ランゲラクのことは、名前だけしか聞いたことがなかった。
ダジュームを力によって征服を狙う武闘派であり、協調派の魔王ベリシャスとは意思が正反対で裏では対抗している参謀ランゲラク。
前魔王と折り合いが悪く、【蘇生】スキルで生き返らされては困るということで、俺の命を狙っているらしい。
「見ん顔だな」
その禍々しいオーラを放つこの老人こそ、ランゲラクではないかと、俺の直感が囁いている。そして同時に「逃げろ」とアラームを鳴らしているのだ。
これはモンスターになって発達した五感すべてが鳴らす、最大限の警戒であった。
中ボスレベルのモンスターになった俺でも、どうやっても勝てない。
そんな確信と恐怖でもあった。これはアイソトープのままでは感じられなかったであろう。
「俺は……」
未だなんと答えていいのか分からないでいた。
適当なことを言えば殺されるのではないか? かといって、真実を告げても殺されるだろうし、正解は見当たらない。
深く刻み込まれた皺が作る無表情なランゲラクからは、何も感情を読み取れない。喜怒哀楽などとうの昔に捨ててしまったかのような、虚無。
「ランゲラク様!」
そこにその名前を呼ぶ声がした。
やはりランゲラクだったのかと思うと同時に、緊張していた気持ちがふっと解けた。
俺とランゲラクの二人きりではどうやっても脱出することはできなかったが、ここにもう一人現れたことで逃げ道が見えるかもしれない。
しかも、その声は聞き覚えがあった。
二度と会いたくはないと思っていたのに、今は救世主にも思えてしまう。
「ジェイドか」
ランゲラクが、やってきた男の名を呼んだ。
ジェイド!
村の中からやってきたその姿に、俺は少し安堵してしまう。
元魔王執事であり、今はランゲラクの配下をやっている。だが実は魔王のスパイでもあった。
俺を魔王の元へ身を隠す手助けをしてくれたのも、このジェイドである。最初は拉致されそうになったのだが、この状況では俺にとって唯一の希望でもあった。
「ジェイド!」
仲間がいた、という心のゆるみで、俺も思わずその名を叫んでしまった。
たったひとつの逃げ道ができたような気になってしまう。
「ジェイド。おぬしのモンスターか?」
ランゲラクが眉をひそめて確認すると、ジェイドはギロリと俺を睨んでくる。
追い込まれてついジェイドに頼ってしまったが、これはまずかっただろうか?
「ええ、ランゲラク様……。実は私が飼っている密偵でして。そうだな?」
ジェイドは困っている俺の空気を読んだのか、それともランゲラクを前にしての保身のためか、話を合わせてくれた。
「そ、その通りです! ジェイド……様」
ここでのミスは命取りになる。
俺はささっとジェイドに向けて大きな体で跪く。
「して、わざわざ何の用だ? 密偵とは?」
ランゲラクのほうは警戒を解いていないのか、ジェイドに変わって俺に疑惑の目を向ける。
「いえ、あの……、勇者のことを調べてまいりまして……」
俺は密偵という言葉を聞いて、話を合せようとする。
ここからはすべてアドリブで話を作っていかなければならない。
「勇者の? ジェイド、本当か?」
「え、ああ、そうです。勇者を見張るように指示を出しておりました」
「なにゆえか? そんな指示をした覚えはないが? おぬしが勇者に監視を付けるとはどういう領分か」
「いえ、勇者が妖精の森へ向かっているという情報を得まして……」
「それはわかっておるが、あやつらが妖精の森なぞに入れるわけがなかろうが」
「そうですが……」
やばい。
俺が言ったことでジェイドが詰められ始めた。
俺のミスで上司に怒られる先輩、のようなことになっている。
「あの、実は俺が勝手に勇者を……」
「お前は喋るな!」
ジェイドをかばおうとして、叱咤される。
「ほう。どういうことじゃ。話してみい」
ランゲラクが口元をニヤリと歪めながら、俺に言う。
これにはジェイドも口をつぐむしかなかった。
明らかに怪しんでいる空気が出ているが、もう引き返すことはできない。
「いえ、実は勇者が妖精を捕まえて、妖精の森へのゲートを開いたという情報を得まして。そのときちょうど俺がファの国にいたんで、ジェイド様に連絡する前に現場へ急行したというわけです」
なんとか嘘の状況をでっちあげる。
もし嘘だとバレれば、きっと俺は殺されてしまうだろう。そのときは、ジェイドも巻き添えを食らうかもしれない。
しかし何よりも、俺がケンタであるということだけは絶対バレるわけにはいかない。
もし死ぬとしても、このデーモンの姿で、デーモンとして死ななければいけないのだ。
ケンタが生きている、ということが抑止力になるのだから。
これは死ぬか生きるか、ダジュームの運命を賭けたブラフなのだ。
「ほう。して、勇者は妖精の森へ行ったのか?」
ランゲラクが白いひげを撫でながら、俺を見据える。
「いえ。ゲートを開いたというのはデマでした。野良のモンスターを装って近づいたら見つかってしまって、この通り手痛くやられてしまいました」
俺は切られた右腕を見せる。すでに傷口は乾いてはいるが、自分で見ても生々しい。なんで腕を切られて痛みを感じないのだろうか。俺もすっかりモンスターだ。
この傷口でランゲラクに同情を乞おうとする。
「ではおぬしは勇者にやられて、逃げ帰ってきたというわけか?」
だがランゲラクは部下のモンスターに甘いわけがなかった。
「いや、そういうわけでは……」
俺が余計なことを言ったばかりに、さらに雲行きが悪くなってしまった。
モンスター的には勇者に腕を切られて敗走したことは、けしからんことらしい。
助けを求めようとジェイドをチラリと見るが、彼のほうが顔面真っ青になっていた。
「ジェイド。おぬしの密偵は勇者に見つかっただけでなく、攻撃まで受けて逃げてきておるぞ。これはモンスターにとっては恥の上塗りではないか? どう責任を取るつもりかね?」
ごつん、と地面に杖を叩きつけるランゲラクに、すかさずジェイドが跪き頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝罪はいらぬ。責任はどうとるのか、と聞いておる」
不穏な空気が流れるランゲラクとジェイドの間で、俺はどうすることもできなかった。
俺の行動と嘘が、ジェイドを追いこんでいるのだ。
本来は別に仲間というわけではないが、俺のせいで責任を取らされようとしているジェイドをかばいたいが、下手なことをするとさらに事態が悪化しかねない。
このままでは逃げ道どころか、俺もジェイドもここで万事休すとなりかねない!
「では、責任を取らせていただきます」
と、ジェイドが静かに言い放ち、すっと右腕を上げた。
思わず俺のほうがびくっと肩を震わせたが、次の瞬間――。
「え?」
ジェイドが腰の剣を抜いて、自ら右腕を切り落としたのだ!
まるで豆腐でも切るかのように、なんのためらいもなく、ざっくりと。
地面に落ちた腕はぴくぴくと指が動いたが、やがて動かなくなる。もちろんジェイドの腕の切断面からは血がしたたり落ちる。
「部下の罪は上司の罪ということか。ふふふ、真面目な男じゃの、おぬしも」
自分で責任を取れと言っておきながら、ランゲラクは静かに笑う。
「は。私の管理責任です」
ジェイドも腕を切り落としながらも、表情一つ変えずに頭を下げた。
「ではわしは用事も終えたし、裏の世界に帰るとするか。部下の教育はちゃんとしておけよ」
これで納得したとは思えないが、ランゲラクはくるりと後ろを向く。
「その件は、おぬしが責任をもって保管しておけ。自らの腕を切り落とした、責任としてな」
そう言うと、ランゲラクはマントを翻し、次の瞬間にはその姿が消えていた。ワープの魔法だろうか、なんの予兆もなく消えてしまった。
ランゲラクはがいなくなると、ゆっくり周りの【ブラックミスト】が消えていき、村の外の世界が露わになっていく。
そこでようやく俺はジェイドを振り返る。
「ジェイド、腕、大丈夫か?」
視線に気づき、ジェイドもこちらを見る。
「余計なことを……」
「だって、まさかこんなところにランゲラクがいるとは思わないだろ! こんな村で何してたんだよ?」
今は完全に黒い霧は晴れ、静かな村に戻っている。
「この村に伝説の武器があると聞いてな。勇者の手に渡る前に、回収に来たのだ」
ジェイドは切れた自分の右腕を拾い、抑揚のない声で答える。
「それで、その伝説の剣っていうのは?」
「これだ。さすがにキレ味は抜群だな」
自分の腕を切って血に濡れた剣を、鞘に収めるジェイド。
それが伝説の剣ですって?
「お前、なんてことを……。そういう伝説の武器はちゃんと勇者がゲットしなきゃだめなやつだろ! ただでさえ勇者は弱いのに……」
「お前こそ、何を勝手なことをしているんだ? ぬけぬけとランゲラク様の前に現れて、万が一正体がバレて殺されていたらダジュームは終わっていたのだぞ? 魔王城に隠れているはずだろうが! そもそもなんだその姿は?」
「魔王が【変化】の魔法をミスってこんな姿にされたんだよ!」
「魔王様が魔法をミスるわけなかろうが!」
「ミスりやがったんだよ! 俺の思ってた魔王と全然違うんだけど!」
「魔王様を侮辱するとは、もう生かしてはおけん! そこに直れ!」
ジェイドは再び伝説の剣を抜き、俺に向けてくる。
そんなに簡単に伝説の剣を使いこなすんじゃないよ!
「待て待て! 俺が死んだら魔王になんて言う気だ! とにかく、生き延びれたんだからここは穏便に!」
ジェイドの目がマジで、俺は手を振って沈めようとする。
「ケンタさーん!」
修羅場になりかけたところで、俺を呼ぶ声がする。
視線を移すと、さっき霧の手前で残してきたホイップがこちらへ飛んでくるのだった。
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