「はあ……は……」
物凄い勢いで大学構内に駆け込む女性。タクシーやバスなどといった他の移動手段が思いつく暇がないほど、彼女の心には余裕がなかった。
「聡太……どこにいるんだろ……」
リニアは荒い呼吸を整えながら、ざっと構内を見回す。思い至ったのは先ほど講義があった教室だ。リニアは次の瞬間にはもう走り出していた。
「どうか無事でいて……!!」
彼女の頭に浮かぶのは一人の男の顔だった。彼は何も知らない。何も知らないからこそ、日々を平和に過ごす事が出来たのだ。こんな唐突に真実を聞かされてしまったら彼の心は壊れてしまうかもしれない。
リニアの不安は次第に広がっていく。と同時に彼女の心中では怒りが沸き上がっていた。
「あのバカ……何もなかったとか言っておきながら……後で覚悟しときなさい……!!」
「随分と威勢が良いな」
突如リニアの耳に冷たい声が流れた。
「誰?」
リニアの前で立ちふさがる女。どうやら声の主は彼女のようだ。
「私はゴトー・フリードリヒ」
抑揚のない声音で名乗る女をリニアは鋭い視線で見据えた。
「何の用?今遊んでいる暇ないんだけど」
「この先に行かせるつもりはない」
「二度も言わせないで。遊んでる暇はないって言ってるの。それとも聡太の居場所でも教えてくれるのかしら?」
「鈴木聡太の居場所は知っている。四階の研究室だ」
「そう、それは有り難いわね」
言い終わるや否や、リニアは急速に女との間合いを一気に詰めた。
***
「……」」
俺は何も言えず、黙って床を見つめていた。いや実際は見てなどいない。状況の理解、整理で頭の中がパンクしそうだ。ハイティントンは何やらペンを走らせているようだった。きっとこれも彼の実験の一種なのかもしれない。
だが、今はそんなことどうでも良かった。何より、体中が強張っていて自身の身体の認識さえおぼろげだ。
「鈴木聡太くん。何か言う事は?」
俺は何も言わない。顔すら上げられない。
「あれは君のせいで起こった戦争だった」
耐えろ。
「君のせいでたくさんの人が傷付いた」
大丈夫だ。
「何も言い返さないのかい?」
今の俺なら│。
俺は必死に呼吸を整えた。そして、真っすぐと目の前の男の顔を見つめる。
「原因は俺だったのか」
「驚かないのか?」
「充分驚いている……本当だ」
「それにしては幾分冷静に見えるが」
ああ、そうだ。大丈夫、俺は冷静だ。
「あなたは『コミュニケーションは自身と相手の言葉が相互に理解されたときのみ成立する』と言いましたよね」
「ああ」
「なら、俺はあなたの言葉を理解したくない」
「ははっ。それはもうストレートに話したくないということじゃないか」
口元に手を当てて笑う男を、俺は依然として見つめる。
「あれから三年が経った」
「もう三年だ」
「俺にとってはそれがとても長かった。奏が話せるようになって、葵が前向きに生きれるようになって、俺も普通の人生を歩めるようになった」
「それは良かったね」
「ああ、そうだ。あなたにとっては短い期間だったかもしれないけど、俺にとってはとても長くて大切な三年間だった。だから俺は大丈夫だ。あなたから真実を告げられても、俺は狂わずにいられる」
「ほう」
「時間が│、この三年間が俺の心を癒してくれた」
そう言い切ると、男は冷たい視線を俺に向けてきた。
「それでも過去が消えたことにはならないよ」
「わかっている。過去は消えない。だが、当時の俺は何も理解していなかった。etcを保有している事実さえ知らなかった。悪いが、俺には全く罪悪感がない」
「責任転嫁か」
「それはこっちの台詞だ。俺も巻き込まれた側だ」
男は黙って俺を見据えていた。そして、ため息をつくと、
「……君が再び我々の標的にされたのは、まだ充分に利用価値が残されていたからだよ。君の能力、ingは君が生きている限り、いつでも発動する事が出来る」
「それならいつでも発動を止めてくれて構わない」
「数ヶ月前の話だ」
唐突に男は俺から視線を逸らし、部屋の隅を眺めながらぽつりと語り出した。
「金色の魔女の頼みで小学校に出向いたことがあっただろう。そしてそこから君は瞬く間に非日常の世界に染まっていった。そう、あれがきっかけだ。ベルコルは君が再びetcを発動できるよう機会を与えていた。しかし君は発動していない、出来ないんだ」
「どういうことだ」
「etcを発動できなかった理由。それは君が現実を認めていないからだ」
男の言い分に思わず俺は笑みを零してしまった。
「俺が?現実を認めてない?そんなわけないでしょ?」
「ああ、すまない。私が言った現実とは今、現在のことじゃない。君が経験した全てを入れての現実だ。実際に経験したにも関わらず君は非日常を嫌い、否定する」
当たり前だ。この男は何が言いたい。
「君自身、無意識に三年前の事件から目を逸らしている。言うなれば、あの事件の外観、外枠だけを見ている様なものだ。直視したら、そこに引き込まれてしまう事を君はわかっている。だから君は現在に執着するんだ。過去に引っ張られないためにね」
「……」
「そんな君に再び非日常を与え、そして君がそれを認めた瞬間、君のetcは発動する。これがベルコルの書いたシナリオだった」
俺は何も言い返すことなく、じっと奥歯を噛みしめていた。
「ああ、そこまで警戒しなくてもいいよ。私は君が真実を知った時、どんな反応をするか見たかっただけだから」
「満足したのか」
「いや、正反対の結果だ。君も成長したということか」
ハイティントンは残念そうにため息を零す。そんな彼を俺は嘲るように笑った。
「ああ、そうだ。俺も過去に目を向けるより差し迫る現実を見ている。俺にとってはetcやらingなんかより学費と家賃滞納の方が恐ろしいね」
「他人の事は知らずか」
「俺の人権も保障してもらいたいですね」
そう言って俺たちは無言で対峙した。正直、俺にとっては本当に現実味のない話だった。だから俺は、今の俺は、こうも自分を保っていられるのだ。
ドンッドンッ
唐突に俺の背後から大きな音が聞こえた。
「くそっ、何だこの扉……!!」
扉の向こうで誰かが必死に開けようとしているようだ。それを見て、ハイティントンは呼びかけるように扉に向けて声をあげた。
「ああ、その扉。ちょっと小細工をしててね、簡単には開けられないよ」
「なっ……このっ!!開けろ!!」
必死に叫ぶ声。どこかで聞き覚えのある女の声だった。
すると、次の瞬間。派手な音を立てて扉が前方に倒れてきた。床に溜まった埃を踏みつけて入ってくる女│それはリニアだった。
「お前!!何でこんなところに……って、おい!!」
俺の言葉を最後まで聞くことなく、彼女は俺の腕を取って走り出した。
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