壁に耳あり障子に目あり、人の口に戸は立てられぬ。翌日、鋸引所長代理が研究所に出勤してきた頃には当該者不明のまま引き抜きの噂はすっかり所内に広まっていた。
これにはさしもの鋸引も頭を抱える始末、早速彼の不在時に所内の監督責任を負っていた矢部(実質的)副所長が呼び出させる事となる。
「……で、アベちゃんさぁ…、こりゃあ一体どうした経緯でこんな状況になっちゃってるんだろーね? 説明してくんないかな?」
「はい、全く以てこれは申し開きの余地も無く私の監督不行き届きでございまして……」
可哀想に、勧められたソファーにも腰を下ろす事無く所長代理に向かって直立不動の副所長は、まるで刑の執行を待つ受刑者みたいに怯えた様子で目の前の上司の顔色を窺っている。
「監督不行き届きねぇ……」
一方プレジデントデスクにどっかりと収まり目の前で恐縮する矢部を見据えている鋸引は心底呆れ果てたといった顔をしているが、その視線は何かを見透かしているかの様にも感じる。
無骨な見た目に反して以外にもこれまで明確な怒りの感情を表に出した事の無いこの所長代理。この場においてもやはり一見したところ怒っている様子は微塵も感じられないのだが、その平静さがかえって底の知れない威圧感を相手に与えていた。
「俺が聞いてた話だと昨日の夕方君も噂話の輪に加わってたそうじゃないか。そーゆーのは不行き届きとは言わないんじゃ無いのかい?」
「そ、そんなっ!? 輪の中と言っても私は端にいたもので…っ!!」
予想外の核心を突かれて矢部が狼狽を見せる。その様子を確認して鋸引は「はぁ…」と大袈裟な溜息を吐き出した。
「なるほどねぇ。やっぱり昨日所内に残ってた連中の間で噂が流れてたんだな?」
「……へ…っ? あ、あっ!?」
何かに気付いて顔面蒼白となる矢部副所長。所内に密告者がいる訳でも無し、考えてみればほんの一時間前に出勤してきた所長代理が昨日の件などさすがに把握していようはずがない。
今にも外れて落ちんばかりに開いた顎を押さえることも出来ず、いともたやすく自分が相手の罠にはまった事を知った矢部は愕然とその場に立ちすくむ。
──カマぁかけよったで、このオッサン。まぁチョロリと誘導されよる副所長も副所長やけどな。
「まぁ…今朝来てこの有様なわけだから、昨日のうちに話が伝わっていたとは予想できてたけどな……まったく、隠し事ってのはできんもんだよなァ」
「そ…そうですねぇ…ハハ……」
自嘲気味に苦笑を浮かべる鋸引に同調して恐々と愛想笑いを浮かべる矢部、だがすぐに真顔の鋸引に睨まれ再び直立不動に身を正す。
「笑い事っちゃないぜ? まぁ別に業務上のミスじゃ無いからそいつを責めやしないけどさ。でも君の知っている限りの説明はきっちりとして貰うよ?」
「は…ハぃ……」
矢部にとって幸いだったのは鋸引の側に責任を取らせようと言う意思が無かった事だ。おかげで叱責や懲罰を食らうでも無く、ただしその分事実確認に関しては随分と追及を受けることとなった。
ついでにもう一人…この場にはいない噂の大元である古淵に追及の手が及ばなかったのは彼女にとっても幸いだったわけだが、これは偏に鋸引の追及に対し彼女が関わっていた事実だけは最後までしらを切り通してみせた矢部の実に涙ぐましいばかりの献身の結果と言えよう。
「では、失礼します」
半刻ほど後、一通りの事情聴取を終えた矢部が深々と首を垂れて退出する。
残った鋸引所長代理は先程までこの部屋にいた相手に向けて放ったものと全く同じ大袈裟な溜息を再びつくと、デスクチェアーに深々と身を沈め天井を見上げた。
「どーしたもんかねぇ……」
誰に問いかけた訳では無い独り言。無論それは今回の引き抜きの件がリークした事実に対しての吐露なのであろうが、そこには途方に暮れているというよりも自責、あるいは自己嫌悪に近いニュアンスが感じ取れる。
それもむべなるかな、確かにリークしたのは所員の誰かであり、更に突き詰めるのであれば最初にこの話を口にしたのは赤鰯教授であるのだが、そもそも目的を隠していたのは他でも無い自分であるからだ。旧知の仲であり、同時に自分に匹敵し得る曲者である教授に腹の内が読まれていたことを予期できなかったのは鋸引自身の落ち度と断じても差し支えはあるまい。
大体からしてこの男、自身の執る対人戦略に少々自惚れ過ぎなのだ。確かに相手の油断を誘い、平静を欠かせる心理的トラップともなる彼の性格は大抵の局面に於いては有効であろう…が、これが自身と対等、それ以上の策略家を相手とするとなれば──
「……って、相変わらずそーやって陰からコソコソとうるさいね、お前さんは!!」
──うわっ!? コラ、話しかけてくんのは反則やないかぃ!
「知らんよ、んなモン。そっちが勝手に決めたルールだろうが?」
──せやけど、ものごとの理には踏み越えたらあかん一線っちゅーモンがやなぁ……
「分かった分かった、お前さんの立場くらいは昔から理解してるよ。けど考え事くらいは静かにさせてくれないかな?」
そう言い放っていかにも鬱陶し気に宙に向けた手を払うと、鋸引は不機嫌そうにチェアーの背もたれに体重を預け、再び独り言を呟く…もちろん誰に対してでも無く、だ。
「……ホント、どーしたもんかねぇ……」
「そいつは豪い災難でしたなぁ、副所長さんよ」
その日の昼時の食堂、かくして所長代理の事情聴取を生き延びた矢部を高槻一派が取り囲んで労う。いつもと変わらぬ慇懃無礼な態度だが、珍しく相手を心遣う言葉を投げかけるのはリーダー格の高槻である。
実際、責任を問われるならば今回の一件に於いて高槻を中心としたこのメンバーがかなりの部分で噛んでいたため、単身スケープゴートを引き受けてくれた矢部に対しては感謝の言葉も無いのは事実だったりする。
それでも絵に描いた様な生真面目中間管理職キャラである矢部は自らに非があると省みてしまうのだ。
「いやぁ、発端の発端にまで遡ればね、私にも落ち度があったからこんなことになっちゃったのだから、所長代理からのお小言を受けるのは仕方が無い事さ」
全く、お人好しにも程がある。……いや、彼の場合は単に自己肯定感が低いだけなのかも知れないが…。
「それより私も不思議に思うのだけど、昨日の此処でのやり取りを言いふらしたのは一体誰なんだろうね? さすがに朝からこんなに広まってたなんて不自然じゃあないか」
「フム、その通りですな。誰かが口を滑らせた程度ではこうは広まりはしないですからなぁ……何やら作為的なものを感ぜずにはいられない」
「出所ははっきりしませんけど、今朝がた真っ先にその話をしていたのは楠宮さんと樫寺さんみたいですよ?」
しっかりと午前中にウラを取ってきたところを見るとどうやら自分もその点には違和感を感じていたらしく、阿藤は高槻の疑念に方向性を促す補足情報を加えた。
「でもリエ&アキコンビは昨日の夕方はもう帰宅していてあの場にはいなかったっスよね? だとしたら彼女たちはいつ誰にその話を聞いたんですかね?」
何故か席にも着かずテーブルの前で腕組みで立ったままの豪原が首を傾げる。
「それも、一応本人たちから聞いたんですけどね……」
その正面で聳えるの筋肉の壁に一瞥くれて、阿藤は呆けた溜息をついた。
「今朝来たら受付のFAXにタレコミが入っていたんだそうですよ。二人ともその時は本気にせずにゴミ箱に放り込んじゃったみたいですけど、その後冗談交じりで所員に話したのが広まっちゃったみたいで……」
それを聞いて急に高槻の遮光グラスの下の目の色が変わる。
「ちょっと待て、FAXだと? 筆跡は確認したのか?」
「え? いえ、そこまでは見てませんけど……」
「今ゴミ箱に捨てたと言ったな? マズいぞ、急げ! 清掃のオバちゃんに片づけられてしまう前に確保しろ!!」
「あ、待って下さい先輩っ!」
「あ、スンマセン副所長、食器カタしといて下さい!」
後輩たちをけしかけるよりも早く高槻は食堂を飛び出し、阿藤、豪原もそれに続いた。
一瞬の喧騒の後、ほんのついさっきまで主賓のはずだった矢部はその場に取り残される形となり呆然と辺りを見回す。周囲のテーブルでは他の所員たちが食事の傍ら、若干笑いをかみ殺した顔で彼を眺めている。
いたたまれぬ気恥ずかしさに矢部が自分のテーブルに目を戻すと、そこにはもう一名、彼らに追従することなく食後の昆布茶をすする千代原の姿があった……。
「君は……行かないのかい?」
「全員で同じ行動を取る必要は無いのネ。それに、どーせまたここに戻ってくるのネ」
「…あ、そぉ……」
毎度ながらの彼らの熱量に中てられてしまったか、どっと疲れを覚えた矢部はテーブルに頬杖ついて朦朧とした視線を中空に泳がせるのだった。
高槻らが受付に駆けつけた時すでに遅く、物証は現場に残されてはいなかった。
「ちいぃ…手遅れだったか」
折角の手がかりを取り逃したのが余程悔しかったか、高槻が忌々し気にゴミ箱を蹴り上げた。
「やっぱり、もう片付けられてたんっスね……」
ひっくり返されて散乱したゴミは一連の動作であるかの様にすかさず豪原が拾ってゴミ箱へと回収する。
その様子を最初何事が起ったのかとおっかなびっくり眺めていた受付のリエ&アキこと楠宮理恵と樫寺亜紀だったが、散らばったゴミを見て怪訝な表情を浮かべる。
「あれぇ、でも変だよ? この菓子の包みって朝食べたヤツだよね、アキちゃん?」
「ホントだ。捨てたはずのFAX紙はもう無いのに何で他のゴミは残ってるんだろ?」
シンクロして小首を傾げる受付嬢二人のやり取りを阿藤が問い質す。
「ねぇ二人とも、それ本当の話?」
「うん、それどころか今日来てから真っ先にお菓子に手を付けたから、なんならFAX見るより早かったよね、リエちゃん」
「ねー!」
阿藤に対する樫寺の返答に掛け合いの様な同意を見せる楠宮。そこに高槻も割って入って来た。
「何だと!? つまりFAX紙だけが処分されているって事か!?」
再確認のためかようやく豪原が元に戻したゴミ箱を奪い取ると、がさごそとゴミを引っ張り出しては中を探る高槻、やはりどれだけ探してもそれらしき紙屑は見つからない。
「こりゃ証拠隠滅された可能性もあるな……」
探偵宜しく顎をさすりながら高槻が推理を巡らすこと数舜、リエ&アキコンビに向き直ると今度は二人の肩を掴んで問い詰め出した。
「お前たち、今日はこの受付から二人そろって離れた時間はあるか?」
「えー? そりゃまートイレとか売店とか、ちょいちょいここにいない時はあるけど……?」
「うん、でも離れると言ったって精々10分そこらだよ? 昼食だって食堂からこっちにわざわざ持ってきて食べるもん」
高槻にがくがくと揺さぶられながらも変わらぬペースで回答を陳べる二人。どうやら受付ブースが空になる時間は思いの外多かったらしい。
「10分もあれば紙屑一枚見つけて持ち去る事なぞ造作も無い。どうやら先手を取られてしまった様だな」
「それじゃあ真相究明の手がかりが途絶えちゃったって事ですか?」
高槻の推理で何者かの関与が濃厚になってきたことに俄かに表情を曇らす豪原。高槻も焦燥感に駆られた様子でしばし考えこんでいたが、不意に何かを閃いたか一堂に振り返る。
「いや、待て。まだ送信先の電話番号で相手の居所が分かるかも知れんぞ!」
「今確認します!」
阿藤が即座に受付のFAX機の履歴を探る。
「……これ内線の番号ですね、所内からかけられてます。番号からすると第4会議室ですけど」
携帯で事務連絡が容易に取れてしまう昨今、さすがに全ての部屋にFAXが置かれることは無くなった。だがこの研究所においてもまだごく僅かな場所には複合型のFAX機が置いてある部屋もある。件のFAXもどうやらそこから送信されたものだという事が履歴から判明したのだ。
「よし、その時間会議室の使用許可を取っていた奴を問い合わせろ!」
「問い合わせるって、誰にですかっ?」
困惑して聞き返す阿藤の真意をすぐに理解出来なかった高槻だったが、少々の黙考の後ようやくその意味するところを理解する。
「そうか、副所長の件もあるし所長代理が味方してくれるとは限らんか。こういう場合は……ならば、成瀬だ!」
スケジュールの統括と承諾は専ら所長職の仕事だが、その中継ぎである事務は所内で何でも屋扱いされている成瀬が受け持つことが多い。阿藤は急いで受付内線から成瀬のラボに連絡を入れる……その結果──
「ダメです。今日は第4、誰も使ってないそうですよ」
またしても空振り。高槻は苛立ちで足を踏み鳴らした。
「おのれ……こいつは完全に計画的犯罪だ!!」
「先輩…ひょっとしてこれって……」
何かを察したかの様に豪原が頭一つ低い位置にある高槻の顔を覗きこむ。表情までは見て取れないがわなわなと震える彼の肩からは気のせいか怒りのオーラが立ち昇っている様にも感じられた。
「決まっているだろーが、こんな戯けたマネする奴は所内でも一人しかおるまいっ!!」
「……う…、浦鳥…さん…っスか?」
戦慄に身を凍らす高槻と豪原。だがようやく犯人像が浮かんだところに水を差したのは阿藤の一言だった。
「そーでしょうか? だとしたらちょっと変に思えるんですけど……」
「ああっ!?」
思いもよらない疑問提示に無意識に牙をむいてしまった高槻だったが、阿藤はそれに怯む様子も無く自身の見解を口にする。
「浦鳥さんの犯行にしてはちょっと巧妙過ぎませんか? 証拠隠滅なんて手の込んだ事する人じゃないと思うんですけど……?」
「ぬ…ぐっ!? 言われてみれば……」
彼女の言い分は尤もだった。もしもこれが香苗の犯行であれば正体を隠す事に何らかのメリットでもない限り、隠蔽どころか嬉々として犯行声明を出してくるに違いない。良い意味(?)でも悪い意味でも、彼女の行動は確信犯的なのだ。
だが彼女の仕業で無いのが事実だとすれば事態はより深刻且つ、混迷を深めたものである事を物語っている。何しろ香苗以外にはこんなことをしでかす人物に思い当たらないからだ。
俄かにミステリー染みてきた状況に、高槻はひと昔前の名探偵の如く頭を掻きむしった。
「……だったら、真犯人は一体誰だというのだ……っ!?」
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