バグの逃走から5日が経過した…。
モニター越しの監視は残念ながら大した成果を上げる事は無く、時折廊下に落ちた食いかけの肉片等の痕跡は発見されるものの、バグ本体は未だに捉えることが出来ないままだった。
「やはりバグはエアダクト内を主に活動範囲にしているようですね…。どうしましょう、通気口毎に定点カメラでも設置してみますか?」
「それでバグを刺激してもあまりよろしくはないでしょう。設置作業の際に襲われるのも怖いですからね」
教授は片倉の提案に対し安全面での懸念を指摘する。
「幸い今のところバグが通気口から外に出てくる気配は見受けられません。また外部通気口には複合ガスフィルターが設置されていますのでそこから外に出て行く心配もないですし、地下2階から下の空調設備は別個のルートを設けて作られています。つまりエアダクトに潜んでいる間は映像でフォローするまでも無くバグの動きを把握することが出来る…という事です」
…とは言うものの、裏を返せばバグがエアダクト内を我が物顔で徘徊している訳で、所員からすれば自分の頭上を危険生物が始終動き回っているという事になる。
「──ですので、各部署から通気口付近での異音の報告が続々と届いてます」
続く成瀬の報告に教授は深くため息をついた、さすがに頭上の脅威が所員のストレスになってしまっている状況は看過できない。
「…ふぅ~む…、仕方ありませんね。でしたらこちらから接触を図ってみるとしましょうか…香苗さん、出番です」
「はいっ? 私???」
急な指名に驚く素振りを見せる香苗であったが何をさせられるのかは凡その予想がついていた。と、いうのも数日前より高槻のラボであれやこれやと体の寸法を測られたり実験に立ち会わされていたりしていたからである。
「高槻君、準備は整ってますね?」
「誰に任せたと思っているのですかな、教授? この短い期間ではあるが抜かりなどあり様が無いでしょうが!」
「では、皆さん今晩は残業をお願いしますね」
ヒグラシの合唱が一際騒がしくなり山の影が研究所にかかり始めた頃、作戦は開始された。
1階玄関口エントランスの通気口前に脚立を立てて、その周囲を教授をはじめとしたバグ対策班のスタッフが取り囲む中、中央棟廊下口から物々しい姿の香苗が登場する。
モスグリーンの作業着に、手足を守るプロテクターには内蔵された各種メカニックが鈍く光る。左耳に装着したインカムには本部との連絡ツールの他、マグライトに小型カメラも内蔵されているのでリアルタイムで香苗の視線が送信されるようになっている。手にしたスタンスティックの他、腰のベルトにはいくつかの攻撃・護身用のアイテムが携帯しているがどれもダクト内での使用を想定してコンパクトに作られていた。
「…これ、ちょっと頑張り過ぎじゃ無いの…?」
「何を言う。所内に巣食う怪物退治だ、本当なら重武装したパワードスーツでも仕立ててやりたいぐらいだ」
些か呆れ顔の古淵に対して高槻は意気揚々と自らの製作したギアの仕上がりを誇る。
「…ねぇ、今更なんだけどさ…」
装備の立派さとは裏腹に、実働の香苗は渋い顔だ。
「何で私が怪物退治しなきゃいけないワケ?」
「決まっておろうが、貴様とこ奴が今回の騒ぎの主犯だからだ!」
高槻はぐいと千代原の後ろ襟を掴んで引き寄せた。
「ボクは頭脳労働専門で体力派では無いのネ。従ってこの役目は浦鳥氏が適任なのネ」
もう一人の主犯は自身にお鉢が回ってくる心配は無いとでも考えているのだろうか…、実に無責任なものだ。教授もそれに補足して任命の理由を付け加える。
「まぁ、それもありますけどね。何しろダクト内は狭いので小柄な人の方が自由に動き回ることが出来て有利なのです。香苗さんの運動神経は所内でもトップクラスですので今回の件に関してはうってつけの適材だと思いますよ」
「…恥を知れ、男性陣!!」
ぶつくさ呪いの文句をたれつつ、香苗は渋々脚立を上っていく。通気口を開いて一度前後を見回して何もいない事を確認するとダクト内に潜り込んだ。
ダクト内部は金属板に囲まれた上下左右が1m四方の空間となっており、香苗の身長でも身を屈めてようやく収まれる程度の広さだ。
「これで先進めって、結構しんどいよ? ほふく前進でもさせるつもり?」
『たわけ、何のための装備だと思っておるのだ!』
香苗の愚痴を聞きつけて唐突にインカムから高槻の声が流れてくる。
『腕のマグネットクローラーを壁面に付けて進むがいい』
「腕の…?」
言われて自分の腕を見ると、下腕のプロテクターに細めの履帯の様な機構が備わっている…そう言えば先日使い方のレクチャーを受けていたのを思い出した。香苗がスイッチを入れてそれをダクトの壁面に近づけるとがちん、と履帯が壁面に食いついた。
「うははぁ♪ これは便利だ!」
香苗は手元のコントローラーを操作してクローラーを始動させると人が早歩きするくらいのスピードでダクト内を進み始めた。
インカム備え付けの灯りだけを頼りに真っ暗なダクト内を進む…、所々で通気口から漏れる廊下の照明が断続的に香苗の顔を照らすのだが、現在のところバグの姿も痕跡も見当たらない。
『香苗さん、2階に上がってみましょう』
対策本部となっている所長室、運び込んだ大型のモニターで香苗の視線カメラと現在地を並行表示するマップを頼りに教授が指示を与える。
やがてこの階のフロアーダクトの突き当りにたどり着いた香苗は垂直に切り立つダクトに手をかけ、壁面に両腕のマグネットクローラーを貼り付かせた。地下2階からまっすぐ伸びる垂直ダクトは遥か下まで暗闇を落としている…、万が一落下でもしたら骨折では済みそうもない。
「この磁石、ちゃんとくっついてくれているんでしょうね?」
『貴様が体重を誤魔化していないのならばな』
「…それでこないだ私の体重聞いたのか…!?」
にべも無い高槻の返答に額に脂汗がにじんだ…そう言えば自己申告体重を5㎏さばを読んでしまっていた。そんな訳で内心不安もあった香苗であったが、どうやら多少の余裕をもって設計されていたらしいクローラーのモーターは、辛うじて彼女を上階まで運んでくれた…。
そうして2階、3階と探索を進めてきた香苗だったが、目ぼしい成果は得られずさらに上に続くダクトに目を凝らす。
「ん~…、何か上にはいないっぽくない?」
「…と、香苗さんは言ってますがどう思われます?」
対策室、教授はスタッフに目を移して意見を求めた。
「これまで痕跡を発見した廊下は一件を除けば全て1階になりますね」
大半の所員の研究室も1階に集中している、異音の苦情もそこからの報告が主だった。
「その一件は何階に?」
「地下1階です」
「するとバグは地階を中心に動き回っている…と見るべきでしょうか…? 人間に警戒しているならば当然人の出入りの少ない上階に潜んでいると踏んでいたのですが…」
別のテーブルに広げた研究所の図面を睨みながら古淵が首を捻る。
「セオリーであれば一度最上階まで探索してから階下を攻めていくべきでしょうが…良いでしょう。香苗さん、そうしましたら次は地下1階に向かって下さい」
『了ォー解! ねぇ、この腰のワイヤー使って降りてみるってどーかな? カッコ良くない?』
装備品の巻き取り式ワイヤーの事らしい…、高槻が慌てて教授からマイクを奪い取る。
「バカたれっ、そいつはあくまでバグの捕獲を補助するための装備だ、懸垂下降など出来る訳な…」
『いぃ―…ヤっホぉ―――っ!!』
…飛び降りたらしい…。
「アホかぁあ―――っ!??」
「うわっ、ひゃああぁあ~っ!?」
物凄い速度で目の前のダクトが下から上へと流れていく、つい勢いで飛び降りてしまったがワイヤーが本当に自分の体重を支えてくれるのだろうか? と香苗は今更ながらに心配になる。下は只々真っ暗な空間…と、唐突に自分の直下から何かが壁をよじ登ってくる…!!!
「んにゃあっ!?」
その正体を確認するよりも先に、香苗はその何かを回避しようと咄嗟に身を捩り、ほとんど無意識でマグネクローラーを側面の壁に叩きつけた。次の瞬間壁に貼り付いた履帯で落下のスピードが一気に減速、同時に腕一本が自分の重さを負荷として受け止める。
「ぬぎぎぎぎぃいぃいっっっ!!!!!」
腕一本分の磁力ではさすがに自重は支えられず履帯が壁から外れそうになった一瞬、香苗はダクトの壁を蹴りつけて落下のベクトルを変え、すぐ脇に口を開けていたフロアーダクトに身体ごと突っ込んだ。狭い横穴にあちこちぶつけながらも転がり込む。
「ァ痛たたァ…」
五回ほど頭は打ったが何とか墜落は免れた香苗、だがすぐに次の危機が彼女を襲う…先程彼女が飛びこんできたダクト口から長い脚が現れたのだ…!
「…いっ!?」
かちゃかちゃと探るように蠢きながらその足は二本、三本と増えてゆき、続いて長い鞭の様な触角、そして黒光りする甲殻に覆われた巨大な昆虫が這い上がってきた。登場の瞬間雄叫びでも上げてくれようものならまだ場が盛り上がろうが、遂に姿を現したバグはただ不気味なくらいの静けさで香苗に迫る。
「で、で…出たァっ!!! ね、出たよ、バグっ!」
香苗はインカムを引っ掴んで大声で無線の向こうにいるスタッフに呼びかけた…反応が無い。どうやらフロアーダクトに転がり込んだ際にどこかにぶつけて故障してしまったらしい。
そうしている間にもバグは僅かな警戒を見せつつもじわりじわりと香苗の方ににじり寄ってくる…何だか話に聞いていたよりもずっとデカくなっている…。
「…何か、武器…っ…」
後ずさりしながら手元を探る…飛び降りるまでは手にしていたはずのスタンスティックが無い…たぶんダクトに飛びこむ際に落としてしまったのだろう。
ちゃかちゃかと妙に軽い足音を忙しく鳴らしながらバグの後ろ四脚がもう彼女の足元まで迫っている。上体を起こし前二脚を大きく構え、今にも飛びかからんとする体勢を取っている。
全てがゆっくり動いている様な感覚の中、香苗はバグの触覚だけが目まぐるしく動き回るのを認めていた…。
じりじりとした緊張の時間は不意に破られた、弾けたようにバグが突然躍りかかる…!
自分の腰回りを探っていた手が何かに触れるや否や、香苗はよく考えずにそれをバグに投げつけた。握りこぶし大の金属の塊がバグの胸にぶつかった瞬間それは破裂するような音を立て、勢いよく白い煙を噴き出したのだ…思いの外大きく狼狽えたバグの姿が白いガスにかき消されてゆく。
香苗が投げつけたのは手投げ式のガス弾だった。本来なら殺虫剤でも詰めておけば威力は絶大なのだろうが、それがどれほどバグに有効なのかをこの短期間では確かめられなかった事と、今回の様に近接戦で用いる可能性もあったため安全上の理由から替わりに炭酸ガスを注入させておいたのだった。
だがそれでも十分に効果はあったようで、急激に体を冷却されたバグは目に見えて動きが鈍くなる。その隙を逃さず香苗はマグネットクローラーを起動させてその場から後退した。
「浦鳥さん、こっちです!」
後ろ向きで進むその先で、誰かが呼ぶ声が聞こえてきた…振り返り見るとダクトの一角の通気口が外され、光が差し込んでいる。
「手を伸ばして下さい、引っ張ります!」
豪原が下から手を覗かせて叫んでいた。香苗がその手を掴むとぐん、とダクト外に身体が引っ張り出される、同時に脚立に上った所員が大急ぎで通気口を取り付けネジを締めた。
「大丈夫ですか、浦鳥さん」
「助かったぁ…死ぬかと思った…」
「このどアホゥが! 調子に乗ってダイブなんぞするからこんな事になるのだ!」
高槻が香苗のインカムをもぎ取ってその場で分解を始める。
「…雑に扱いおって…」
「でもどうしてこんな良いタイミングで救援を? インカム壊れちゃってたのに…」
装備を外しながら香苗は二人に疑問をぶつける、高槻は彼女を一瞥したっきり「ふん!」と鼻を鳴らして何も言わなかったが、代わりに豪原がそれに答えた。
「通信は出来なくなってたけど、映像は届いてたんでバグの出現はこちらでも把握できてたんです。あとはマーカーを追ってここで待機してました…実は先輩の機転なんですよ」
少し笑いを押し殺して豪原は香苗に耳打ちする、香苗は「へぇ~?」と高槻の顔を覗き込もうとするが高槻はさもこちらには興味無さげにインカムの応急修理に集中して(…いるフリをして)いた。
「そうなんだ…、で、バグの方は?」
「残念ながら逃げられたようですね…教授が一旦対策本部に戻って来るよう言ってました。作戦の練り直しです」
「…そう…」
香苗は頭上のダクトに目を遣る。
「…見てなさいよ、次に遇う時にはブッ飛ばしてやるんだから…!」
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