そもそも浦鳥香苗は数学が大の苦手である。
その挫折歴は既に中学時代に遡り、通知表は一年の頃から赤点の行列…いや、これは決して数学に限った事では無いのだが、その中でも数学は特に酷かったのだ。
以後高校時代になってもそれは一向に改善されること無く、進学も受験の時には数学の試験の無い学科を選んでギリギリ入学をもぎ取ったといういじましい苦労を強いられる始末。結局苦手克服に至る気配も無く現在に至るのだ。
だから今でも数式を見ると蕁麻疹が出てしまう程理数系の類は毛嫌いしている。それでよくも科学技術の研究所なんぞに就職したものだと心底呆れかえってしまうのであるが、事実は小説よりも何とやら…実際こうしているのだから現実は認めざるを得ない、残念ながら。
ともあれ、人間誰にだって手に負えないものの一つや二つは必ずあるものだ。触らぬ神に祟りなし…苦手なものにわざわざ手を出す必要は無いのだ……。
「あれ? うっかりこんなトコ来ちゃった」
そんな考え事をしているうちにいつの間にか普段なら通らない区域に足を踏み入れてしまったらしい。
二年以上も勤務していて施設内に行ったことの無い場所があるのも他者が聞けば不思議に感じる事だろうが、近所でありながら生まれてから一度も通ったことの無い道があるなどという例もあるのだから、これだって決して珍しい話では無いだろう。
「さっさと用事済ませて淵野辺さんのラボでまたお茶菓子強請ろっと…!」
心の奥底では悪魔的な好奇心が騒ぐのであるが、今日のところは妥協。香苗は台車に片足を置きアクセルターンばりにその場で方向転換、元来た道へと引き返す。一瞬、何か大事な事を忘れている様な気がして再び先程の区域に目を向ける…その先に何かが在った様な気が、そして誰かがいた様な気がしてならない。
「…ま、いっか…」
理由も無く後ろ髪引かれる気持ちを残しつつも彼女はその場を後にした……。
「──で、虚数値が出ちゃったんだって」
翌日、昼食時の食堂。テーブルの隣に座っていた阿藤のよもやま話をぼぉ~っと聞いていた香苗の意識は、急に耳に飛び込んできた聞き慣れぬ用語によって現実へと引き戻された。
「きょ…すぅ……? 何だ、それ?」
意味は分からないが言葉の響きがあまり印象良く無さげに感じた香苗は眉を潜め、ひとサジすくったまま忘れてたチキンライスを口の中に放り込んだ。
「虚数…実数ではない複素数のことね。数学者でもある哲学者ルネ・デカルトが複素数の虚部を「想像上の数」って名付けたんで存在しない幽霊みたいな数って解釈される事もあるそうよ」
「うげぇ…ワケ分かんない話しないでよ。そーゆーの聞くと蕁麻疹出ちゃう!」
それが数学の話だと気づいて露骨に嫌な顔を阿藤に向ける。
「…で? ゴメン、話聞いてなかったから一体何がそのきょすーなんだか分からないんだけど」
「まぁ、大した話じゃないんだけどね~。先日、高槻先輩がエントロピー偏差式霊体検知機って、またよく原理の分からない装置を造ったんだけど、それで研究所内を歩き回ったら計測値が虚数を示したエリアがあったんだってさ」
「霊体って、幽霊? そんなモノが計測できるの?」
霊と聞いて何やらいかがわしくも好奇心をくすぐられた香苗の眼が急に輝きを取り戻す。
「いやぁ…どーだろ? 何しろ先輩の思いつき発明品だから……。真剣に造ったとは思えないのよね~」
「面白い! アトちゃん、これから奴のラボに突撃かふぇるボほ…っ!」
「え、ちょっ…? 何で私も!?」
何やら悪事でも思いついたのであろう。そして思いついたらもう行動に移さずにはいられない…、彼女は残ったチキンライスを口いっぱいに頬張ると阿藤を無理やり引き連れ食堂を飛び出した。
「あ~、そう言えば高槻先輩ったらね~…」
香苗に引きずられながら阿藤が思い出したように語りだす。
「虚数単位は『i』で記されるから、その虚数値が出た区域の事を『アイの領域』だ! …って。……ぷぷっ…」
言いながら、何やら彼女のツボにハマったらしく笑いを堪えきれない阿藤、だが香苗にはそれの何が可笑しいのかちっとも理解出来なかった…。
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