて非常に満足しているよ」
ここで反論してもまたからかわれるだけだ。そう思ったゴトーは深くため息を零して、彼の言葉を無視する。するとハイティントンもそれ以上は何も言わなかった。
「さて」
そして傍に掛けてあったコートに腕を通すと、彼はゴトーへと振り返る。
「行こうか」
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