「…もう30年近く前になりますか…私は当時大学院の修士課程にありましたが、出入りしていた研究室の助教授…今で言うところの准教授に当たりますが…その助教授であった町田さんという方と知り合ったのです…」
「アナザー・ムーン計画…ですか?」
「そう、僕が子供の頃に抱いたちょっとした杞憂から生まれた夢の計画の話だよ」
休憩中、インスタントのコーヒーを淹れながら町田助教授は「彼」にその計画について語り始めた…。
「この宇宙に、もう一つ月を浮かべるのさ…!」
「アナザー…つまり『別の』月…?」
「ああ、まだこの地球に生命が誕生する以前…月は今よりずっと地球の近くにあり、僅か24.000㎞程しか離れていなかった…だがそれから月は徐々に遠ざかり、現在は384.400㎞の距離に位置している。そして今も月は年に約4㎝ずつ地球から遠ざかっているんだ…」
月の存在が地球に及ぼす影響は計り知れない。現在の様な生命の生存に適した自然環境は月と地球相互の潮汐力無くしてはあり得なかったのだ。
また地球に降り注ぐ小天体に対する防波堤の役割を月が果たしてきたため、地球の生命は幾度かの絶滅の危機を免れてきたとする説もある。
「…でも、その潮汐力…つまり地球と月、両天体の引力の綱引と遠心力は徐々に両者の距離を隔ててゆく…月はいつか地球から去って行ってしまうんじゃないのか? …秋の夜、月見をしながらそんな心配にかられた幼少の頃の僕は、拙い頭脳である壮大な計画を練り上げたんだ…、それが『アナザー・ムーン計画』…もう一つの月創造計画だ…!」
「つまり人工天体を建造するのですか?」
研究室の窓からは煌々と輝く満月…、町田助教授はその窓際に腰を下ろしそれを見上げていた。
「そうだ、地球と月の間に天体クラスの人工質量体を浮かべるんだ。この質量体が月の潮汐力の負担を軽減させて、月が地球から離脱する時期を大幅に遅らせる…という寸法さ…」
「ふへぇ…、そんなコトが本当にできるんですか!?」
何とも途方も無い話に香苗が呆けた感嘆を漏らす。しかし教授はそれに対して肩を竦めてみせた。
「わかりません、そんな事を実際に試した例はありませんので」
それは然り、実例があるのなら空の月は今頃一つではないはずだから…。
「…その人も大人になる頃にはもう知っていたそうですが、計画自体が実は意味が無かったのです」
「意味が? 何で?」
「はい、それはですね…現在の研究では、月は50億年後には軌道が安定するため、それ以上地球から離脱していく可能性は低いとされているからなのです。だからわざわざ新しい月など造らなくても良いのですよ」
「なんだ、そーなんだ…」
教授の話を聞いて香苗は半分ホッとした様な、半分はつまらない様な…、何とも複雑な心境を覚える。
「…まぁそれ以前に、50億年もしたら地球も月も寿命が尽きた太陽の膨張に飲まれてしまう方が早いでしょうから、月が地球から離脱する日さえやっては来ないでしょうからね」
「げっ…!?」
ホッとした矢先にまた別の不安に襲われそうな話にげんなりさせられる。
──50億年生き続けるわけやあるまいに…。
「それと、その計画には根本的な問題がありましてね…そもそも、天体一つ分の材料はどこから調達してくるのでしょう? …まさか地球を削るワケにはいきませんよね?」
天体一つ分の質量が無からポンと生じる訳が無い。まずは相当量の資材が必要となってくるわけだが、何しろ「天体クラス」である、地球上の資源でそれが賄えるとは到底考えられない。
もちろんこれに関しては、例えば他の宙域の小惑星を移動してくるという手段もあるだろう、それなら地球の資源的な損失は無い。だが、それはそれで小惑星をどうやって移動してくるのか? そのための拠点をどこにどういう形で設けるのか? その維持費は? 等々…それだけでも途方も無い大規模な事業になってしまう事は想像に難くない。
そうすると結局、そこまでして新しい月を創る意義があるのだろうか? という根本的な問題に陥ることになるだろう。
「ですので、現実的にはこの計画の実現は難しいでしょうね。…その人も言ってました…」
教授の声色と口調が少し変わる
「…『これは、子供の夢だ』…って」
それが話に出てくる町田助教授の口真似なのだろう事は香苗にも予想がついた…似ているかどうかはさっぱり分からないが…。
「なぁ~んだ、結局夢の話なのか」
ともあれ、香苗はがっかりと言わんばかりに軽く肩を落とした。
「…ええ、夢…だったはずなのです…が」
終わったかに思えた話がまだ燻ぶりを残す…教授は天面スクリーンを仰ぎ、そこに映る月の画像に視線を止めた。
「…この巨大アスキーアートは、もしかしたら現代に蘇った『もう一つの月』なのかも知れません…」
「?」
香苗には彼の言葉の意図が理解できない。
「…実は、現代において『アナザー・ムーン計画』には、もう一つ意外な有用性を見い出す事が出来るかも知れないのです」
教授の語り口はいつの間にか学校の講義の様な堅苦しさを帯び始めている。そういう雰囲気全般が苦手な香苗は瞬間的に周囲を見回すが、そもそも一対一の会話に近い形で始まった話であるが故、エスケープは叶いそうもない。
講義はさらに続く…。
「…衛星軌道上はこれまでの宇宙開発で放逐されてきたデブリで溢れています。現在世界規模でデブリの量を減らそうとする試みはなされていますが、大なり小なりデブリは今後も増え続けてゆくことでしょう。それに対して人類はまだ決定的なデブリ処理の方法を持ち得ていないのが現実なのです」
言ってることは非常に難く、香苗にはすでにキャパオーバーなのだが、穏やかな口調と声質の良さが効いているのだろう…割と聞ける…理解できるかとは別にして。
この人巧い…そんな印象を受けるのだ。
「…ならばデブリそのものを一か所にまとめ、それを基礎とすることで、巨大な宇宙のごみ集積場にしてしまうのはどうでしょう? 最初のうちこそ回収コストがかかりますが、やがてデブリの塊がある程度の質量に達する頃にはそれに伴って増加する万有引力で自らデブリや小規模の隕石を引き寄せるようになってゆきます…それこそがアナザー・ムーンのもう一つの可能性、なのです」
ごみ集積場と言う日常的なキーワードだけが明瞭に理解出来てしまったがため、頭の中に宇宙で何台ものゴミ収集車が走り回るファンタジーな光景が浮かぶ…、これまた途方も無いスケールの話に香苗は息を飲んだ。
「将来的には第二の月の名に相応しい衛星として、人類の宇宙進出の拠点や小惑星・隕石対策の防衛線として活躍する事になるでしょう…まぁ、さすがにそれはずぅーっと先の…未来のお話、ですけどね…」
そう言って教授は画面に映る月を構成するフォントの一部に指し示した指で狙いを定めると、その文字配列をなぞるように横に動かす。
「実は昨夜遅く、このアスキーアートとして表示されたフォントに織り込まれる形でロストシープの行動修正プログラムが発見されたのです。当のロストシープが先の隕石とともに去ってしまたのでもやはその必要も無くなってしまったのですが…もしかしたらロストシープの異常行動は最初から仕組まれていたのかも知れませんね…」
もちろん、隕石の到来まで予測している訳はないので、こうして宇宙の彼方に消え去ってしまう事など想定はしていなかっただろう…。恐らくは教授がロストシープの異常行動を解決し、その過程で出てきたアナザー・ムーンの話が公になる…そんなシナリオを描いていたのかも知れない。
「最初、同じ研究室に出入りしていた間柄とは言え、何故当時一介の学生だった私が彼の研究引継ぎに指名されたのか、ずっと疑問に思っていたのです。でも、もしかしたら彼はもう一つの月の話を知っている私に向けて、その可能性を伝えたかったのかも知れませんね…」
懐かしさと自身の無力さが相まって、教授は少しだけその視線を落とす。
「…残念ながら…、その真相は藪ならぬ宇宙の闇の中、なのですけどね…」
観測室内にいた誰もが教授の一人語りに耳を傾けつつ、だが視線を合わせることも無い…、何かを悼む様な僅かな時間がその場を支配していたのだった…。
「まぁ~だ、わかんないですよ?」
やはりその沈黙を破ったのは香苗であった。
「はぃ!?」
咄嗟に出た教授のセリフは少し調子が外れて間抜けな音になる。香苗は観測室の中央で迷える子羊を従える預言者の様に高らかに頭上のスクリーンを指差した…!
「案外、何年かしたらこの絵みたいなでっかい月になって、あの人工衛星が地球に返って来るかも知れませんよ?」
別に根拠も何もない、毎度の如く何も考えない彼女の楽観論に呆気に取られる教授…が、すぐにその相好を崩した。
「…それはコワい…、けど無責任に楽しみでもありますね…」
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