週が明けた月曜日、赤鰯教授はA.S.U.R.A.の所長職へと復帰した。
それは同時に鋸引所長代理の退任とアメリカへの帰国をも意味している。当然研究所側は業務上の区切りとして所員への通達を行いたい意図もあり、本人は固辞したかったようだが教授の強い勧めでその日の朝一で所員一同が集めての形式的な引継ぎと彼からの離職の挨拶が執り行われる事となったのだった。
……更にはこの日をもって一人の女性所員がA.S.U.R.A.から去ることも教授の口から告げられたのである……。
翌日、空港の第一ターミナルには鋸引「元」所長代理を見送りに来ていた教授の姿があった。
これまた鋸引本人の意向で所員たちには出発の日時は告げられなかったのであるが、さすがに教授にまで黙って行くわけにはいかず、結果彼のみが見送りに訪れた…といった次第である。
「そうは言っても彼らとて勘の鈍い方ではありませんからねぇ。私が予定も告げず外出したことから何かを察しているはずですから、きっと今頃大騒ぎになっている事でしょうね」
「日本の組織ってのはこういう時には決まって盛大に送るか湿っぽくなるかだから、どちらも好きじゃあ無いんだよ。去る者は黙って去るのが後腐れ無くって好い」
「それもドライ過ぎるってモノですがねぇ……」
短期間とは言え代表者の代行として身を置いていた研究所とその所員たちに対していくら何でもそれでは示しもつかないだろうと窘めたいところなのではあるがそこは長年の付き合い、言って聞く相手じゃない事も判っているので本人の意思を尊重するほかは無い。
そんな諦念に耽る教授は背後にふと人の気配を感じて視線をそのまま自分の背後へと向けた。
「あなたもですよ? まだ向こうでの受け入れ態勢も十分に整ってないうちからそんなに急いで出発する必用なんて無かったんじゃあないですか?」
「だって悠長に別れを惜しんでたら私、泣いちゃいますから。折角の門出なんですからスマートに旅立ちたいんですよ」
少々冗談めかした口調で応じつつ、キャリーケース一つ引いて現れたのはビジネスマン風のグレーのスーツに身を包んだ成瀬だった。彼女は教授の横を通り過ぎると、鋸引の隣に並び立って教授へと向き直る。
ロングボブよりももう少し長めの髪を後ろで留め、普段のナチュラルなメイクよりも少しだけしっかりと化粧を施した表情からは不安であるとか気負いなどは微塵も感じないのがいかにも彼女らしいと教授は思うのだが、同時にあまりにさっぱりとし過ぎている事に少なからず驚きも覚える。
というのも、今回の件で彼女が実際に鋸引に声をかけられたのはほんの五日ほど前だというのだから、もう少しぐらいは悩んでも良いようなもの。ちと決断が早過ぎやしないかと呆れ果てるばかりなのであるが、よくよく考えれば元より彼女はそういう性格だったという事を教授は改めて思い出すのだ。
「……まったく、どっちもどっちです。ホント困った人たちですねぇ」
これは似た者同士だと目の前の二人の姿を交互に見比べた教授ははぁ…と一つ深いため息をついてから、それでも気を取り直し相好を崩してみせた。
「まぁ、殊更私が心配する必要なんてあなた達には無いでしょう。行くからには心置きなく暴れ回って来て下さい」
「……それは、浦鳥さんの様に、ですか?」
成瀬は意味深な笑みを浮かべて教授を見上げた。その笑みの意図を咄嗟に理解した教授は一瞬の動揺も見せる事無く両手を広げて応じる。
「そういう暴れ方を言っているのではありませんし、ああなられては困ります。ですがあなたの優れた点はそうした無謀なマネも、それを律することも自身で出来る懐の深さにあります。だからこちらとしてもこうして憂慮すること無く送り出せるってものです」
「はい、感謝してます。私は上司にも同僚にも恵まれました」
そう言って穏やかに湛えた笑みを恩師と言える人物に向ける。処世術に長けるが故に本心は極力秘め、だが持ち前の要領良さと計算高さは一切表に見せる事無く立ち振る舞える彼女ではあるが、どうやらこれは心底本音で出た気持ちであるらしい。
「こちこそ、君はどこに出しても恥ずかしくない自慢の所員です。洋々たる未来を日本から願ってますよ」
「ありがとうございます、今まで本当にお世話になりました……。では、行ってきます」
恭しく頭を下げて成瀬は教授に別れを告げると決然と踵を返す。それをエスコートする様に後に続く鋸引も、こちらは近所にでも出かけるかのような気楽さで左手を挙げ挨拶を送った。
「じゃあな、ハチ。またそのうちに!」
「ええ、次は仕事抜きで再会できると良いですね」
周囲一面の滑走路を見渡すことが出来る空港の展望デッキ、次から次へと発着する旅客機の中から二人が乗っているであろう機体を見つけ、それが無事飛び立つまで教授は見届ける。
やがて遥か高空へと霞んでゆく白い機体を見送った後、教授は両手で頬をはたいて気合いを入れ直した。
「さて…と! やはり研究所に戻ったら所員たちに色々問い詰められるのでしょうからね。ちょっと気が重いですが言い訳は帰りがてら考える事にしましょう……」
教授がそんな一抹の不安を抱えていたのとちょうど同じ頃、研究所内には拍子外れな笑い声が高らかに響き渡っていた。
「ぶわァあ──っはっはっハぁあ~~~っっっ!!」
見たことも無いほどの大口を開いて哄笑する高槻、深く腰を下ろした椅子ごとがったんがったんと床を踏み鳴らしてのバカ笑いに周囲を取り囲むいつものメンバーはさすがにドン引きしつつ、それでもどこかほっとしたような、何となく寂しさも混じった微妙な苦笑を浮かべていた。
もちろん高槻一派だけではない、今日の食堂の丸テーブルには今回彼らと行動を共にしていた古淵に矢部副所長を始めとする他の所員たちも集っている。
更にその輪の中心でかんらかんらと高笑いする男の眼前にはぶすっとむくれた顔を背けている香苗の姿もあった。
「げひゃひゃひゃひゃ!」
──まぁだ笑っとるよ、この男ときたら……──
「うっさい! いつまで笑ってんだ、いい加減黙れ!」
未だ口を閉じようとしない目の前の瘦身の男に香苗は殺意満ち溢れた視線をくれる。それでもなお相手に笑い止む気配は無い。
「こ…っ、こいつが笑わずにいられるかよっ! つまり貴様は何だ? 自分が所長代理……いや、元所長代理殿からヘッドハンティングされるんじゃないかと思って今までずっと所内を逃げ回っていたというのか!?」
「でも浦鳥さん、それならズル休みするなりして研究所に来なければいいのに、何でわざわざ出勤して隠れていたんです?」
「それ……は…──」
阿藤に至極真っ当な疑問を浴びせかけられ香苗は一瞬言葉を詰まらせる。
「あのオッサンにビビってるって思われるのが嫌だったのよっ! それにこう見えて皆勤賞が自慢なんだからこんな事で休んでいられるもんですかっての」
いかにもな苦し紛れの言い訳が恥ずかしいのか、少しだけ頬を赤らめて弁解する香苗。その顔を見て再び高槻がけたたましいバカ笑いを始める。
「お~お~、そりゃあご立派なプライドなこったな……ぷっ、ぐひゃひゃひゃひゃひゃあっ!!」
「黙れって言っとるだろっ!!」
元々がばがばの堪忍袋の緒を遂にブチ切った香苗は滑らかな動きで脱いだパンプスを握り締め、それを高槻の頭上へと振り落とす。すぱかぁーん、と思ってた以上に乾いた硬質な音を立てて相手の頭頂部に直撃。高槻は「もぎぇ!?」と妙な呻き声を上げて顔面から直下の床に倒れ落ちた。
「でも何だって自分が元所長代理からの誘いがあると思っていたわけ? 結局選ばれていたのは成瀬さんだったのでしょう?」
足下に突っ伏して痙攣なんぞしている高槻を気にする様子も無い古淵がいまいち腑に落ちぬ眼差しを香苗に向けた。
尤も、思い込んでいたというのであればここに集うほぼ全員が香苗のヘッドハンティングの噂を信じてしまっていたわけだが、当の本人までもがそう思い込んでいたというのであればそこには何かしらの確証染みた情報もあったはずなのだ。
その点を確認したかった古淵であったが、あらぬところから彼女の発言に便乗してきた千代原の余計な一言が割って入る。
「浦鳥氏、自意識過剰も甚だしいのネ」
再び乾いた音が食堂に響き、高槻を仕留めたパンプスを握った手そのままで横薙ぎに斬り払われた千代原が対面のカウンター席に吹っ飛んでゆく。
よせばいいのにどうしてこの男は毎度の様に場の空気の読めぬ茶々入れをするのだろうか? おかげで古淵の疑問はあやふやなままスルーされてしまう。
轟沈した莫迦二人を所員一同が半ばあきれ顔で取り囲む中、喧騒から逃れる様に香苗は背もたれに肘をついて再び顔を背けた。
「……ま、確か…に、取り越し苦労…だったんだけど、……ね…」
何を思ってか言葉を選ぶように呟く香苗。それを耳にした豪原が恐る恐る彼女を覗き込む。
「……何よ!?」
「い、いえ、何でも無いっス!!」
ぎろりと睨まれて慌てて彼女に背を向ける憶病な広背筋の壁に向けてふん、と威嚇の鼻息を鳴らした香苗は窓の外へと目を向けた。窓の外には抜ける様な青空──すっと一条、線を引いた様な飛行機雲が目に留まる。
それは無意識での仕草だったのだが、何か口ごもるかのように香苗はその口を歪ませていた。
香苗の不機嫌には理由があった、柄にも無く彼女はこの時所員たちに面白くも無い嘘をついていたのだ。
夕刻、研究所に戻って来た教授が正面玄関に差し掛かった時、どん、という衝撃音とともに突如として中央棟屋上に火柱が上がった。
警報がけたたましく鳴り響く受付ロビー前で降り注ぐスプリンクラーのスコールを眺め呆然となる教授の前を、雨除けにクリアファイルを翳して通りがかった受付の楠宮理恵が出迎えた。
「あ、教授。お帰りなさい」
「何の騒ぎですか、これ?」
「え~っとぉ……毎度のことです」
状況を訪ねられ苦笑しか浮かばない楠宮。何本かの傘を抱えてそれを追うようにやって来た樫寺亜紀がフォローする様に説明を加える。
「食堂で高槻さんと口論になった浦鳥さんが保管庫からナパームブロワー持ち出しまして……、そしたらその炎が食材倉庫の小麦粉に引火して粉塵爆発起こしちゃったんだそうです。今、古淵さんが保安部隊を引き連れ浦鳥さんの捜索をしてますけど、まだ捕まってないそうなので教授も気を付けて下さい」
いった傍から武装した一団が彼らの目の前を走り抜けてゆく。
「そりゃまた難儀な事で……。皆さん、怪我だけはしないようにして下さいね」
受付で借りたビニール傘を差してロビーを歩き出す赤鰯教授。
平穏とはおよそ程遠いがこれがこの研究所の日常。復帰後早くもその洗礼を味わった事で軽い目眩も覚えつつ、所内を進む教授の足取りは不思議と軽やかだった……。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!