異世界転生をしてしまった俺は、『異世界ハローワーク契約書』にサインすることになった。
契約の大きな条項は下記の通り。
一、契約者(以下、甲とする)のスキルを見出し、甲に適切なジョブを斡旋する。
一、所長(以下、乙とする)は甲に適切なジョブにつけることを最優先し、甲は乙の指導に従い訓練に励むものとする。
一、ジョブが決まるまでの生活費は乙が負担するものとし、ジョブが決まり次第、甲は返済するものとする。
一、訓練中に起きた不慮の事故はすべて甲の責任とする。
「……訓練って、どういうことをするんでしょうか?」
さっきの資料を流し読みして大目玉を食らった俺は、この契約書に関しては穴が開くほど熟読をした。そして何度読んでも、恐怖しか浮かんでこない。
まず、俺は契約者としてスキルを見つけるために訓練を受けることになるようだ。
俺のスキルに基づいてジョブを探してくれるというのだが……。
「どんな仕事をするにしても、訓練は必要でしょうが。あなた、仕事をなめてるの?」
「いや、確かにそうですけど……」
確かにそうだが、訓練と行ってもここは異世界。モンスターも平気でいる世界なのだ。やはり恐怖しかない。
「しかも仕事が決まってもお金を返済しなきゃいけないんでしょ?」
「当たり前じゃないの。ただで訓練を受けさせてもらえるとでも思った? 無一文のあなたに出世払いでいいって言ってるんだから、むしろ感謝してもらいたいわね」
「それに不慮の事故ってなんですか? 何をさせられるんですか!」
「それは契約者以外にはまだ言えないわ。守秘義務ってやつよ」
「そんなんじゃサインできませんよ! おそろしい!」
俺は抵抗をした。
これから起こりうる最悪のことを考えると、慎重にいかねば。
何も考えずに連帯保証人のサインをして、多額の借金を背負ってしまうというケースもあるのだから!
「聞いたことあるぞ、こういうの! タコ部屋ってやつじゃないですか? 働かされて、中間業者に給料を中抜きされるんだよ! 俺はどんだけ働いても、給料は雀の涙なんだ! それで死んだらポイ。魚の餌になるんだ!」
「はぁ……。マイナスに考えすぎだって。あなた、想像力だけは豊かなのよね」
匙を投げるように、シャルムは手を広げて呆れかえっているようだ。
「どこの馬の骨かもわからないアイソトープのあなたを、ダジュームで働けるように訓練してあげるのよ。今のあなたは一人で仕事を探しても、誰も雇ってくれないのは分かるわよね? まったくスキルもないし」
シャルムの正鵠を射た言葉に、俺はぐうの音も出なくなる。
どうやら転生してきた俺たちアイソトープには、チートのような最強スキルはまったく付与されなていらしい。
転生したら即最強で無双しまくるマンガやアニメの世界とは大違いである。
誰だよ? 異世界転生したら無双できるって言ってた奴? 聞いてたのとまったく違うじゃねーか!
「そもそもスキルってなんですか? 剣の扱いとか、そういうやつですよね?」
俺は壁にずらっと並んでいる武器を指さす。
大体ゲームで言うスキルとは、そういう戦いに関するものである。
「それもスキルのひとつね。ていうか、さっきの資料に書いてたでしょ? 何を読んでたの?」
眉をひそめて俺を睨んでくるシャルム。俺はそっと目を逸らす。
すると「仕方ないわね」と、シャルムが説明してくれる。
「スキルは大きく二つに分かれるの。一つが、さっきあなたが言ったような戦闘スキル。【剣装備】や【魔法(火)】みたいなモンスターと戦うためのスキル」
シャルムがピンと指を立て、俺は黙って頷く。
人気の異世界転生もののはこのスキルを持つ主人公が多いよな。いわゆるファンタジー系のアニメでは鉄板だ。
「もうひとつが生活スキル。ダジュームにおけるスキルの8割はこっちね。たとえばさっきあなたが乗ってきた馬車を運転するための【馬車運転】、家を建てるための【建設】、宿屋で働くための【宿屋】……。資格っていえば、あなたたちには分かりやすいかしらね?」
挙げればきりがないというようにシャルムが手のひらを広げる。
なるほど、仕事をするための資格、それがこの世界ではスキルとして必要なのか?
「生活スキルの場合はすでに技術があればすぐに認定するし、なければ訓練で新たに習得させる。見たところあなたには今のところスキルはなさそうだけどね」
シャルムは得意げに顎をしゃくり、図星の俺は黙って頷く。
なるほど、元の世界で大工をやっていたアイソトープなら、すぐに【建設】なんかを認定してもらえるのだろう。
異世界転生スローライフものはこのケースが多いよな。
「……その生活スキルがあれば、モンスターと戦わなくていいんですか?」
恐る恐る質問してみる。
俺がいた世界と大きく違うのが、モンスターの存在である。このモンスターがいる限り、戦闘という要素は切っては離せないのだ。
俺はそんな物騒な戦闘スキルを身につけるための訓練なんか、これっぽっちも受けたくはないのである。
できれば生活スキルを活かした異世界スローライフみたいなやつがいい。
第二の人生が血で血を洗う壮絶なバトルファンタジーになるのは勘弁である。
「あなたにどんなスキルがあるかは訓練によって私が判断します」
シャルムは凛とした態度で答えた。
これが異世界ハローワークの仕事であるという、矜持がそこにはあった。
「契約者は戦闘スキルコースか、生活スキルコースか選べないんですか?」
「そうよ。訓練の内容も私が決めるって言ってるでしょ」
「そんな戦闘スキルの訓練なんて受けたくないですよ! 俺は魔王とかモンスターと戦うようなハードモードな人生は勘弁ですから!」
「それを決めるのは私って言ってるでしょ!」
「俺は宿屋のフロントとか、道具屋の店員みたいなまったりジョブでスローライフしたいんです! 牧場とかないんですか? 農家で開墾ライフなんて流行りのジャンルでしょ!」
「ごちゃごちゃ言わずに、さっさとサインしてくれない?」
ペンを持つ手を震わせる俺を、冷たい視線で急かしてくるこのお姉さんこそ、この異世界ハローワークの所長、シャルム・ヴァイパーである。
大きく胸の谷間を出し、ロングスカートのスリットからは艶めかしい脚がはみ出ている。
異世界の住人というよりも、どこか俺の元いた世界で夜の歓楽街を歩いていそうなお姉さんである。性格はご覧の通り、かなりドS寄り。
「だけど……」
ひと通り説明を受けても、俺はまだ悩んでいた。
どんな訓練を受けるのか分からずに、サインなんてできるわけがない。
せめてお試し一週間コースみたいなのがあればいいのに!
「何を悩むことがあるのよ。あなた、悪い方向に考えすぎじゃない? ここで生きていくためにはスキルを身につけるしかないのよ?」
「だって……」
もじもじして一向にサインしようとしない俺に、ついにシャルムはキレ始めた。
「じゃあもういいわ。サインしなくても私は困らないから」
シャルムはテーブルの上の契約書をぶんどった。
「いや、ちょっと待ってください!」
「私も忙しいのよ。ホイップ、こいつはほっといて、ご飯にしましょ」
と、シャルムは俺の話を無視し、ホイップに話しかける。
ちょっと、見切りが早すぎません? 短気は損気ですよ?
「シャルム様、いいんですか……?」
妖精のホイップが、くるりとシャルムのまわりを回った。
「サインしないってんだから、仕方ないでしょう」
「ケンタさんはどうなるんですか? ここを追い出されたら、十中八九モンスターに食べられちゃいますよ? たいして美味しくなさそうだし、消化に悪そうだし、栄養もなさそうだし、モンスターもかわいそうです」
美味しくなさそうで悪かったな!
ていうか、この妖精さん、ちょくちょく毒を吐くよな。さらっとひどいこと言ってない?
「そんなの知らないわよ。うちは契約者以外の面倒なんて見る必要ないし、モンスターに食われた不運なアイソトープとして処理されて終わりよ」
「せっかく第二の人生を生きるチャンスだったのに、ケンタさんかわいそう……」
ホイップは俺に向かって手を合わせた。チーン、じゃないんだよ!
もうシャルムとホイップの間では、俺が死ぬことは確定しているらしい。
「ちょうど今は契約してたアイソトープ全員のジョブを見つけて送り出したところだったから暇だったんだけど、まあいいわ」
「そうですね。ケンタさんのことは最初からいなかったと考えて忘れましょう。ただの食物連鎖です。自然の摂理です」
シャルムとホイップが俺を無視して話を進めている。
確かにこのままここを放り出されたら、俺は生きるあてなど何もなく、モンスターに襲われたらひとたまりもない。それにアイソ
トープの匂いはモンスターをおびき寄せるらしいし……。
ここは身の安全を守るという意味でも、契約書にサインをして訓練を受けた方がいいのではないだろうか? いや、間違いなくそうだ。
「いや、シャルムさん? ちょっと待ってください。契約の件は僕もやぶさかではないというか……」
「これ以上無駄な時間を使ってられないわ。行きましょう」
「シャルムさん? 契約の件、もう一度検討させていただきたく……」
「あなた、まだいたの? さっさとそのマント置いて、出ていってくれない? 不法侵入で訴えるわよ」
もはや契約者どころか、犯罪者扱いである。
しかもマントも脱がされ、まさしく裸一貫で放逐されるみたいだ。完全にモンスターホイホイである。
なんのスキルもない俺がモンスターと出会ったら戦うことすらできずに食われるのは火を見るより明らかである。もう俺はうぬぼれてないんだからね!
「そんな無慈悲なことを言わないでください! 心を入れ替えて、身の程を知りましたから!」
「私たちは忙しいんだから、さっさと……」
『キュイン……、キュイン……!』
と、シャルムが何か言いかけた瞬間、何か異様な音が鳴り響いた。
パトカーのサイレンのような人工的な音ではなく、何か生き物の唸り声のような奇怪な音がどこからか繰り返されているのだ。
「ほら、言わんこっちゃない! ホイップ、行くわよ!」
シャルムは左腕のブレスレットを確認し、ホイップを呼んだ。
音の発生源は、そのブレスレットからだった。時計のような丸いパネルがついていて、今そこの一部が光り輝きながら「キュインキュイン」と繰り返していた。
「馬車を呼んできます!」
「いえ、ちょっと待って!」
ホイップは部屋を飛び出そうとしたところ、シャルムに止められる。
「馬車を使わないんですか?」
ぴたっと羽を止めて急ブレーキのホイップが、振り返ってシャルムに問う。
俺は何事かと、その二人の言動を見守る。何か良くないことが起きているのは、簡単に想像できた。
「……この、近くよ」
シャルムは腕のブレスレットを凝視しながら、小さく呟いた。どうやらあれが、何かの場所を知らせてくれる装置らしい。
その何かとは、まさかモンスター? 近くにモンスターが現れたってこと?
「ちょっと、シャルムさん? ホイップさん? どうしたんですか?」
「事務所内は結界が貼ってあるから安全でしょうけど、一応臨戦態勢はとっておいてね、ホイップ」
「あいあいさーです、シャルム様!」
俺の質問はまったくの無視で、シャルムは壁に掛けてあった一本の剣を手に取った。
ホイップはホイップで、金属の薄っぺらい武器を持っている。よく見るとそれはバターナイフである。あれで戦うつもりなのか?
「モ、モンスターですか? ま、まさか、俺の匂いを感じて? 俺がモンスターをここに呼び寄せてしまったってことですか?」
アイソトープの匂いはモンスターにとって魅力的な餌の匂いなのだ。俺がここにいるのをかぎつけて、襲ってくる可能性は十分あり得たのだ!
「モンスターですね? モンスターが来たんですよね?」
そんな俺の叫びを無視して、シャルムとホイップは部屋を出ていってしまった。
「待ってください! 俺も行きます!」
もはや契約どころではない。一人ぼっちになることのほうが恐怖である。
「あ、そうだ。俺も武器を……」
と、部屋を出る前に壁の剣を手に取った。小ぶりで、俺でも片手で扱えそうな片刃の剣だ。それでも見た目よりもずっしりと重い。
ダジュームで生きるということはモンスターとの戦闘も日常茶飯事に起きるということ。この剣を扱うためには、そりゃ戦闘スキルが必要だよ……。
「俺は戦闘スキルなんていらないんだけど、仕方ない……」
なんとか剣を持ち、シャルムたちを追いかけるのであった。
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