「精密検査の結果では腎臓が少し傷んでいるらしいです。他にもあちこちガタがきているんでやっぱり手術を受けるのでしばらくは入院することになりそうですね…。いやぁ、まいっちゃいました…」
教授は手術の同意書に筆を走らせながら自身の容態をベッド脇にて見舞い品の菓子折りやフルーツ盛り合わせを貪り食う付添人に語る…、教授が入院する事になって3日目、病室ではあれ程付き添いを面倒臭がってた香苗の姿があった。
付き添いと言ってもやることは精々研究所と病院側との連絡取り次ぎと教授の退屈しのぎに付き合う程度であり、それ以外は一日中自由時間みたいなもの、もちろん本来身内であればそれでも患者の身を案じて気が気で無い時間を過ごす事になろうが、単純に労働条件として考える場合それは決して悪いものでは無いので、職務に怠慢な所員であれば真っ先に飛びつきそうな役目であろう。
「…ふぅ~ん、そりゃ大変だ。まぁ折角だから休暇もらったと思ってゆっくりしたら?」
教授の話をまるで他人事の様に聞き流す香苗の反応は、だがそのどちらでも無くひたすら退屈そうにしている。その態度は意外にも思えるのだが、よくよく考えれば彼女の場合は単に仕事を怠けたいのではなく、「刺激に満ちた怠惰な生活」を求めているフシがある。それ故にであろう…、こと自分の興味惹かれる事…大抵は悪事なのであるが…に注ぎ込む労力に関してはそれを惜しむことが全く無い。
本末転倒、矛盾この上ない行動だが、そうした意味で付き添い役にあまり食指が動かなかったと考えればこの任を敬遠していた事もまんざら理解出来ないではない。…だが、ならば今度は何故今日ここに来ているのかが腑に落ちなくなってくる、彼女の性格からすればいかなる手段を用いても拒絶しそうなものであるが…?
──ホンマ、人間っちゅーのは量り難いと熟々思う訳や…。
「ゆっくりしたいのは山々なんですけどねぇ…」
教授は心許無げにため息をつく。
「いえ、所員の皆さんを信頼していないわけでは無いんですけどね、どうにも心配になっちゃうんですよねぇ…。こんな所で寝ていて良いのかと思っちゃうのです」
そう言って窓の外…視線の先に在るはずの研究所に思いを馳せる教授、その腕から伸びる点滴が痛々しい。
「だったら余計に今は寝てりゃ良いんじゃないの? そんな状態で出勤してこられちゃこっちがいい迷惑だよ」
気を遣ってるにしては自分の職場の最高責任者に対してあまりの言い様にも思えなくはないが…一先ず彼女の言い分は正論ではある。
「まー、留守の間は私たちに任せときなさいって! それなりに楽しくやっておいてあげるからさ♪」
「…それが心配なんですってば…」
例の悪魔の笑みを一瞬垣間見て教授が冷や汗を浮かべる、全く以て看病に来たのだか容態を悪化させたいのだか…病床に就いていてもちっとも気の休まる思いのしない教授であった。
その後彼女は二度ほど往診と検査に同行し、時折医師の回診大名行列に車椅子で突っ込み大立ち回りを繰り広げるといった些細な(!?)アクシデントなんぞもいくつか起こしつつ、やがて面会時間が過ぎると引き上げてゆく。そうして怒涛の一日を終え、一人残された病室で教授は思案に暮れていた。
「…やはり万全は期すべき、ですよねぇ…」
この時教授の頭の中では自身の不在中の穴埋めとして、一つの対策案が練られていた。
それから数日後のA.S.U.R.A.…、その日朝から緊急集会があるとの通達が回り、全所員が講堂を兼ねた大会議室へと集められていた。
「何なのよぉ、朝っぱらから朝礼なんて、小学校や中学校でもあるまいし…」
「朝礼じゃなくて集会ね。何でもさっき矢部さんから聞いた話では人事に関する報告があるそうですよ」
出勤して未だ眠気冷めやらぬ香苗のぼやきに阿藤がご丁寧な事に添削を加える。
「人事? 誰かクビにでもなるの?」
「…それ、集会でやったら只の公開処刑になっちゃうじゃないですか…。そういうのじゃなくって新しく職員が入るんじゃないですか? しかもわざわざ所員集めて公表するからには要職だと思うんですけど…」
「要職ねぇ…ふぅ~ん…所員から選ぶんじゃなくって外から引き抜いてくるんだ…ヤだねぇ~…」
大袈裟に顔をしかめる香苗の裾を、注意を促すように引っ張った阿藤は彼女の視線を演壇へと促す。
「ほら、来ましたよ」
前方では拍手なども湧き上がっている、それに招き入れられて一人の男が登壇して来た。
…やけにガタイの良いオッサンだ…それがその男に抱いた香苗の第一印象である。
身長は教授と同じくらい…いや、少しだけ低いか…だがとにかくその体格の良さで、枯れ木のようなひょろっとした教授に比べてずっと大柄に見える。ただし、体格が良いと言ってもボディービルダーの様な筋骨隆々のマッチョでは無く、喩えるならベテランのプロレスラーの様な体格なので決してカッコ良いという外見ではない。
そのガタイの良いオッサ…もとい、人物は演壇に着くとマイクに向かい自己紹介を始めた…。
「あー、おはよう諸君。ハチ…いや、赤鰯所長からの要請で彼の不在の間、臨時で所長の業務を代行する事になった鋸引勇作だ、よろしく!」
会議室が水を打った様にしん…と静まり返る。
所員一同は誰もが妙に引きつり、驚きとも困惑とも、あるいは笑いともつかない微妙ぉ~な表情を浮かべていた。別にこの鋸引と名乗った人物が奇妙な事を口走ったからでは無い、所員一同を凍りつかせた原因…それは他ならぬ彼の頭上にあったのだ。
鋸引の頭頂部…軽くウエーブのかかった髪から耳が、…いや彼本来の人間の耳では無く、ふさふさした柔毛に覆われた獣の…猫の耳が覗き、それが時折ぴこぴこと動いて壇上から愛想を振りまいているのである…。
予めこうする事を聞いていたのだろう…鋸引の脇に控える矢部が今にも消え入りそうな居たたまれない顔でそっぽを向いているのが見える、一方当の鋸引はそうした所員のリアクションに全く臆する素振りも無く、更に自己紹介を続行する。
「赤鰯とは多少方針が異なるので戸惑うことは多いと思うが、彼が退院するまでの短い期間、責任持ってこの研究所を守っていくつもりなので皆も力を貸してくれると有難い」
「はぁ~い! 質問!! オッサンの頭に付いてるその変な耳は何でしょーか?」
例の如く、場を弁えない香苗の質問が割り込んでくる。別に質疑応答の時間でも無し、常識的に考えれば就任挨拶中に質問投げかけるのは如何なものか?などとは思うのだが、今回ばかしは所員全員が彼女のこの非礼を内心歓迎していた、…あの古淵でさえその行為を咎めようとはしなかったし、中にはこっそりと陰でサムアップする者までいる始末だ。流れ的にはいつもの香苗が引っ掻き回すパターン…ところが、である。
「おー! キミか、ウラシマ──何とか君とやらは? 噂には聞いているぞ!」
相対する鋸引はそんな小娘の非礼などものともしない、まるで動物園のパンダ舎でも見つけたかの様に物珍し気に壇上から香苗の姿を仰ぎ見る。
「だ…っ、誰がウラシマだぁっ!! 浦鳥よ、浦鳥香苗っ!!!」
「おぉ、悪い悪い。俺ぁ、どうにも人の名前憶えるのが苦手でなぁ! それにしても、想像していたよりは全然お子様だな、もっといかつい豪傑女が出てくるもんだと思ってたぞ?」
「ン…なっ…!??」
これっぽっちも悪びれていない鋸引に豪快に笑い飛ばされ、香苗が屈辱に顔を赤らめる…、何やらいつもと勝手が違うこの状況に所員一同の間からどよめきとざわめきが漂い始めていた。
「おい…浦鳥さん、圧し負かされていないか?」
「何かヤベェぞ、あの所長代理…!?」
騒然とする室内は一向に落ち着く様子は無い、だが一際大きく両手を打ち鳴らして鋸引は動揺する場の衆目を自身に集めさせた。
「はいはい、話続けて良いかな諸君! この耳の件だよな?」
鋸引は自分の頭でご機嫌で跳ね回る猫耳を指差す。
「こいつは企画検討中の玩具『OIWEC』、装着式の生物模倣型拡張部位だ」
猫耳が装着者である鋸引きの視線に合わせて所員一同を見渡す…どうやら単なるウケ狙いで付けてきた様では無さそうだが、この後の彼の発言に所内は更なる困惑と混乱に包まれるのである…。
「早速だが諸君らにはミッションとしてこのOIWECの実地試験を行ってもらう。今日から一週間、勤務中はこいつを装着して過ごしてくれ!」
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