数日後、高槻の姿は所長室にあった。
どっしりとした木製のプレジデントデスクに着く教授を前にして、応接用ソファーに悠々と両の腕を持たれかけ、あまつさえ足なんかも組んだりして相も変わらず偉そうにふんぞり返っている様子から判断して、決して先日のお説教を受けている訳では無いことだけは見て取れる。
──いや、このニーちゃんの事やから説教受けててもきっとこんな態度なんやろな…。
「で、教授…あんた一体あの時何をしたんだ?」
「さて? 何の話でしょう?」
教授の方もまたそんな若造の態度を咎める事も無く、壁一面を占める窓から外の景色を眺めてしれっとコーヒーなんぞ啜っている。
その外では破壊されたエントランスホールの修繕工事で業者が駆け回っていた。話によるとガラス窓だけではなく内部の鉄骨にも歪みが生じているそうで、工事はちょっとした改築の規模になりそうだという話だ。実はこの窓も先の騒ぎにおいて香苗の嬌声による破壊の被害を受け、つい昨日交換したばかりである。
…その修繕費を一体どこから捻出しているのかは謎だったりする…。
話を元に戻そう。しらばっくれている教授に対し、得心いかない高槻は尚も噛みついてくる。
「トボけないで貰いたいものですな。あのバカ騒ぎの場にいた興奮状態の所員全員があんたの流した所内放送ひとつでいとも簡単に鎮静化し、事態が収束してしまったのが不可解過ぎる。いや、百歩譲ってあんたの人徳でそう出来たのだとしても、他の所員ならいざ知らずあの小娘までも大人しくなったのはどう考えても不自然極まりない。あの所内放送には何か仕掛けがあったのだろう、違うか?」
「いやぁ、高槻君には敵いませんねぇ…」
驚いた様なそぶりで教授は両手を上げ降参の意思を示した。それが本心からの感服なのか、それとも単なる話の流れを受けての社交辞令的な発言なのかはそののほほんとした表情からは判断がつかない。
「実は古淵さんが『音には音を』と仰ってたので、それなら…ということでこちらも音で対処させて頂きましてね…」
「やはりそうだったか…さしずめ、あのドヴォルザークに何か細工をしていた…ってトコですかな?」
「察しが良くって助かります…まぁ、曲のチョイスは単なる洒落っ気だったんですけどね」
ちょっと気取り過ぎましたか…と、はにかみながら教授はカップをソーサーに戻し、チェアーごと高槻に向き直る。
「ほら、畑に猪や猿なんかの野生動物を近づけさせないようにする害獣除けの機械って、ありますでしょ?」
「…ああ、動物が嫌がる周期の超音波を用いて追い払うアレか」
「あれの応用例として犬や猫のしつけにストレスにならない程度の超音波を使うツールもあると聞いたことがありますけどね、昔で言うところの犬笛みたいなものですか」
「その類の技術を人間に対して使った…と? ちょっと前にコンビニの座り込み対策に採用されたモスキート音みたいに?」
何やら話に興味をそそられた様で、高槻はふんぞり返っていたソファーから半身を乗り出した。
「だが実際にはモスキート音はあまり効果が無かったと聞いてるが?」
「ええ、人間の場合は本能よりも意思や思考が凌駕しちゃってますからね…。だからあれよりももっと進んだ技術を使わせて頂きました」
そう言って教授は手元のタブレットを操作するとそれを高槻に差し出した。高槻も更に身を乗り出してそれを引き寄せる。ディスプレイに表示されたのは設計書とその仕様書。どうやら以前の案件で検討用に試作された装置であるらしい。
「それは一種の催眠装置…と言えば分かりやすいでしょうか? 可聴領域外の指向性音波で大脳に直接働きかけて人間の行動をある程度制限したり、誘導したり出来るシステムです」
「…音波で脳神経に干渉したってのか? あの所内放送のスピーカーでか?」
市販のスピーカーは構造が単純で、可聴領域内での使用に特化しているため特殊な波形の音波を伝達できるとは考え難い。
「もちろん、あのスピーカーそのものを使ったわけじゃありませんよ? 実際は専用の発信デバイスをスピーカーに組み込んでます」
高槻の口がひくり、と引きつる。
「おいおい、怖ぇーな。あんた普段からそんなもの所内に設置してたのかよ!? その気になったら所員全員を洗脳状態に置くことも出来るじゃないか!」
「考えすぎですよ~、あれは元々防犯のために設置したものであって、別に所員の皆さんに使おうだなんて微塵も考えてませんでした。それに洗脳という程までの効果はありません、せいぜいそんな気分にさせる…という程度です」
相手の危惧を一笑に付して他意や害意を否定する教授。それが本心なのかどうかがどうにも掴みかねて高槻は渋い表情を浮かべた。
「あくまで所内に侵入した窃盗犯や暴漢に平和的、且つ速やかにお引き取り頂くための万一の備えですよ」
「…はっ、どーだか…」
高槻は胡散臭そうに教授に半目を向けた。曲者ぞろいの研究所だがこの所長が案外、一番の食わせ者なのではないかと薄ら寒い思いに囚われる。
…一方で、それはそれで刺激的な職場だと考える自分もそこにはあるのだが…。
「それで、高槻君? 今日は別に本題があっていらしたのでしょ? 手元のそれですか?」
「ああ、そうでしたな。…実は──」
高槻は昨夜まとめたレポートを教授に手渡した。
「例の音電変換装置の件、此間のバカ騒ぎの最中に変換率の低さの原因が判りましてね…」
ふむ…と高槻の説明にも耳を傾けながら教授はレポートをざっと読み込む。
「どうやら音電素子が本来の対象となる車両から発生する騒音の他にも周囲の環境音をも変換しようとしていたからだった…と考えられるわけですな」
レポートにもその旨が詳細なデータを添えて記されている。
「…つまり、システムそのものは正常に稼働していた。正常だったからこそ環境音も含めた全ての音を変換しようとして素子が飽和状態に陥り、その結果変換率が下がった…ということですか」
「そう、それが『稼働率』80%にもかかわらず、『変換率』12%という数値のギャップが生じた原因だ」
「…で、その対策がレポートに書かれているコレである…と」
「レーザーセンサーによる対象からの音波誘導…、これならダイレクトに対象である車両からの騒音を取り出すことが出来る」
「なるほどねぇ…。対象となる車両に対してピンポイントで狙いを定めて素子を働かせようというわけですね?」
高槻の案に手応えを感じた教授が無精髭まばらな顎をなでる。
「まだセンサーの設置箇所であるとか、どの範囲までセンサーが有効であるかとか検討の余地はありますが、それは実地でデータを取って確認していくのが一番でしょう」
そのままばさりとレポートを机に落とし、教授はそれに承認の判を押した。
「よろしいでしょう。日程の遅れはこちらで何とか調整しますので、まずは次の議事で追加検証を提案してみて下さい」
「どーも、感謝しますよ」
表向き余裕の表情を見せ、その視界の外で高槻はそっとガッツポーズを決める、ようやくに溜飲を下げた思いであった。そんな高槻の様子に気付いてか、教授が独り言のようにぽつりと漏らす…。
「災い転じて福となす…。こうして解決の糸口を見つけられたわけですから、わざわざ騒ぎを起こした甲斐もありましたね」
…安堵に満たされていた高槻の表情が一転、ぎしりと凍りついた…。
何だろうこの違和感…? お釈迦様の手の上を飛び回った孫悟空の様な…妙な感覚に襲われる。
もしかしたら教授は最初からこうした騒ぎになる事も、それによって自分がこういう解決策を見出すことも全て想定していたのではないだろうか…?そんな途方も無い妄想が頭を過るのだ。
…いや、あるいはもっと以前から──だとしたら…!?
「…教授…?」
ぎこちなく首を回して高槻は相手をまじまじと凝視する。
「はい、何でしょう?」
「前々から思ってたんですがね…、教授があの小娘…否、浦鳥香苗を雇ったのは…ひょっとして所員へのカンフル剤とするため、ですかな?」
「…さぁて、どうでしょう?」
教授は少し含みのある笑みで答えをはぐらかす。
…このタヌキめ…!
高槻は目の前の一見枯れ木の様な男に対し、心の内であらん限りの悪態をついた…。
社内のどこかからくぐもった爆発音が聞こえてくる…今日もまたあの破壊魔娘は騒動を引き起こしているのだろう…。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!