妖精にとって年月というものに深い意味はなかった。
年齢を取るということもないし、体が大きくなることもない。
知識は増えるが、この妖精の森にいる限りはおおよそのところで限界が来てしまう。この妖精の森で知ることなど、過ぎ去った過去の一部の事実くらいだった。
この妖精の森の中だけで生活していると、いずれは何も知ることができなくなる。
妖精の森での生活は、ただたんたんと時間が過ぎ去り、日々は雪の上の足跡のように消えていく。
慣れとは恐ろしいもので、その先に何があるのかを知る意欲さえも奪ってしまう。
これはホイップがずっと悩んでいたことでもあった。
好奇心を無くした妖精など、歴史の語り部になる資格はないのでは、と。
だが無邪気なペリクルとの出会いによって、そんな疑問は少しずつ消えていくようであった。
ホイップとペリクルが出会ってどれくらい経ったのか。一年かもしれないし、三日かもしれない。過ぎた年月を数えることに、やはり意味はない。
「ねえ、ホイップ」
ペリクルは大きく目を見開いて、声をかける。
その背中には大きな羽が形成され、なんの苦労もなく飛べるようになっていた。
他の妖精よりも一回り体が小さくて、森の妖精たちからは親しみを込めてちびペリクルと呼ばれていた。
「なによ、ペリクル」
森の大きな木に背中を預けて、ホイップは鷹揚に返事をする。
世話係といえど、もうすでにペリクルに教えることなど何もなかったが、二人はいつも一緒に過ごしていた。
妖精なんて、この森にいれば普段は何もすることはない。ただ森の中で風を感じているだけで、妖精は妖精でいることができた。
「森の外ってどうなってるの? ホイップは知ってる?」
何気ないそのペリクルの質問が、ホイップの胸を衝いた。
それはここ最近はずっと心の奥底に閉じ込めていた疑問であり、ペリクルはホイップの気持ちなど知っているはずもない。
だけどこの疑問は、転生してきた妖精ならば当然思いつくものではあるが、暗黙の了解となっていた。
わざわざ森の外に出て危険を冒す必要はないのだから。
「森の外には出られないわ」
ホイップは最初にペリクルに出会ったときのように、冷たく言い放った。
ここにいる妖精たちは、森の外に出たことがない者ばかりだった。外の世界はシャクティによって泉に映像として映し出されることはあったが、実際のダジュームを知る妖精はいなかった。
「でも妖精はダジュームの歴史を語り継ぐ役目があるんでしょ?」
純粋なペリクルは、当然の疑問を続ける。
それはホイップにとっても何度も何度も自問自答してきた疑問であり、他の妖精たちはもはや忘却してしまった疑問でもあった。
「一度森を出たら帰ってこれないのよ」
厳密にいえば、そんなことはなかった。シャクティにさえ許可をもらえれば、また戻ってこられるのだが、その保証がないというのは事実だった。
現在の妖精たちの共通認識としては、この森で一生を終えることが妖精のすべてだということ。本来の目的である歴史の語り部については、シャクティから見せられる映像で事足りるという認識であった。
そういった風潮もあって、森を出ていった者は裏切り者とまでは言われないまでも、空気が読めないというくらいの感情は向けられることになる。
「でもホイップはさ、気にならないの? 外の世界のこと?」
「シャクティ様が映像を見せてくださるでしょ」
「映像だけじゃわからないよ。ダジュームの空気や、匂いや、音も、何もわからないじゃない。人間にも会ってみたいな」
至極まっとうなことを指摘するペリクルに、ホイップは返す言葉をなくしてしまう。
それはホイップも忘れようとしていたことだ。
ペリクルとの生活が楽しくて、初めてこの森にいる理由ができたような気がしていたから。
なのに、そのペリクルから指摘されて、閉じていた胸の扉が開きそうになる。
これでいいのかという、自己への痛烈な一撃となった。
「ねえ、ホイップは外の世界を自分の目で見てみたくないの? 自分の足で歩いてみたくないの? 自分の羽で空を飛んで、空気を感じてみたくないの?」
「あなたにはまだ何もわからないのよ」
そう言って、ホイップは立ち上がり、村へと戻ってしまった。
自分も他の妖精たちと同じように、妖精の目的を忘れようとしていることを実感しながら。
あれからさらに何日か経った。
ペリクルも気を使ったのか、それともほかの妖精たちの空気に飲まれたのか、外の世界の話はしなくなった。
ホイップはいつその話題がでてくるのかひやひやしながらも、安心していた。
だけど、それ自体が逃げているような気がする。ペリクルからも、自分からも。
そんなある日。
シャクティから泉の広場に集まるように号令があった。それは特別なことではなく、よくあることでみんな軽い気持ちで広場へと集まってきた。もちろんその中にホイップとペリクルの姿もあった。
『ダジュームで戦争が起こりました』
シャクティはそう言って、泉にダジュームの映像を流した。
鎧に身を包んだ一人の男と、ガーゴイルが戦っている場面だった。
「あれが勇者?」
「そうよ。今の、ね」
ペリクルが指さし、ホイップが答える。
妖精に比べると人間の寿命など長くて百年。魔王と戦う勇者なんかにしてみると、それよりももっと早く死んですぐに変わってしまうので、いちいち勇者の名前まで覚えることはしなかった。
映像では魔王軍は物量作戦で、勇者パーティーはモンスターの圧倒的な数に苦戦しているのは一目瞭然であった。いつの時代の勇者も仲間を4,5人しか連れておらず、学習能力がないのかとうんざりしてしまう。
「これはどこの国かしら?」
「さあ? ダジュームはどこも一緒に見えるわね」
「今の勇者が負けたら、またモンスターが増えるのかな?」
「また新しく勇者が出てくるわよ。その繰り返し」
妖精たちはいつもダジュームの出来事に対し、他人事であった。
みんなこのシャクティが映し出す映像を見て、ダジュームを知った気になる。歴史を語り継いでいるような気をしている。勇者の名前すら、知らないのに。
「助けに行かなくていいの?」
小さな声でペリクルがつぶやく。
彼女の手は、ぎゅっとホイップの腕を掴んでいた。
だけどホイップは何も答えられなかった。妖精が行っても何の助けにもならないことは分かっていたし、この妖精が集まる中でそんなこと言えるわけもない。
すると間もなく、勇者が倒されてしまった。
「あーあ」
誰ともなく、落胆の声が上がる。
これでまたしばらくダジュームは魔王軍によって支配され、混沌の世界となるであろう。
だが誰もそんな心配はしていない。まさに対岸の火事であった。
この妖精の森にさえいれば、モンスターは入ってくることができないし、なんの危険もない。明日も明後日も、平和に生きていける。こうやって映像だけを見ながら。
ちらとペリクルを見ると、その大きな瞳がうるんでいた。
一方で、他の妖精たちは映像を見ても、ほとんど無関心であった。これが今の妖精の姿であり、ダジュームの歴史を語り継ごうとする者など、ほとんどいないのがはっきりとした。
このままではいけない。
ホイップは閉じ込めていた気持ちが再び盛り上がってきた。
この瞬間、ホイップはこの森を出ていくことを決心したのだった。
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