ハデスは妻のミラと娘のシャルム、そしてこの勇者との会談を繋げた魔王軍の幹部一人を連れてダジュームにやってきた。
もっとモンスターを連れていくべきだとの意見もあったが、このダジュームでハデスを危険に貶めるものなど何もない。この魔王ハデスが本気を出せば、一瞬でこのダジュームという世界を破滅に追い込むことが可能なのだから。
それにモンスターの大群で押しかけては、会談どころではなくなってしまう。この少数での訪問はハデスなりの、魔王軍ありの配慮であった。
「魔王様、会談の場所はここから北へ行ったところにある、ラの国の首都とのことでございます」
勇者との折衝を受け持ったモンスター、黒いローブまとった魔法使いが進言する。落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、まだ若者だった。だが実力を認められ、すでに魔王軍の幹部の一人であった。
名をギャスという。のちのベリシャス三本槍の一人でもある。
「そうか」
ハデスがギャスの報告に、厳かに返事をする。
裏の世界とダジュームを繋ぐゲートがある小高い山の上から、その首都の方向を見やるハデス。
この場所にゲートを作ったのは、あたりに町どころか集落もなく、人間が誰も住んでいなかったからである。
余談であるが、この時代にはまだハローワークという概念はなかった。もちろん、ラの国のハローワークの建物もない。なので「裏山」と表現することはできない。
アレアレアの町ができたのも、まださらに先であることを考えると、ラの国のこの周辺はただの「山」であったことを付け加える。
「シャルム、空を飛ぶ練習はしてきたのか?」
ハデスがギャスへ返した声とは正反対の、柔らかい父親の声音でシャルムに尋ねた。
「もちろんよ! お父さんよりも、ずっと上手に飛べるんだから!」
両手を握りしめて父親を見上げるシャルム。
ハデスも愛娘の姿に目を細めようとしたが、ギャスの手前、ぐっとこらえる。
「じゃあ、行こうか。おい、先導してくれ」
「はい。では」とギャスが答え、飛び上がった。
「ミラは私につかまりなさい」
人間であり、魔法は得意ではないミラを片手に引き寄せるハデス。
「先に行くね! お父さん、ついてきて!」
一方のシャルムはそう言うと、ふわりと浮かび、そのまま圧倒的なスピードで飛び去ってしまった。
「シャルム!」
「シャルム様!」
ミラが心配する声と同時に、ギャスがシャルムを追う。だがそのスピードでは、まったく追いつけそうもなかった。
はぁ、とため息をこぼしてハデスもミラを抱えて娘を追う。
「どう? 将来有望?」
腕の中のミラが、嬉しそうに聞く。
「ああ。すでに私よりもずっとうまく飛んでいるよ」
シャルムの成長を喜ばしく頬を緩ませるが、この年にして甚大なオーラを持っている姿に、恐ろしくも思う。
このまま成長すると、きっとシャルムは自分よりも強くなるかもしれない。今でさえ、幹部のギャスよりもオーラの量は多いはずだ。
だが、ハデスは娘に魔王を継がせるつもりなど微塵もなかった。
たった一人の娘を争いに巻き込むわけにはいかない。
そのための今回の勇者ウハネとの会談であることを、肝に命じて。
ラの国の首都の上空に差し掛かる。
空を飛んで移動している間も、眼下に広がるのは草原ばかりで、広大な大地が広がっていた。それは裏の世界のような作物が育たない痩せた土地ではない。
ダジュームの人間たちはこの土地を有効利用する知恵と、技術、そして労働力が足りていないのだろう。ハデスにとってその何もない自然の土地は、宝の土壌に見えた。
勇者ウハネは休戦に応じるとダジュームの半分の土地を差し出すと言っている。
魔王軍の労働力をもってすれば、すぐにこの土地を肥沃な大地に育てることができよう。そうすれば、きっとダジュームの人間も、裏の世界のモンスターも暮らしが楽になるはずだ。
ハデスは献上された土地は農耕地として活用し、お互いが共存する世界を作るためにフィードバックするつもりだった。
(これはまだ魔王軍で話し合ってはおらぬこと。こんなことを言うと、侵略派のランゲラクなは猛反対するだろうからな)
勇者側から休線の申し入れがあったからこそ、この会談が実現したのだ。人間たちと魔王軍の間に入って、なんとか協和を図っていかねばならぬと、ハデスは身を引き締める。
(人間もモンスターも、お互いの世界を行き来できるようになれば、ミラも喜ぶ)
「ラの国って、都会なのね」
上空から首都を見下ろしながら、ハデスの左腕に抱かれたミラが興味深そうに言う。
「お母さんはどこで生まれたの?」
こちらはハデスの右腕に抱かれるシャルム。
最初こそ威勢よく飛んでいたが、途中で力尽きて飛べなくなってしまったのだ。やはりまだオーラの制御ができていないらしい。
「お母さんはね、もっと遠くの国よ。ずっと、遠く」
ミラは遥か空の向こう側を指さした。
今日、ようやくダジュームへと戻ることができたミラのことを思うと、胸が痛む。魔王の嫁となって以来、裏の世界からダジュームに戻ってきたはこれが初めてなのだ。
ここでミラについて、触れておかねばなるまい。
ハデスとミラの出会いは、ハデスが【空間移動】によってダジュームを訪れたことによることは、すでに書かれたことである。
ハデスは父親が死に、ダジューム侵略が一旦白紙になってからも、一人でこの世界を訪れていた。ゲートは閉じ、モンスターの行き来は封鎖していたため、すでにダジュームにはモンスター自体は少なくなっていた。
ミラはこのダジュームのミの国の小さな港町で暮らしていた。
ミの国は、このラの国からは遠く離れており、海に面した国だった。主に海産を生業としていた国で、ダジューム中への海産物の輸出で成り立っていた。
ミラはその小さな港町の宿屋で働いていた。
ダジュームは広いといってもそれは人間たちの感覚であり、ハデスにしてみれば空を飛べば一瞬で移動できる。たまたま通りがかったこの町の上空で、ちょうどクジラが砂浜に打ちあがっているのを見かけたのだった。
モンスターのハデスとて、クジラのように大きい生物を見るのは稀なことで、人間たちが海へ戻そうとしているのを興味深く観察していた。
だがひ弱な人間たちが束になっても、巨大なクジラを動かすことは容易ではなかった。クジラはみるみるうちに弱っていく。町に住むほとんどの人間たちが集まって、もうどうしようもないと諦めの色が濃くなっていた。
ハデスは何度も【空間移動】でダジュームを訪れていたが、人間たちとの接触は皆無だった。あくまで見知らぬこの美しい世界を愛でることが目的であったし、自分のようなモンスターが少しでも関わることでダジュームの生態に影響を与えるべきではないと考えていたからだ。
しかし目の前でクジラが死んでいくのを黙って見ていられるほど、ハデスは残酷ではなかった。直接手伝わずとも、魔王のハデスならばなんとでもできる。
「【マリオネット】」
空の上から、ハデスはクジラに向けて手を掲げる。その両手の十本の指それぞれから、線状のオーラがクジラに向かって伸びていく。
もちろん、このオーラは人間たちに見えることがないようにできるだけ細くしていた。その糸のようなオーラは、大きなクジラを包み込む。
あとはもう簡単なものだった。ハデスが軽く指を動かすと、その細いオーラを通じてクジラに力が伝わり、いとも簡単にその大きな巨体を操って見せたのだ。
まさに操り人形。
急に寝返りを打ったように転がるクジラを見て、人間たちは歓声をあげた。いや、悲鳴といってもいいだろう。クジラが自力で海に向かって転がっていくのだから、まるで地面が傾いたのかと思い、地べたに這いつくばった者もいたくらいだった。
クジラは二度三度、ゴロゴロと転がり巨体を海の中へ沈めていくと、いつの間にか沖のほうへその姿を消してしまった。水面から一度、潮が上がり、クジラの無事が知れた人間たちから歓喜の声が上がった。
はるか上空でハデスはまるでブラインドタッチするかのように、指を動かしていただけだ。魔王の息子にとってこの程度のスキルは朝飯前であり、クジラの命を救えたことを何よりも安堵したのはこのハデスであった。
ダジュームの環境に関与しないと決めていたハデスであったが、その自戒を破ったうしろめたさもあって、すぐさまこの場を離れようとした。
だが、地上から自分に向けられた視線を感じた。
クジラが助かって歓喜の輪ができている浜辺で、ほとんどの者が海の向こうに消えていくクジラを眺めている中でたった一人空を見上げている女がいた。
その女はまっすぐ、自分のほうを向いていたのだ。
(見られたか?)
ハデスはすかさず飛び去ろうとしたが、目が合った瞬間、その女はにこりと微笑んで見せたのだ。
それが、ミラとの出会いだった。
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