神奈川県北西部の山間に『赤鰯科学技術運用研究所』…その英訳の頭文字を取って略称『A.S.U.R.A.』が在る。
この研究所は官民問わず科学・工学に関する研究や技術の実地検証を行う機関で、白物家電の耐久試験から都市工学シミュレーションまで、実に手広く扱っている。風の噂では外国の兵器実験や怪しげな地球防衛組織の超テクノロジーの研究もしているのでは?などと実しやかに囁かれているのであるがその真相は定かではない。
──ま、信じるか信じへんかはあんた次第ってヤツやな…。
先の実験を行っていたスタッフも皆この研究所の所員であり、その陣頭指揮を執っていた人物が所長の赤鰯鉾郎である。…ちなみにこれは余談なのであるが、所長なのに何故「教授」と呼ばれているかと言うと、副業で某大学の理論物理学の教鞭を執っているためらしい。
さて、件の実験から数日後、所内では検証結果を基にその技術の有用性に関する報告書の総括に取り掛かっていた。広い会議室には先日実験に立ち会った者、そうでない者合わせた所員全員が集まっている。所長を始め受付に至るまで、「若干一名」を除いて所員全員が何らかの科学・工学に通じているので、この研究所では大きな案件の場合はこうして全員に出席を求める事となっているのである。
「──以上、本案件は国土交通省からの依頼によります騒音対策設備の技術検証の一環として行われております」
議事進行を受け持つのは古参の所員であり実質上の副所長である矢部庸介。
「従来の遮音壁の機能向上は予てより各機関で検討されてきましたが、今回の場合それに加えて昨今の再生可能エネルギー化の推進案として騒音そのものを資源化させようとする試みであり、その有効性・有用性に具体的な指針を設ける事を目的にしてますが、技術的課題を浮き彫りにするため所員各位に忌憚のない意見を聞かせて頂きたいと考えます…ということで──」
黒縁眼鏡の矢部は斜向かいにデン、とふんぞり返る片や遮光ゴーグルの高槻正義に目を向ける、今回の音電素子の基礎設計と変換システムの理論は彼の手によるものなのだ。高槻は席から立ち上がることも無くそのままの状態でシステム概要の説明を始めた。
「あー、今回実験に使用した吸音壁は熱音響冷却システムを応用したものだな。ここに雁首揃えている連中には細かい説明は必要ないと思うので端折るが、要するに熱音響現象を逆に発生させることで音の振動を熱に変換、その温度変化で発電させようとする装置なわけだ」
熱音響とは熱による空気の膨張・圧縮によって音響が発生する現象である。
熱を音に変換できるということはその逆もまた然りであり、彼の設計したシステムはこれによってまず騒音から熱を発生させる。この熱を用いて、ゼーベック効果という現象を利用した温度差で電気を発生させる素子により発電する…というのがその基本設計なのである。
「理論の上では決して実用性の低い技術では無いと思うんですが、変換効率の低さがまだ問題ですね──」
計測データに目を通しつつ、成瀬千尋が改めて核心となる問題点を挙げる、実験場ではアナウンスに当たっていた女性研究員である。成瀬はやや芝居染みた仕草で小首を傾げる。
「──どうして余分なエネルギー消費が起こっちゃうんでしょうね?」
どうしても何も、彼女もまた一端の研究者なのだから頭の中で考えられる可能性はいくつか浮かんでいるはずだろう。だが、今この場ではより専門の研究員に託した方が無難だとでも思っているのか安易にそれを口にしない。
「現代科学ではまだ100%のエネルギー変換は不可能であることを考慮すれば変換時のロスはどうしても起こるものなのだが…、実験中の音電変換効率は当初の予測の半分にも満たない数値というのは何かしらの外的要因があるものと考えるべきなのだろうな。高槻君、何か原因に心当たりは?」
「まぁ…、変換工程が回りくどい分エネルギーロスが発生することには目をつぶってもらうとして、今回検証実験が屋外での運用を想定した点では設備面に問題があったのではないでしょうかね?」
成瀬の疑問を受けた矢部の補足で高槻は口をへの字に曲げたまま、持論を展開させる。
「施設内とは違って開けた屋外ではエネルギーの拡散が大き過ぎる。それに変換システムから電力のアウトプットまでにもっと増幅器を増やした方が良い」
「いえ、増幅器を置いても中継がその分多くなればやはりロスは起こるんじゃないんですか?」
高槻の案に対面に座る町田優が口を挿む。優等生の典型と言った童顔に虫も殺さぬような優男だが、口調にはどこか険がある。
「その分はケーブルの伝達効率を高めれば良いだろうよ? いずれにしろ今の段階から送電網を念頭に入れた実験環境を整えないと、データの信頼性が無くなるだろうが?」
「まぁまぁ、落ち着け」
論戦がエキサイトしかかるのを矢部が押しとどめる。少々憤慨した様に高槻はリクライニングチェアに身を沈めると尚もぶつくさ愚痴をこぼす。
「…12.44%って結果には正直不満なんだよ、俺も」
高槻はいかにも面白くなさそうにフンっ、と鼻を鳴らした。プライドが高いのだろうが、まぁ設計の中心人物としてはあからさまな不満も致し方が無いところだろう。
「教授、私見を述べさせて貰うなら…」
髪を後頭部で無造作に結った女性がおずおずと挙手し発言機会を求める。教授は手を差し伸べてそれを促した。
「どうぞ、古淵さん」
「はい、実証という面では確かに今回の実験では成功を収めていると言えるのでしょうが…まだ実用性には難あり、というのが現時点での結論ではないかと私は考えます」
「でもクライアントの求めているのは技術的に可能か否か…って話ですよね? そういう意味では課題は十分クリアーされているとは思いませんか?」
何が不満なのか町田は矛先を古淵雪乃に向けるが、古淵も怯むことは無い。
「それじゃ子供のお使いです。こちらの見解も報告書には加えておくべきじゃないでしょうか?」
「そうでしょうか? 僕は現状の問題点を列挙するに留めて、且つ、開発の推進を前提とした報告書を提出することが重要だと思うのですけど」
「確かに案件の如何を論じるのは今回の場合我々の役目ではありませんが…、判断するのはあくまでクライアントですので述べるだけの事は一通り述べておいても差し障りは無いでしょう」
紛糾の気配を察して教授が再度依頼内容を咀嚼する。
「それに変換効率に関しては今後いくらでも改善は可能だと私は思います。技術面での不備や不足に関しては今回は目をつぶっておきましょう」
…異論は出ない。鶴の一声の喩えもあるが、所長の言葉となれば一応の収まりは付くものだ。
「まぁ、個人的な希望としては、この技術開発が実用化に至れば次世代エネルギーとして非常に有力な候補になり得ると思うので、そうなって頂きたいのですよ。何しろ人口密度の高い先進国ほど供給源が高くなるエネルギー資源ですから、世界の資源争奪戦にパラダイムシフトが起こる可能性だってあり得ますのでねぇ」
子供が絵空事を思い描く様に自身の展望を交えて語る教授、彼にはそうした一面がある。いずれも自己主張の強い科学畑の人間たち、銘々譲れぬ事も多々抱えるが故に時に対立も起きるものだが、それを取り仕切る代表がこんななので所員らは毎度こうして毒気を抜かれてしまう。
…面倒臭い集団である。
「…ところで、浦鳥さんの姿が見えませんがどなたかご存じありませんか?」
ふと、一人の所員の不在に気づいてその姿を捜す教授。それを聞いた途端、俄かに場がザワつき始めた。
「…そ、そう言えば…、やけに静かだと思ったら…!?」
不安を覚えてか古淵が周囲を見回す。
「相も変わらずどこぞにエスケープしてんじゃないですかね? あの小娘はこうした小難しい論議の場に興味は無いでしょうからなぁ」
何か嫌な記憶でもあるのか苦々しげに悪態をつく高槻。
「だとしても、いつもなら面白がって場を引っ掻き回しに現れると思うんですが…はて?」
天文分野が専門であるため当日は立ち合わなかったクチの阿藤みゆきは割と動じない様子で首を捻る。
「…てことは…今は野放し状態か!?? あのテロリスト女!??」
「あの娘の事よ…また良からぬことを企んでいるに決まってる…!」
一部の所員の中には既にプチパニックを起こしかけている者さえいる。
──なんや、どエラい言われようやな…って、おっと失礼…。
それにしても随分な恐れられ様である…その女性、浦鳥香苗とは他ならぬ、先の実験場で計測には加わらずあれこれ物色していた女性の事である…。
「まぁまぁ、皆さん落ち着いて…。別にこの場にいないからといって必ずしも香苗さんが何か企てているとは限らないですし──」
…言いつつ、教授もまたその発言には責任も自信も持てない。
「──ああ、もぉ…いないならいないで結局騒ぎになるのですねぇ…」
今に始まった事ではない、この一同の戦々恐々としたリアクションこそが彼女が今まで何をしてきたかを如実に物語っているのである…。
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