ケンタは黙ってそれを見上げることしかできなかった。
夜行性のはずのキラーグリズリーが、ケンタの前に立ちはだかっていたのだ。
ここで薪拾いを始めて一か月以上経っており、これまでキラーグリズリーには遭遇することは一切なかった。
なのになぜ、今?
夢なのかと思ったがこれは現実である。
目の前にいるのは4メートルほどの、真っ黒な体毛をまとった、見た目はケンタがよく知る熊である。
だがその両手に生えた爪の鋭さ、口から溢れ出る牙、そして真っ赤に充血した目。それらの攻撃性は、ダジュームのランクBモンスターであることの証拠となっていた。
「マジかよ……」
ケンタがようやく吐き出した声は、信じたくないという一心の言葉であった。
目の前の光景を認めたくないという、ただの現実逃避だった。
恐怖で体が動けない自分に気づくまでに、キラーグリズリーは一歩、そしてまた一歩と近づいてくる。
まるで目の前のごちそうをどうやって食らってやろうかと考えながらも、楽しみにしているようであった。
荷台から薪が一つ地面に落ちる音で、ケンタはようやく自分が震えていることに気づく。
今、ケンタに迫っているのはピンチという生易しいものではなかった。
これまで戦闘からひたすら逃げてきたケンタですら、そのモンスターとの実力差は本能で感じていた。
このダジュームで対したすべての人間、モンスターの中で、目の前のキラーグリズリーのオーラは圧倒的だった。
おそらく単純な戦闘スキルやレベルを考えると、勇者クロスならばキラーグリズリー程度なら簡単に倒してしまうだろう。
だが勇者クロスは人間。話せばわかるし、本気で自分を殺しに来ることはない。
そして今、対しているキラーグリズリーに話は通じるわけがない。ただこいつは、目の前の人間を殺して食うためだけに本能を燃焼させるだけだ。
絶体絶命?
いや、それでもまだ優しい。
確実な死。
ケンタはようやく現状を表す言葉を見つけた。
同時に、その状況を回避するためにケンタもようやく自分がすべきことを見つけるに至る。
――逃げる。
ケンタにできることはそれしかなかった。
モンスターと遭遇した時のために、腰には小さなナイフを携帯していたが、これが武器になるようなレベルではない。
戦うという選択肢は、限りなく細い蜘蛛の糸のような可能性しか提示してくれない。
「……っ!」
声にならない声を出して、ケンタは身をひるがえして走り出した。
幸運だったのは、キラーグリズリーが現れたのは裏山の入り口とは反対側からだった。
山から出さえすれば、その入り口には馬が繋いである。馬に乗って逃げれば、さすがに追ってはこないだろう。
なんとかこの山からさえ抜け出せば!
ケンタは一縷の望みともいえる光が見えた。
思えばこの裏山で薪拾いを始めた当初は、逃げ道のシミュレーションだけは毎日欠かさずやっていた。迷わないようにと通った気にひもを結んでいたのだが、次第に道を覚えてくるとやらなくなっていた。もう慣れてしまったとはいえ、その時の想像は今でもきっちり頭の中に残っている。
落ち葉に足を滑らせそうになりながら、必死で山道を下る。
本気で走れば、おそらく5分もかからずに入り口に出られることだろう。
この日々の薪拾い訓練でケンタの体も鍛えられている。
ダジュームに来た時のひょろひょろのケンタではもうなかった。シリウスまではいかないものの、体中に筋肉がつき、スタミナも鍛えられていた。
それにこの山は不規則に木が生えていて、道という道もない。あのキラーグリズリーの大きな体では木が邪魔になってまっすぐ追ってこれるはずがなかった。
ケンタはあえてジグザグに、木々を縫うようにして山を下る。
大丈夫、逃げ切れる!
一目散に走り抜けるケンタ。
だが、そうは簡単にはいかない。
異世界ダジュームでは、アイソトープの都合のいい想像など、軽く超えてくるのだった。
「ぎゃ!!」
10メートルほど走ったところで、地面が揺れた。
走っていたケンタにとってはその揺れは山全体がひっくり返ったかのような感覚で、その瞬間に前のめりに転んでしまった。
まるで地面がトランポリンになったかのような、もしくは泥沼になって足が埋まってしまったかのような、とにかく何が起こったかわからないまま、次の瞬間にはケンタは地面に顔面をこすりつけていた。
「な、なにが……?」
体中が傷んだが、ケンタはなんとか体を起こそうとする。
そうしている間にも、背後からドスンという音が聞こえた。
そしてまたドスン、と。
恐る恐る振り返ると、すぐ目の前にキラーグリズリーが迫っていたのだった。
こんなにも早く追いつかれるわけがないと思いつつ周囲に目をやると、さっきの場所からここまでに生えていた木がすべて倒れていた。
キラーグリズリーは一直線に、木をなぎ倒しながらケンタに向かってきていた。
山が揺れたと感じたのは、キラーグリズリーが周りの木にぶつかり、折れ、倒れ、ぶっ飛ばした衝撃だったのだ。
しりもちをついたままのケンタに、巨大な黒い影が覆いかぶさってくる。その影は、まるで夜になってしまったかのような感覚に陥れ、絶望を助長させた。
キラーグリズリーは右手を上げ、その研ぎ澄まされた爪をケンタに照準を合わせる。
逃げられなかった。
わずかな光は、今ここに閉ざされた。
ケンタにとっては二度目の死となる。
このダジュームに来て、ようやく目的が見えたと思った矢先であった。
元の世界で死んだ理由は分からずにこのダジュームにやってきて、そしてここではモンスターに殺されるとは。
もしかしたらここで死んだら、元の世界に戻れるかもしれない。
ケンタの脳裏に最後に浮かんだのは、そんな淡い希望。
いや、果たしてそれは希望なのだろうか?
これから普通の高校生に戻って、普通の生活を送りたいのか?
カリンやシリウスと別れて、スキルやジョブもすべてなかったことにして、ここで死ぬことが、それが希望か?
ケンタは振り下ろされるキラーグリズリーの爪がスローモーションに見えた。
あの爪が俺の体を切り刻むころには、その結果が出ているはず。
どちらにしても、ここで死ぬことになる。
そっと、ケンタは目を閉じた。
次、目を開けることがあるならば、それが元の世界かもしれない。ベッドの上で、目覚まし時計に起こされるなんでもないい毎日が戻ってくるかも。
そのときは――。
ガリン!
一瞬、ケンタの閉じた瞼の前を冷たい風が通り抜けたような感触がした。
そして同時に鳴り響く金属音。
それが自分の体を貫く音でないのは、ケンタ自身が一番理解していた。
続けて、ドスンと、さっきのキラーグリズリーの足音の数倍大きな音がした。
また山が揺れたのかと思ったが、ケンタは驚くよりもなぜか安堵してしまった。
それは死んでしまったからではない。
死なずにまだ、このダジュームの空気を吸えていたから。
「……もう大丈夫だ」
見知らぬ声に、ケンタは薄目を開ける。
さすがにキラーグリズリーが喋ったとは思わない。いくら死を覚悟したとしても、そこまでは耄碌してなかった。
「危ないところだった」
ケンタの目の前にいたのは、黒いスーツ姿の男だった。
一瞬、シリウスと見間違えたが、真っ黒な髪の色でそうでないことは分かった。
背中を向けているが、顔だけ振り返って無表情でケンタを見下ろしている。
そしてその向こう側には仰向けに倒れているキラーグリズリーの下半身が見えた。
ピクリとは動かないのは、死んでいたからだ。
ケンタから見て、明らかにキラーグリズリーの状態がおかしく見えるのは、腰のあたりで真っ二つにされていたからだった。
男の手には細い剣が握られており、さっきの金属音はキラーグリズリーの爪を受け止めたときの音に違いない。
そして、この男はあの大きなキラーグリズリーの胴体を真っ二つにしたというのか?
「昼間に出てくるのは珍しい。かわいそうなことをした」
男は汗を一つもかかずに涼しい顔で剣を鞘に納めた。
「あ、ありがとうございます……」
ケンタは思わず礼を言う。
目を閉じていたので、この男がどうやってキラーグリズリーを倒したのかはわからなかったが、今ここにある状態が現実である。
死ななかった。
ケンタにとって、その結果がすべてであった。
これがアイソトープのケンタと、魔王軍の執事ジェイドの初めての接触であった。
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