オーラが圧縮し、空間が裂ける。
縦に切り開かれた空間から、網タイツとヒールをはいた、しなやかな脚が出てくる。
ふわりと地上に降り立った女は、ゆっくりあたりを見渡した。
ハローワークの事務所の扉が開け放たれていること以外、目に見える異常はない。
近くに誰かが潜んでいる気配もない。女は万が一のことを考えて、己の体からオーラを放出し、半径100メートルほどの範囲まで広げてみた。
この範囲内にオーラを持つ者がいれば探知してくれる。これは女が持つ【隠密】スキルの一種であった。
(……誰もいないわね)
オーラは人間の五感以上に状況を教えてくれる。隠しきれるものではない。
ダジュームにおける第六感は、この魔法の源となるオーラであった。
ハローワーク近辺の安全を確認したが、ひとつだけ、おかしなものがあった。異常と言えば異常だが、正常でもある。魔法を操る女にしても、その判断はつかなかった。
その足元に転がる、おかしなものを、じっと見下ろす。
男が仰向けで転がっていたのだ。
死んでいるわけでないことは、その幸せそうな顔をしていびきをかいていることから一目瞭然であった。
もちろん、女のよく知る男である。
ハローワークの外で眠っている状況は、この男ならばありえるので事件性があるのかどうかは判断できない。
「まったく……」
女は足元でぐっすり眠る男をヒールで踏みつけた。
「ギャッ!」
男はすぐに踏まれた腹を押さえて飛び起きた。
「え、え? あれ? どこここ?」
この状況が理解できていないのか、単に寝ぼけているだけなのか。男は腹をさすりながらきょろきょろと首を振る。
「あんた、なにやってんの?」
女の冷たくも呆れた声に、男は顔をあげる。
「シャ、シャルム……?」
ぽかんと口を開ける男は、腰に腕を置いてにらみつけてくる女を見て、恐怖で顔が真っ青になる。
「ねえ、ケンタ。なんであんたは事務所を開けっ放しにして、外で寝てるワケ?」
開けっ放しの扉を指さすシャルム。
「な、なんででしょうか……?」
頭を掻いて、必死に思い出そうとするケンタ。
確か地下の道場から引っ張り出されてたところで、いつの間にか気を失って……?
なんで事務所の前で倒れてたんだ?
ていうか……。
「ジェイドさんは?」
「ジェイド? 誰よそれ?」
ケンタはさっきまでジェイドと一緒にいたのだ。
なのに今は、代わりにシャルムが目の前にいる。
「命の恩人なんですよ。アイソトープなんですけど、めっちゃ強くて。で、お礼を言おうとして事務所に連れてきたんですけど、なんかいきなり変なことになって……」
ケンタは状況をかいつまんでシャルムに説明した。
「で、なんでシャルムが? どこ行ってたんですか?」
シャルムはケンタの質問には答えず、目だけを動かしてあたりを観察していた。
「シャルム……?」
反応のないシャルムに、ケンタは不安になってしまう。
勝手に知らない人を連れてきたことを怒っているんだろうか? こうやって何も言われないのが一番怖いのである。
「ジェイドって、誰?」
シャルムはゆっくりと事務所に向かう。
ケンタもようやく起き上がり、シャルムの背中を追う。
「あの、実は裏山で薪拾いをしているときにキラーグリズリーに襲われて。そこにジェイドさんていうアイソトープの人が助けてくれたんです。あの、スーツを着て、20歳くらいの男の人で……」
さっきよりも詳しく説明する。
「ここに連れてきたの?」
事務所の開け放たれた扉の前に立って、屋根を見上げるシャルム。
やはり声が怖い。完全に怒っている。
ここは先手で全力謝罪するべきだと、ケンタの危機察知能力が告げた。ことシャルムに関しては敏感である。
「すいません、勝手に連れてきちゃって! でも、なんかすぐに帰っちゃったみたいなんで!」
扉に触れ、外から事務所の中を覗くシャルム。
ケンタの謝罪は聞いていないようで、口元を手で押さえている。さっきから、あらゆることを警戒しているようなシャルムに、ケンタはもう何も言えなくなってしまう。
シャルムは意味のないことをするのが大嫌いなことはよく知っている。
「そいつはどこに行ったの?」
ちらっとケンタのほうを振り返るシャルムの顔は、真剣そのものだった。ケンタも冗談を言う雰囲気ではない。
「さあ? さっきまでいたんですけど……」
魔法で眠らされていたケンタが分かるはずもなかった。
起きたらジェイドがいなくなり、代わりにシャルムがいたのだから。ケンタのほうが聞きたいくらいだ。
「自分でアイソトープだと言ってたの?」
「ええ、そうです。キラーグリズリーを真っ二つにするくらい強くて、裏山に訓練に来たとか言ってましたけど……」
「そいつ、モンスターよ。かなりのレベルのね」
「モンスター……。へ? なんですって? アイソトープって言ってましたけど?」
「アイソトープなわけがないでしょ。あなた、そのジェイドって名乗ったモンスターに殺されるところだったのよ」
シャルムはようやく事務所の中に足を踏み入れた。
ケンタというと、今言われたことが理解できずにただ棒立ちしているだけだった。
「ジェイドさんが、モンスター?」
「事務所に張っていた結界が消されているわ。きっとそいつの仕業よ」
リビングを調べるシャルムに、ケンタも恐る恐る事務所に入る。
ようやく事態を理解したケンタだが、信じることはできなかった。
ジェイドは自分を殺そうとしていたなんて……。なぜ?
「でも、俺は襲われているところを助けられたんですよ? 殺すつもりなら、放っておけば……」
「自分の手で殺す理由があったんじゃない?」
突き放すようにシャルムはケンタを不安にし、ようやくソファに座った。
「そ、そんな……。俺がモンスターに狙われる理由なんて……」
と、そこまで言ってケンタもようやく気付いた。
自分がモンスターに狙われる理由。
「あなた、あのコト、誰かに言った?」
シャルムももちろん、その理由には心当たりがあった。
【蘇生】の魔法――。
「いえ、誰にも、言ってません」
それは以前、シャルムにきつく言われたことだった。
ケンタが【蘇生】の魔法を使えると知れたら、命を狙われるかもしれない。
そんな恐ろしいことを言われていたのだから、ケンタは簡単にばらすはずがなかった。
「それ以外で、あなたみたいなアイソトープのところにモンスターが来る理由なんてないわ。なにか心当たりもないの?」
ソファで足を組むシャルムだったが、ケンタは事務所の入り口で突っ立ったままだった。なんだか膝が軽く震えている。キラーグリズリーと対面した時とはまた違った恐怖が、ケンタを襲っていたのだ。
キラーグリズリーの場合、ただ単純に腹が減って本能でケンタを襲ったという理由が明確だった。
しかしジェイドが本当に自分の命を狙ってきたのだったとしたら、それが【蘇生】のスキルのせいだったとしたら、これほど恐ろしいことはない。
「実は……」
ケンタもこのスキルについては、もちろん他言していない。本人も、今シャルムに言われるまで忘れていたくらいだったのだ。
もう自分は【蘇生】の魔法なんて使えないと、思い込んでいたからだ。
それはあのテーマパークの一件があったからで、そしてそれが唯一の心当たりでもあった。
「この前、首都に行ったとき、目の前で男の人が心臓発作で倒れたんです。それで俺、生き返らせることができるんじゃないかって……」
「【蘇生】を試みたのね?」
「……はい。でも、何も起こらなくて……」
うつむくケンタの心情は非常に複雑だった。
あの時、ケンタは老人を助けようとしたのだ。自分の能力は過信しているわけではなかったが、もしかしたらシリウスのときみたいに俺なら生き返らせることができるかもしれない、そう思ったのは事実だ。
気が付けば倒れる老人の胸に手を当て、【蘇生】の魔法を唱えようとしていたのだ。
が、結果は何も起こらなかった。
「それ、誰かに見られたの?」
「テーマパークでしたから、たぶん、いろんな人に……」
「……はぁ。迂闊ね」
大きくため息を吐いて、シャルムは天井を見上げた。
「だって、目の前で人が死んだんですよ? 医者もいなくて、なんとかしようとするのが普通でしょ?」
「なんともできないくせに、自分の身を危険にさらしただけじゃないの。そこで本当に生き返らせてたら、もっと大変なことになってたわよ」
シャルムの口調は、厳しいものだった。
ケンタがモンスターに狙われた結果、このハローワークまでも危険に巻き込まれたのだから。
「そのときは、まだ分かっていなかったんですよ。なにもできないって……」
不特定多数の人のいるところで、いきなり死人に触れるような行動をしたら、目立っても仕方がない。どこかでその場面を見た誰かが、ケンタが【蘇生】させようとしていると考えてもおかしくはないのだ。
その情報が、あのジェイドに渡ったとしたなら?
こうやって命を狙われる理由になるかもしれない。
自分の迂闊さを嘆くには遅すぎたケンタ。
「あなたを殺しに来たっていうのは、ただの憶測だけどね。キラーグリズリーから助けてもらったのなら、むしろあなたを利用するために捕まえに来たのかもね。【蘇生】のスキルを持っているあなたに用があるのは間違いないわ」
「俺に用があるって、俺をどこかに連れて行くとか言ってたような? そういえば眠らされたような……?」
「じゃあ間違いないじゃない。あなた、モンスターに利用されようとしてるのよ」
「ちょっと待ってくださいよ! 俺、【蘇生】なんて使えないし! テーマパークのことを見たんなら、わかったはずでしょ?」
「そのジェイドって奴は、そう思ってないんでしょ?だからあなたをさらいに来たのよ。ったく……」
呆れるように手を振るシャルム。
そしてちびりそうになるケンタ。
「じゃあなんで俺を連れて行かなかったんですか?」
「私が戻ってくることを察知して、一人で逃げたんでしょう」
よいしょ、とソファから立ち上がるシャルムは髪をかき上げた。
「ワープの魔法じゃ、あなたを一緒に連れていけないからね」
それは以前、シャルムも言っていたことだった。魔法の限界ということだろう。
「俺、どうすれば? また戻ってくるんじゃないですか?」
「私が帰ってくることを知って逃げたんなら、たぶん大ごとにはしたくなかったってことかしら? それも妙ね。モンスターなら力づくでも目的を果たそうとするだろうに」
「一体、あの人は誰なんですか? アイソトープって言われたから信用したのに!」
「私にわかるわけないでしょ! ただ、私の結界を簡単に消すんだから、相当なレベルじゃない? 魔王の手の者かも」
「ままま、魔王? 魔王から俺は狙われてるんですか?」
ケンタは我慢していたが、ここでちょろっとちびった。
「知らないわよ! ほんと、よけいなことをしてくれたわね! 事務所にモンスターを入れるなんて、前代未聞よ! ああ、モンスター臭い!」
シャルムはガチでキレているようだった。
ケンタももう少し心配してもらいたかったが、そんなことを言うと今は逆効果になりそうだ。
「とりあえず結界を張り直すわ。あなたは部屋を消毒して、お香でも炊いてこのモンスターの匂いを何とかして頂戴!」
そういうとカツンカツンとヒールを響かせながら、事務所の外に出ていった。
「モンスターの匂いって……、そんなのわからないって」
鼻で息を吸い込むが、ケンタが感じ取ったのはシャルムの甘い香水の匂いだけだった。
だが、自分の身に死の香りが漂ったという事実を思い出して、震えるケンタであった。
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