思わぬところから問題解決の糸口をつかんだ教授は、早速提案書作成のため香苗と研究所へと戻る事にした。
──それにしたって、あのネーちゃんが何も騒ぎを起こさへんと帰るなんて珍しい事もあるモンや…なんて思うかも知れへんが、さにあらず…。
…実際にはその後、香苗はロビーに向かう途中で姿を眩ます。
C-Xの部屋がよほど寒かったのか、施設内を徘徊した後潜入した水素燃料の研究室で暖を取ろうとして不用意なボヤ騒ぎを起こした結果、最後には大爆発を起こしたのだった。
更にA.S.U.R.A.に戻ると怒り心頭で待ち構えていた古淵との大乱闘が勃発、その巻き添えを食った教授が腰を打ち付け救急車で運ばれる事態となったのであるが、これらの騒動と顛末についてはいずれも本筋と関係無いので割愛、である…。
…そうして数日が経過した午後の所長室、お茶当番も兼任する香苗は所長のカップになみなみとコーヒーを注いでいた。
「──で? それからあのアトムくんはどーなったんです?」
ここ数日の平穏さにそろそろ退屈を感じていた香苗は、ふと思い出して先日の件など教授に訊ねてみる…そういえばその後あの人格シミュレーターに関する噂は特に伝わってきていない。
「香苗さん、アトムではなくってC-X888です」
「別に名前なんてどーだっていいよ」
…以前研究資材にも名前を付けた方が愛着が湧く…などど言っていたのは一体どこの誰だったか…?教授はなみなみの上、熱々のコーヒーカップを持て余して一旦手元に置くと、何とも遣る瀬無い顔で香苗に顔を向ける。
「…それがですねぇ…、プログラムを更新したらもうまるっきり使い物にならなくなってしまったそうです」
「え~? 何でぇ!?」
言い方から察するところ、どうも対策が不完全だったとか、小さなアクシデントがあったとか、そういう次元の話では無さそうだ。内心もっと景気の良い結果を期待していた香苗は、それとは全く正反対の結果に驚きを見せる。
「変更を受けて動き出したまでは良かったんですけどね…その思考に利己的なロジックが次第に強く出始めて、そのうちそれが目に余るレベルにまでなってしまいましてね…」
一言一句に合いの手入れる様な大きなため息をつくものだから、まるで何者かに対する当てつけにも聞こえてくる様な大袈裟な落胆を表して教授はC-Xに起こった変貌を語る。
「…イージーミスや故意の手抜き、演算結果のごまかし等々…、仕事に支障をきたすような問題行動や不正行動が多くなってしまったのです。挙句の果てにはそうした落ち度を世界一の頭脳をフル回転した屁理屈で正当化しようとする始末。…そう言えば香苗さんに世界征服は短絡と言いましたが、似た様な事もやらかそうとしたらしいですよ? …結果として本来の演算作業や実証実験にも多大な時間のロスが生じてしまったそうです」
「うわぁ~…」
その惨憺たる有様に思わず同情含みの声を漏らす香苗…それがどこか愉快気にも見えるのは気のせいだろうか…?
「あまりの身勝手さに腹に据えかねたオペレーターがとうとうC-Xの電源を引き抜いてしまったと言うのですから、その心中は察するに余りあります。…とても他人事とは思えませんので…」
そう言ってちらりと香苗の方を見る。
「…何っスか、その目は?」
それがどういう意図での視線かぐらいは理解できる程度に普段の行動に対する自覚はあるらしい…、香苗は教授の視線に対して不貞腐れ顔で抗議の意を示した。
「…いえ、人間らしいと言えば実に人間らしくはあるのですがね…」
相手の怒りを逸らすためか、教授はこほん、と咳払い。
「まー確かに生真面目なだけでは負担が大きくて機能もままならないとは思うのですよ。だから少々のいい加減さも必要という香苗さんの案は決して間違いだったわけではありません。…しかし、だからと言って利己心ばかりを優先させる脳は社会性を持つ生物のそれとしては論外──そこから生み出されるものは心と呼ぶには値しないと私は思うのです」
窓から空を見上げる教授、どこまでも深い青に一条の飛行機雲がたなびいている。
「…どうやら人の心は奥深い…そこにはまだまだ先があるのでしょうね…」
いつの間にか冷めていたコーヒーをこぼさないようにそっと啜る教授。香苗もまたちゃっかり持参した自分のカップにコーヒーを注ぎ、ソファーにふんぞり返ってティーブレイクを満喫しきっていた。
「そう言えば、香苗さん…あなためんどくさい、楽したいって思っていても、一応最低限の仕事はこなして下さってますよね? それは何故ですか?」
「ほぇっ!?」
今度は教授が少し愉快気に香苗に質問を投げかけた…これまた静岡で香苗自身が口にした言葉である。
「…え? なぜ…って、んーと…それは~…何となく…?」
理由なんか聞かれてもそこまで考えて行動している訳が無い、自身の心理を言語化出来ずに香苗は傾げた首が定まらないでいた。
「そうでしょうね、夢や命でもかかっていない限りは特に明確な理由なんて日々の生活には必要無いと思います。そこにはきっと漠然とした別の価値観が存在しているのではないかと考えるのですよ…例えば、職場や学校であればまだ割り切ることが出来るとしても、これが男女や肉親の情などが関わってくると単純な利己心では割り切ることが出来ない様な何かが…」
「何かって、何よ?」
「はてさて? それは私にも…」
問われたところで教授にもそれが具体的には判然としないらしい。
「うわ、いーかげん! それが科学者のセリフ?」
照れなのだか誤魔化しなのだか…、苦笑交じりで教授は彼女からの追求の眼差しをただ避けるしかない。
「まぁ…人は皆、何かしら苦しみやハンデを抱えて、それでもその不合理と折り合って生きてゆくものですから…。何か上手い喩えは無いものですかね…ええっと…」
…で、避けた視線をそのまま泳がせてその場に見合った言葉なんぞを探す…。
「──強くなければ生きてゆけない。優しくなければ生きる資格が無い。…確かフィリップ・マーロウでしたっけ?」
「レイモンド・チャンドラーだよ、それは」
しれっと答える香苗。
「…」
別に何か確証があってそう思うのではない…、だが最近こうして時折見せる香苗の「冴え」に、教授はそこはかとない不穏な予感を感じるのである…。
…なお、余談だがその後人格シミュレーターC-X888はプログラムの初期化を受けて再び沈黙に落ちる事となった…。
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