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アンダーソンの言葉によると、初めて彼女に出会ったのは六ヶ月前のことだった。彼自身、三年前からこの店には通い詰めいていたが、ある時彼女を見かけてから、アンダーソンはわざわざ彼女と同じ時間帯に飲むようになったという。その後、彼らはどちらも一人で飲みに来る客だったため、すぐに打ち解けたのだ。
幸せそうな空気を醸し出す彼らに、赤城は妙な居心地の悪さを感じ、離れた席に移動しようとしたが、――アンダーソンの逞しい手が赤城の腕を掴んでいた。
「どこ行くんだ?」
「あ……いや、なんか俺たち邪魔かなと思って」
「何言ってんだ、俺が招待したのに邪魔なんて思うわけがないだろ」
ルイスには聞こえないくらいの小声での会話。彼の気遣いに、赤城は再び自身の席へと深く腰掛けたのだった。すると、今度は赤城の服の裾を何かが引っ張った。
「どうした?」
不思議に思って顔を上げると、彼の隣に座る遊幽は気まずそうに顔を伏せている。
「なんか……私たち招かれざる客になっちゃったんじゃない?」
どうやら彼女も赤城と同じ気持ちだったらしい。数分のズレがある辺り、やはり赤城の方が空気は読むのが得意なようだ。
赤城は遊幽を安心させるように優しい笑みを浮かべると、
「大丈夫だよ。というか、むしろアンダーソンは俺たちに居てほしいんだと」
「そ、そう」
「俺たちは俺たちなりに楽しもう。お金も充分あるし」
すると彼女は、少しきまりが悪そうな表情をすると、気を取り直したかのようにグラスを注文した。
マティーニだ。
「……何でそんなに酒に詳しいんだ」
「乙女の嗜みよ」
気取った様子でグラスを傾ける遊幽。
「――まあ、知ってるカクテルは最初のやつとこれだけなんだけど」
あっさりと本音を告げてしまう彼女に、赤城は小さく笑みを零す。
「遊幽ちゃんにそんな酒は似合わないもんね」
「……どういう意味?」
「い、いや。何でもない」
思わず地雷を踏んでしまった赤城は、何事もなかったかのようにビールを呷った。
隣には不機嫌な恋人。
反対側には現在進行形で恋に奮闘する友人。
行き場のない彼の視線は、ただ呆然と前を見ていたのだった。
――この後は予約しておいたホテルに戻って、仕事は明日からだな。
ぼうっと今後の予定を考えていると、ふと、隣の会話が赤城の耳に入ってきた。
「あの……音楽とか、好きですか?」
――ありきたりな質問だな。
「はい。大好きです」
――それでも答えてくれるのか。良い人だな。
「年に似合わないですけど、ロックンロールとか、好きで」
「あら、私も好きです。年に似合わないなんて言わないでください。音楽に年は関係ないですよ」
ぎこちない会話でも、ルイスは楽しそうに笑っている。
――まるで教科書じみている。
本当によく出来た女性のようだ。
――作為的にも思える。
二人の会話は上手く発展することなく、そこで終わってしまっていた。
「……俺も混ぜてもらっていいかな?」
赤城は友人のヘルプを察知し、二人の対話に割り込んでいった。いや、彼自身、隣の彼女からの視線に耐えられなかったのかもしれない。
「周、遠慮しないでいいぞ。好きなもの頼んでくれ」
アンダーソンの顔からは感謝してもしきれないと顔に出ていた。どうやら彼の応援をアンダーソンは待ち望んでいたようだ。
「じゃあ遠慮なく……どれにしようかな」
赤城がメニュー表を眺めている横で、遊幽がことりとグラスを置いた。どことなく彼女が飲んでいるものがどんな味なのか興味が沸いた赤城は、
「すみません、マティーニを一つ」
しばらくして、赤城の前にグラスが置かれた。水のように透明な液体の底にはオリーブが一つ。
バーテンダーの力量が試されるというカクテルの中の王様、マティーニ。
「その様子だと、マティーニは初めてか?」
「ああ」
初めてのお酒に高まる緊張感。赤城はゆっくりとグラスを手にした。そして一口。
「味がない」
静かに揺れる水面を見ながら、赤城はぽつりと感想を漏らした。
「ははは!!周にはまだ早かったか!!」
赤城以外の三人が微笑ましそうに笑う。不機嫌そうな顔で二口目を含み、彼はグラスを置いた。
――遊幽ちゃんはこんな酒を飲んでいたのか。
***
「ところでルイスさん、何の仕事をしているんですか?」
赤城は場を取り直すように、基本的な質問から入ることにした。
「ああ、彼女は近くの図書館で司書をしているんだ」
ルイスに訊ねたはずの質問を、何故かアンダーソンが誇らしげに答えた。若干、顔を引きつらせた赤城だが、
「へえ……司書さんなんだ」
遊幽の素直な感嘆に、彼も会話に集中した。
「すごい似合いそうな職業ですね」
「そうですか?ありがとうございます。でもそんな大それたものじゃないですよ。アンダーソンさんの方が大きな職場で大変そうですもの」
「い、いえ、そんな……」
上品そうな笑みでアンダーソンに顔を向けるルイス。一方の彼は、顔を真っ赤にして頬を掻いていた。
「また大きな仕事が舞い込んだらしいですね」
「いや、そこまで大変な件でもないんで大丈夫ですよ。ただ古文書を調べるだけですから」
「……そうですか。それなら良かったです」
安心した様子を見せた彼女は、ふと、時計に目をやった。
「あら、もうこんな時間。ごめんなさい、私そろそろ帰らないと」
「あ、じゃあ外でタクシー拾いますよ」
帰り支度を始めたルイスに付き添う形で、アンダーソンもコートに腕を通した。
「じゃあ、先に外に出ているぞ」
「では、お先に失礼します。今日はお話しできて本当に嬉しかったです」
赤城たちに向かって小さくお辞儀をすると、彼女は店主にお会計をお願いした。二人はそれぞれ別々の小切手にサインをする。
そして、出口に向かう二人の背を見送ると、赤城は不思議そうに彼女の残していった小切手を眺めた。
「【Luise McDougall】……こんなスペリングなのか」
赤城たちがグラスに残った酒を飲みきってから外に出ると、既にルイスはいなかった。壁に背を預けて遠くを見つめるアンダーソンただ一人。おそらく彼女はそっち方面に帰ったのだろう。
「写真のイメージ通りだった」
赤城の率直な感想にアンダーソンは笑った。
「今まで会った中で一番綺麗な女性だと思う」
「へえ……そう?」
「あ、いや……その」
遊幽の鋭い視線にたじろぐ赤城。そんな彼らを静かに見守っていたアンダーソンは、しばらくしてやっと話を切り出した。
「それじゃあ、今日はこれでお開きにするか。仕事は明日からだな。内容も明日説明してやる」
「ああ。そうだな。じゃあ明日」
「お前ら、宿の場所はわかるのか?」
「ここから近いところだよ」
「そうか。じゃあ気をつけて帰れよ」
アンダーソンの大きな背中を見送り、二人は帰路についた。
「ねえ、周ちゃん、ホテルはどんな所なの?」
アルコールのせいもあり、少し火照った顔の遊幽が赤城へと訊ねた。旅行の醍醐味の一つでもあるホテル。彼女もそれなりに期待しているのだろう。
「着けばわかるよ」
「それはそうだけど。綺麗なところだといいな」
「……先生が高い所とってくれたらしいから、綺麗だとは思うけど」
「本当に!?」
嬉しそうに顔を輝かせる遊幽とは正反対に、赤城はどこか不安気な表情を浮かべていた。
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