今回は少々気遣わしいトラブルから物語が始まる…。
毎度の如くお茶を淹れて所長室に向かう香苗、今日も今日とで何をしてやろうかと悪だくみを考えつつ所長室の扉をノックする…が、妙な事に中にいるはずの教授からの返事が無い。
「…ん、トイレかな? 勝手に入っちゃいますよ~?」
…などと聞えよがしの断りを入れて扉を開ける、まぁ普段からダメと言われても勝手に入室してしまう人間なのでノックするだけまだマシとは言えようが…。
室内には誰もいない…様に思えるのだが、香苗は何やら室内に人がいるっぽい温度みたいなものを感じて首を傾げる。
「誰かいませんかァ~? …って、うわぁ!?」
念のためもう一度声をかけて室内へ踏み込んだ香苗は応接用のソファーセットの横を抜けて、教授の定位置であるプレジデントデスクの横に回り込むと、そこから覗く足に気付いて叫声を上げた。慌ててデスク下に目を向けると、そこにはうつ伏せで倒れている人間がいた…教授だ。
「ィいぃいイーっ!??」
驚きのあまり手にしたお茶をお盆ごとひっくり返してしまったが、そんなこと気にしている場合ではない、香苗はデスクの上のインターフォンを取ると深く考えもせず「館内一斉」のボタンを押して叫んだ…。
「教授が…っ、死んでるゥう───っ!!!」
…死んではいない。
数分も経たないうちに放送を耳にして血相変えて飛び込んできた矢部と古淵によって介抱を受けた教授は間もなく意識を取り戻す、だが容態はあまり良くない様で、息は荒く脂汗が滝の様に噴き出している。矢部は即座に救急に連絡…程なく救急車が研究所に到着した。
ストレッチャーに乗せられて運ばれながら、息も絶え絶えな教授はそれでもよほど心配なのだろう…事務的なあれこれを随行する矢部に伝えていた。
「…という…訳ですので、…その間…管理コードは預けておきますね ?…それから私がもしも戻って…来れなかったら研究記録…のバックアップを…バックアップを…──」
「教授ぅ、そういう仕事の話は心配しなくていいですから、後は私たちに任せておいて下さいっ!」
…教授の身を案じての事か、はたまた信用してもらえないのが情けないのか…、半泣きの矢部はここから病院の付き添いを古淵に任せ、教授を乗せた救急車を見送った。
その一部始終の様子をエントランスで他の所員共々見届けていた香苗の後頭部を高槻が勢いよく叩く。
「…勝手に教授を殺すな、このたわけ者がっ!」
「…っ痛ぇ~っ…、何すンのよォ!!」
「貴様の早とちりな館内放送で危うく寿命が縮むところだったではないか!」
「縮む寿命があるなら教授に分けてやりゃあいいじゃないの」
無茶苦茶な言い分で香苗は高槻を睨みつける、彼女の機嫌は今すこぶる悪い。というのも、先程までは古淵に「あなたまさか教授に出したお茶に一服盛ったりはしてないでしょうね?」などと、まるで第一発見者転じての殺人犯の様に扱われ、それを聞きつけた周囲の所員からも疑いの目を向けられたものだから、そりゃ機嫌を損ねるのも無理は無い。
確かに所内では行き過ぎる悪戯に犯罪まがいの悪行も数知れず繰り返してきた香苗ではあるが、決して人の命を殺めようなどとした事だけはただの一度も無い…いや、結果的に所員を半死半生にしたことならいくらでもあるが…、ともかく教授毒殺の容疑など言語道断、彼女にとってはいわれの無い濡れ衣に他ならないのだ。
「…まぁ、何事も無ければ良いのだけどね…、これでも一応心配はしてるんだから」
「教授の口から犯行が漏れてしまうのではないか、…と?」
…今度は高槻の後頭部に香苗の渾身の一撃が突き刺さった…。
夜もとっぷりと更ける頃になって古淵が研究所に戻って来た。
既に多くの所員は勤務を終え帰宅しており、残っているのは矢部や淵野辺等の古株や要職を務めている所員、そして夜勤の警備と自主的残業を申し出た者たちだけである。その古株や要職たち…適切な言葉かどうかは分からないが『幹部所員』とでも呼ぶ事にしようか…が数名、現在集まっているのが第一小会議室で、教授の病状の報告と当面の研究所のやりくりに関して検討しているところであった。
「お医者さんの話だと日頃の不摂生がたたってたのか、だいぶ内臓が弱っているのだそうです」
「あー…そう言えば昔からあの人、お昼は所長室でカップ麺ばっかり食べてましたからねぇ…」
古淵の報告に淵野辺がさもありなんという顔で頷く、もちろん所員としても注意は促すのだがそういう悪習に限って改善されたためしが無いのが世の常である。
「やはり今後の課題として医務を兼任してくれる方を研究所に招く事を検討する必要があるかも知れないな」
片倉や古淵の上司に当たる技術部門室長の菊名幹知の提案は以前からなされていたもので、特に医療設備とその人員確保の重要性が説かれていた。
「そうですね、その点は今後しっかり考えておきましょう…今はまず教授の病状ですが、それで?教授はまだ入院の必要があるのですか?」
菊名の提案は検討課題として控え置くことにして、矢部は再び古淵に病院側の話を問い質す。
「ひとまず今夜は病室で安静という事になりそうですが、明日一度精密検査を行って、それから入院するかどうかの判断が出されるそうです」
「医者のセンセーの判断がまだ分からん時にこういう話をするのも何だがよぉ、業務に滞りを出しちゃあいけねぇ。教授不在の態勢は今のうちに整えた方が良いんじゃあねぇのかい?」
製造・建設部門の室長…通称「工場長」こと相原保がべらんめぇ口調混じりで指摘するのはより現場の事情から発する懸念であった。
「要職の議事の場で僭越ですが、私としては極力教授の意志に沿う事が望ましいと思います。幸い教授も意識はしっかりとしてますのでこちらとの連絡手段だけ確保できれば問題ないと思うのですが…」
古淵自身は特に要職に就いているわけではないが、警備の取り仕切り(特に香苗対策としてだが…)を行っている事、また先の病院への付き添いを務めた事からの出席となっている。決して意見を禁じられている訳ではないので別に畏まる必要は無いのであるが、わざわざ折り目正しくするのは彼女の几帳面な性格所以なのであろう。
「そこら辺は携帯でも事足りるとは思うけど…検査で電話を取れない場面もあるだろうし、そうなるとちゃんと連絡役を置いておくのが最適かなぁ…」
淵野辺が古淵の意見を受けて具体案を挙げてみる、非常にアナログな手段になってしまうが、確かに当座の対策としてはこれがベストに違いない。
「どうあれ一人は付き添いが必用だろうね。明日は楠宮君と樫寺君を交代で行かせて、長期入院という事になったらその時は改めて所員で持ち回れるよう検討してみよう」
肩書上は副所長である矢部は若干意気消沈気味で指示を伝えるのだが、どうにも普段の毅然とした覇気に欠けている。それは日中の件で落ち込んでいる事もあるのだが、実は彼自身決して責任者として能力の低い人間ではなく、むしろ極めて優秀な人物である。
ただし、それはあくまで自分より上に責任を持った人間が君臨しているという条件付きであって今回の様に上役不在の状況では途端にその手腕が振るえなくなってしまう、…要するに根っからの「補佐役体質」なのだ。
「ねー、所員で付き添い持ち回りって、教授の家族はよ?奥さんとか子供はいないの?」
「うわ、浦鳥さん!?」
「あなた何処から湧いて出たの!??」
テーブルから両腕と頭だけ覗かせた格好で突如話題に割って入ってきた香苗に動揺を見せる幹部所員たち、もちろん(?)記録上では香苗は既に帰宅した事になっている。
「いえいえ、皆さん居残りで何の密談かと思いましてね…」
語尾に「げっへっへっへ」と下卑た笑いが続きそうなセリフで椅子をもう一脚用意すると、香苗はさも当然の様にそのテーブルに同席を決め込んだ。
「今後の対策の検討よ! あなたじゃあるまいし、変な悪だくみしてるみたいに言わないでくれる?」
厄介者の登場にどの所員よりも露骨に嫌ぁ~な顔を向ける古淵はあっち行け、とばかりに手をヒラつかせる。
「まーそんな事はどーでも良いよ。それで、さっきの答えは? 教授の家族は何してんのよ?」
「…教授にはご家族はいませんよ」
敵意剥き出しの古淵に代わって矢部が回答を引き受けた。
「あの人独り身なんですよ、それこそ研究一筋の方ですから。だから当然子供もいませんし…確か親戚筋が近くの町にいるみたいですけどそれも疎遠だと聞いてます」
「研究一筋ねぇ~…? そー言えば教授って何を研究してんのか聞いた事無いわぁ…」
「主な肩書は理論物理学者です、色々他の分野にも精通しているそうですけどね。A.S.U.R.A.と教授の仕事してる大学とを行き来して、ほぼそのどちらかで過ごしているんで自宅も無いって話ですからねぇ…」
何とも呆れた様に話す矢部、さすがに研究所設立時からの最古参なだけあってそこら辺の事情は詳しい。
「…ですから事実上我々があの人の家族代わりです、だからこういう時には我々から付き添いを出す必要があるのですよ」
「ふぅ~ん…そーなんだ」
わざわざ自分の椅子を用意しておいて、事情を聞き終えた香苗はそれで気が済んだかの様にさっさと立ち去ろうとする。
「まーいーわ。面倒臭いんで私にはその役、回してこないでねー」
…と捨て台詞を残して会議室を後にした、残された幹部所員たちはしばし呆然…だが古淵がはっと我に返って喚きだした。
「な…っ、何なのよあの言い草っ!!!」
「まぁまぁ、古淵さん…彼女が現れて何も起こらなかっただけでも良しとしましょうよ」
まるで災害を無事やり過ごした様な安堵の表情で淵野辺が古淵をなだめ…何か気になったのか首を捻る。
「…ン? …だとしたら彼女、一体何しに来たんでしょうね…?」
「え?」
「こんな時間まで残っておいて、浦鳥さんが何も騒ぎを起こさずに帰って行っちゃうなんて…何だか妙だと思いませんか?」
場が不穏な沈黙に包まれる…、かの災害クラスのトラブルメーカーが何もせず去って行ったのならば本来喜ばしい事なのだろうが、何もしないならしないで不気味な不安が残されてしまう…実にタチの悪い存在なのだ。
「言われてみれば!? いつもなら何かしでかして逃げていくのが当たり前なのに? 一体何を企んで…!?」
古淵は何か置き土産でも仕掛けられたのかとテーブルの下やらロッカーやらを探りだす…が、それらしき危険物は見つからない。彼女がどうしてそこまで神経質になっているのかいまいちピンときていない菊名は腕組みなどしつつ、香苗の不可解な行動に対するひどく常識的な推測を口にしてみる。
「…ひょっとして…、教授の容態が心配で探りに来た…とかじゃあないのか?」
古淵に淵野辺、そして矢部が妙に熱の失せた視線を菊名に向けていた…、もちろん彼とて香苗の脅威は知っているが今まで直接的な実害が無かった分、やはりその認識には甘さがある。
「…いやいやいや…そんな殊勝な事を考えるような娘じゃあないでしょう」
「そーですよ、彼女に限ってそんな…」
淵野辺に続いて古淵がそんな菊名の推測を一笑に付す。矢部もさすがにそれはあり得ないと愛想笑いを浮かべるのであるが…、ふと彼女が去った扉を見つめて首を傾げるのだった…。
「…いや、まさか…ねぇ?」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!