翌日になると噂は更新され、所内は更なる混乱の坩堝へと落とされてゆく事となる……。
「聞いたか? 所長代理の引き抜きは浦鳥さんだって話だぜ?」
「えっ、本当かよ? やった! これでようやく研究所内に平和が訪れるじゃあないか!!」
「今聞いてきた話によると、何でも太陽系に接近中の居住可能な地球型惑星探査チームの隊長になるらしいぞ」
「あれっ? 私が聞いたのはユーゴスラビアに異世界に通じる穴が開いてそこから這い出てきた巨獣に対抗する地球防衛チームの長官になるって話だったけど?」
「いやいや…そりゃどこから聞いてきた話だよ!? そんな荒唐無稽あるわけ無いだろ?」
「そもそもあの所長代理って元々何やってた人なんだ? 教授の古くからの友人らしいけど……」
「米国じゃ有名な科学者で、しかも事業家としても相当なやり手だって云うね」
「なんでも、世界でもトップクラスの研究者や企業等々各方面にコネクションを持っているのだとか」
「その割に日本ではそんな噂伝わってこないけどなぁ?」
「とにかくその人物が浦鳥さんを選出したってのか?」
「けど、何であの人なの? 私は何だか釈然としないなぁ…。それじゃあまるで私たちより彼女の方がずっと優秀みたいじゃない」
奇妙なのは、こうした噂話は伝播の過程で内容の細かい部分が順を追って改変されてゆくものであるが、どういう事かそれが所員の出社時点で既に多種多様なバリエーションが出揃っていた点である。
また、それだけバリエーションを広げながら香苗が選ばれたという一点においてのみ、内容が共通していたのも普通の噂話とは様相を異にしていたのだ。
兎にも角にも、急速に駆け巡った噂の最新情報群をある者は戦々恐々と、またある者は無責任に流布させ、午後を過ぎる頃には所内の雰囲気は混迷を深め、羨望と嫉妬を孕んだ一種異様な空気で満たされていた。
──まぁ、そーやって右往左往しとる暇があるんやったらとっとと自分の仕事でもせえっちゅー話なんやけどなァ……。
「不可解よ! よりにもよって噂がこんな形に変容するなんて…!?」
一方、例の如く所員たちが集う所内の憩いの場である食堂フロア。そこで本来の噂の漏洩元である古淵が不本意極まりないといった形相で頭を抱えていた。ただしそれは自身のミスに対する意気消沈とした様子ではなく、憤怒に近い憤りの感情剥き出しの形相だ。
それも致し方が無い話で、引き抜かれる人物が他でもない香苗なのだから、憤まん遣る瀬無きその気持ちは察するに余りある。
「確かに、これはさすがに作為の様なものを感じますね」
そんな彼女の横では阿藤が同情と憐みに満ちた慰めをかけている。
「尾ヒレ背ヒレが付いた程度じゃこんなピンポイントな噂話が構成されるはずが無いですからねぇ……」
「これは何者かによる陰謀か工作よ!!」
「その点は異存は無いがな、古淵女史よ。その何者かとやらの正体が未だ掴めないって所がどーにも俺には引っかかるんだがね?」
いきり立つ古淵に対してテーブルの対面に座る高槻が冷ややかな指摘を加える。こちらもやや面白くは無いといった表情だ。
「それに目的も定かじゃありませんね」
更に畳みかける様に付け加えてきたのは町田。
「古淵さんが言うように何らかの工作であるなら、そこには明確な目的があるはずなんです。ところがいま広まっている噂話にはどうもそうした意図が見えてきませんよね?」
古淵、高槻両名に比べるとさほど状況に対して不快な感情を持っている風には見えず、どこか他人事のような様子から彼の発言は只の究明意識から出たものと見受けられるのであるが、そうしたスタンスからの町田の推理がどこか気に食わなかったか高槻は反証を唱えた。
「謀が必ずしも目的を伴うとは限るまいよ? それが単なるアジテーションだったり、只々混乱を起こす事を狙っているのであればそこにベクトルは必要無いだろうが」
「そもそも噂を流した張本人が考えを持ってやっているとも断言できないのネ」
こちらも他人事顔の千代原。
「ひょっとしたらなぁ~んにも考えずに噂を垂れ流しているだけなのかもネ」
「後先考えず、その場のノリで…ってことっスか? それってまるっきし浦鳥さんの手口ですね……」
何故かイスに座らず立ちん坊の豪原がふと口にした名が、その場の一同に緊張を落とした。己の中で何か確信でも得たのか、それに応じて古淵が大きく頷く。
「そうよ、やっぱりあの娘が──」
「いや、待って下さいってば。だから浦鳥さんの割には今回の場合は手口が巧妙過ぎるって昨日言ったじゃないですかぁ!」
と、良からぬ結論に達しかけた場を修めるべく慌てて阿藤が割って入り、そして一呼吸、間を置いてから自らの見解を口にした。
「………私には今回の件、やっぱり別の誰かの仕業に思えるんですよね……」
「誰かって、誰が……」
言いかけて古淵は口を噤んだ。結局昨日から議論はそこで堂々巡りになってしまっているのだ。そうしてまたもや停滞した空気がその場を支配する。
「…ふん、気に食わんな……」
遅々として進まない謎の解明にいい加減辟易した表情で高槻が不満を漏らした。
「最初から今回の件、釈然としない事が多すぎるのだ。特にあの所長代理殿に関してはな!」
実は引き抜き話に関しては、彼とてそんなオイシイ話があるのならそれに触れることに吝かではなかったのであるが、問題はそのスカウト主である鋸引の人となりに対して、どうしても一抹の疑念が拭えぬ面があった点だ。
確かに赤鰯教授が信任する人物であるからには決して怪しい経歴の持ち主であったり、間違っても反社会的な人物という訳では無かろう。では何が疑わしいのかと言えば、彼が本来手掛ける研究対象なのである。
「千代原よォ……、お前所長代理殿が米国で研究していたネタって知ってるか?」
「知らないのネ。ボクはそういうの、別にどーでもいいのネ」
そうした出世云々にはとんと興味の無い若年寄は大して話題に食いついてくる気配も無い返答を寄越してくる。聞いた側の高槻も彼に振ったのは口上にワンバウンド入れるだけのためで、元々コイツに気の利いた回答などは期待していないとばかりに口をへの字に曲げた。
「『社会構造の量子的解釈』だとよ。なんでも、人と人との関係性には何らかの量子力学的な干渉が存在していて、それを証明しようという研究なんだそうだ。シンクロニシティやバタフライエフェクト、運勢なんぞもその対象らしいな」
「何スか、ソレ? 前半は科学っぽい話ですけど話の後半はまるっきしオカルトじゃないっスか!?」
豪原の困惑が一同の心境を代表している様に、高槻の話には誰もが驚きと不信感を隠せないでいる。
「そいつぁ『次元素粒子理論』と呼ばれているのだとさ。……で、その理論によれば相互に働く人間の意識にもエネルギーの媒介が存在するのだとされ、これを利用した最終的な目論見は人間の存在価値をエネルギーに変換できるシステムの開発にあるのだそうだ。まぁ、一種の無限エネルギーだな…、ハっ! 似非科学染みたとんでもテクノロジーというわけだ!!」
言ってて自分でも呆れかえっているのか…、高槻のセリフは最後に嘲笑交じりのトーンで吐き捨てられた。
「到底信じ難い話ね。絵空事もいいところよ」
高槻の話を眉を潜めつつ聞いていた古淵が口を開く。
「…でも、言われてみれば置かれている環境条件の異なる人間同士に発生するシンクロニシティはまるで量子もつれにも似ているわね……」
そこまで話してはっと我に返ると、何か信じられないものを見ているかのような一同の視線が彼女に向けられていた。先程のは普段からごりっごりの現実主義者を標榜する彼女らしからぬ発言。本人もそれを解っているので古淵は顔を赤らめて自らの持論を即時否定に走る。
「だ…っ、だからってそんな胡散臭い話、現実にあり得るなんて信じてませんからねっ!!」
「そいつぁどうかな?」
同じく普段から現実主義を掲げながらこちらは何らかの理屈付けを図らないと気の済まぬ性格の高槻は、この話を荒唐無稽と断じながらも完全否定にまでは傾いていなかったらしく、彼女の発言に待ったをかけてきた。
「シンクロニシティは『共時性』とも呼ばれ、あくまで偶然の出来事が関係性を持たない別々の場所や人との間で起こる現象だが、バタフライエフェクトなんて現象が森羅万象の結びつきで発生する事を意味している事を考えれば、そうしたシンクロニシティも単なる偶然では片づけられないだろうがよ」
「けど、似ているからってそこに相関性や科学的根拠があるなんて疑わしいじゃない?」
「量子もつれだってつい此間までその存在さえ疑われていたではないか。そう考えればどこにどんな可能性が潜んでいるかなんぞ分かる訳なかろう? まぁ、さすがに精神的世界が物理の境界線を越えるなどとはまだ現時点では言い難いがな」
「あのぉ~…ちょっと良いですか、先輩?」
講釈が長引きそうな気配を察し、阿藤がおずおずと発言を求めてきた。
「何だか論点がズレて来ちゃっている様な気がするんですが……?」
「…ぬっ、そ、そうか……」
自身も途中で個人的な疑問を挟んでしまったのが脱線の原因である事には気づいていたので、実はブレーキをかけて貰って内心ほっとする高槻。
もちろん阿藤が口を挟んだのはそれだけが目的ではなく、実は今の今になってとてつもなく重要な事に気が付いたからである……。
「それでですね…あの……、これ今回の件と関係あるか無いかまだ確信が持てないんですけど……」
「何だ? 言いたい事があるならはっきり言え」
自分から切り出しておいて言い淀んでいる阿藤を高槻が急き立てる。目上とは言えつい先ほど助け舟を出してもらった事などまるで無かったかのような実に恩知らずな態度である。
阿藤は非常に言い難そうに…というのもその事実がこの後どれだけ場を戦慄させるかが目に見えて分かっていたので…、十分に周囲の目を窺った後に口を開いた。
「……浦鳥さん、ここしばらく誰か見た人います……?」
案の定、その場にいた一同が全員凍りついたかのように動きを止めた……。
……しばしの沈黙、やがて各々が声を絞り出す。
「そ…っ、そういえば自分、ここ何日かあの人の姿を見てないっス!?」
こわばった表情で周囲を見回す豪原。もちろんそんな目の見えるところにいようはずも無い。
「言われてみれば…! でも何で今まで誰も気づかなかったんだ?」
別に誰かを責める意図では無く、強いて言うのであれば自身に向けた独り言のような町田の追及。
「みんな迂闊なのネ」
ボクは知ってましたよ? とでも言いたげな千代原であるが、当然自分も今気づいたところだ。
「ああ…やっぱりみんなも気づいてなかったんだ……」
阿藤は頭を抱えた。これが何か良からぬ事態の前触れに思えてならなかったからだ。
「そんな事って……!? だって普段から存在感だけはあんなに強い娘が…、それにこの数日にしたって何かと話題には上がっていたのに……。それが当の本人の所在に誰も注意を払ってなかったなんてあり得る!?」
愕然とした表情の古淵。
「確かに…これは悪い予感しかしないではないか……」
高槻の背にも冷たいものが流れる。
「…だが、これではっきりした。どうやらあの小娘をとっ捕まえることが事態収拾の最善策であるらしいな」
意を決したかテーブルをがたりと鳴らして立ち上がった高槻は踵を返して食堂を後にした。
「あ、先輩っ!? …どうする、阿藤さん?」
「どうするもこうするも、行くしか無いでしょ?」
呉越同舟、一蓮托生。こうなると選択権も無くリーダーに付き従うしかない後輩二人と、何の気まぐれか今回は千代原もそれに加わり高槻を追って出てゆく。一人ぽつんと取り残された古淵は一瞬だけ躊躇を見せ、だが何かを観念してか大きく溜息をついて立ち上がった。
「…………あぁっ、もぉ…! しょうがないんだからっ!!」
別に彼女に彼らと行動を共にする義理は無いし、こういう学生ノリに便乗する様なガラでもない…が、どうやら今回の一件に置いて彼女は最後まで付き合わなければいけないらしい事を覚悟したのだ。
既に廊下に消えた彼ら高槻一派を追って、古淵もまた早足で食堂を後にした……。
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