ホイップは森を出る日にちを具体的に決めているわけではなかった。
森を出る方法は、シャクティに頼むしかないことは知っていた。ホイップがここに転生してきたときの世話係が教えてくれたことだった。
名前はクラリスといった。赤い髪が奇麗な妖精だった。
クラリスはホイップが知っている妖精の中で唯一、この森を出ていった妖精だった。
「元気でね。ホイップは私みたいになったらダメよ」
それがクラリスの最後の言葉だった。
クラリスはホイップにそう言い残し、この森を出ていった。
彼女は何のために妖精の森を出ていこうとしたのか、理由は何も言わなかった。今ホイップが感じている疑問と同じかどうかもわからない。
妖精の役目を果たそうとしたのか、それともただ単に妖精の森の生活が嫌になったのか、ただの好奇心か。今でもその理由は知る由もない。
あれからクラリスはもう二度とこの森に帰ってくることはなかったのだから。
ホイップもまた、世話係だったクラリスと同じ道を歩もうとしている。
ただひとつ、気になるのはペリクルのことだった。
自分もクラリスと同じ道をたどるということは、いつかペリクルも森を出ようとするかもしれない。少なからず、影響を与えてしまう可能性があった。
一度、森を出ることを諦めかけたのは、ひとえにペリクルのことを考えてのことだった。
ホイップも妖精の本当の目的を果たすためには森を出ることが唯一の正解だとは思っていない。これも一つの選択肢なだけで、ここでシャクティにダジュームの映像を見せてもらえば歴史を語り継ぐことは間接的ではあれ可能なのだ。
ホイップもペリクルの世話係としての役目は全うして、自分の本当の目的を果たす時が来たと考えていた。
妖精として、ダジュームの本当の歴史を見極めようと――。
それはいつもより空が黒く、星も見えないとある夜。
ひっそりと村を抜け出したホイップは、泉の広場を目指した。
「どこに行くの?」
村を出たところで声をかけられた。
「ペリクル……」
まるで自分を待ち伏せしていたようだった。
「こんなとこで何してるの?」
「ホイップこそ、どこへ行くつもり?」
「散歩よ」
「うそ。森を出るんでしょ。私、知ってるんだから」
ホイップは反射的に顔をそむけた。
ずっと心に秘めていた疑問は、ずっと一緒にいたペリクルには隠しきれるものではなかった。疑問から決意に変わった段階で、ホイップの空気は変わっていたのだ。その異変にペリクルが気づかないわけはなかった。
「最近のホイップはずっと考え事してたの知ってるもん。ずっと、森の外のこと考えてるでしょ? 私にはわかるもん」
泣きそうになりながら、口を尖らせるペリクル。
ペリクルからいつか聞かれた「森の外はどうなっているの?」という疑問が蘇る。
「そんなわけないでしょ」
「私も一緒に行く。ダジュームが見たいの!」
「早く村に戻って寝なさい」
「なんで私を置いていくのよ!」
否定するホイップと、すべて悟っているペリクルでは会話が噛み合わない。
これではらちが明かないと、折れたのはホイップのほうだった。
「これは私の問題なの。私には、もうここにいる理由はない」
「私も連れてってよ! 私ももっといろんなものが見たいよ!」
「あなたはまだこの妖精の森で学ぶことはあるわ」
「ホイップがいなくなった妖精の森なんて、楽しくない! 私も行く!」
黒い瞳に涙を溜めるペリクル。まるで駄々をこねる赤ん坊のようだ。
ホイップはペリクルの肩に手を乗せ、言い聞かせる。
「そう簡単に森を出ることはできないのよ。一度森を出ると、もう戻ってこれないのよ?」
「それでもいいもん。ホイップと一緒だったら、それでいいもん」
ペリクルの右ほほに、一筋の涙が流れた。
ホイップは決意が揺らぎそうになる。
ずっとこの森で暮らしていることが、妖精のためにならないという疑問。自分が何者かを探そうとした決断。
その決意をすべて吹き飛ばそうとするペリクルの純粋な涙。
それだけでこの森にい続ける理由になるのではと思いかけたが、ホイップはもう止まることはできなかった。
これ以上、外の世界のことを何も知らずに生きていくわけにはいかない。
これはホイップの妖精として転生してきた責任であり、夢でもあったのだ。
「わかって、ペリクル」
説得する気はなかった。
ホイップはペリクルを残して、村を後にした。
「ホイップ! 行っちゃヤダ!」
ホイップだってペリクルと過ごす生活の楽しさは知っている。これがずっと続けば、きっと楽しい未来が待ち受けているだろう。なにより危険もない。
でも、自分の居場所はこの森じゃない。
泉の広場へと向かっていると、少し後ろをペリクルが付いてきているのに気づく。
「ホイップ……。私も連れてって……」
背後からペリクルの蚊の鳴くような声が聞こえ、嗚咽も聞こえる。
それでもホイップは振り返らない。
これ以上、迷うわけにはいかなかったから。
現にダジュームでは今も勇者と魔王の戦争が起こっている。小さな妖精はそこにいるだけで目立ってしまうし、危険とは常に隣合わせになる。自分の命を守るだけで精いっぱいだ。ペリクルなんて、一緒につれていけるわけがない。
「私、回復魔法が使えるようになったんだよ? きっと、役に立つから……」
まだペリクルはついてくる。
無理やり村に返すこともできたが、ホイップは心を鬼にして無視をする。
泉の広場に着いたときには、ペリクルは無言でぴたっとホイップの後ろにいた。
「シャクティ様、お願いがあります」
泉の大樹に向かって跪くと、ペリクルも同じように腰を落とした。
それでもホイップは構う様子もなく、じっとシャクティの木を見つめる。
『ホイップ、なんでしょうか』
やがて、木の表面からシャクティの上半身が現れた。
泉の水面が揺れ、妖精の森の空気を震わせる。
「シャクティ様、私を森の外へ出してください」
用意していた言葉を、すらっと吐き出す。
妖精の森の外に出るには、シャクティの許可と導きがなければ誰であろうと出ることはできないのだ。
『あなたの考えは分かります。ダジュームの真実を、歴史を、その目で確かめたいのですね?』
「……はい」
シャクティにはすべてお見通しだったようで、ホイップは頭を下げる。
『この森に残るも、森を出るも、私は止めませんし、すべてあなたが決めることです。妖精は何かに縛られる存在ではありませんから』
一瞬だけ引き留められるかもと思ったが、シャクティは毅然としたものだった。
クラリスのときも同じだったのだろうか。
「ありがとうございます」
ホイップはもう一度、深く頭を下げた。
『で、あなたはどうするの?』
シャクティは、隣でぽかんとしているペリクルに話を向けた。
「森を出るのは私一人だけです。この子は、残ります」
ペリクルが口を開ける前に、ホイップが先手を打つ。
「わ、私も行きます! ホイップと一緒に森を……」
「シャクティ様、私だけを出してください。よろしくお願いします」
やはりここまで来させるべきではなかった。話がややこしくなる。
『ペリクル。ダジュームはどんなところか知ってるの? この森のように穏やかな場所ではないのですよ? もう何度も映像を見ているでしょう?』
「わかってます! でも、ホイップが行くんだったら……。ダジュームにホイップが見たいものがあるんなら、私も一緒に見たいんです! 同じ景色を見たいんです!」
ペリクルが涙ながらにシャクティに訴えた。
ホイップはその姿と言葉を受け、心が痛くなる。
一緒に連れていくべきだろうか? 私たち二人なら、やっていけるんじゃないか?
きっとダジュームではこの森のように穏やかな生活は送れない。一人では乗り越えられないこともあるだろう。
だけど隣にペリクルがいれば……。
そんな甘い考えが脳裏によぎった。
『ホイップ。どうしますか?』
シャクティも、ホイップの判断にゆだねようとしている。
「ホイップ、お願い! 一緒に行こう! 二人だったら……」
ペリクルがぎゅっと、ホイップの腕をつかんでくる。
「……そうね」
一度目を閉じ、再び開いたときにはペリクルの笑顔が飛び込んできた。
目を真っ赤にして、泣きじゃくりながら必死で笑おうとしている。そんなに泣いちゃって。バカ。
「ホイップ! ありがとう!」
期待の目で見つめてくるペリクルの顔に、ホイップはそっと手をかざした。
その手のひらが、一瞬だけ光った。
「……え? なんで?」
それが、ホイップが聞いたペリクルの最後の声だった。
ホイップはペリクルに【睡眠】の魔法をかけたのだ。
膝から崩れ落ちるペリクルをそっと支え、静かに地面に寝かせる。
「あなたの気持ちは嬉しいけど、危険な目にあわせるわけにはいかない」
いつの間にかホイップの目にも、涙があふれていた。
こんな自分のことを慕ってくれて、信じてくれていたペリクルとの生活は、この妖精の森での一番の思い出だった。
だからこそ、つれていくわけにはいかない。
自分のわがままに付き合わせるわけにはいかない。
「ちびペリクル、ありがとう」
そっと、眠ってしまったペリクルの頭を撫でた。
ぽつんと、ペリクルの胸の上にホイップの涙が落ちた。
「シャクティ様、お願いします」
別れを惜しみ、ホイップは頭を上げる。
『いいんですね?』
「はい」
もう迷いはなかった。
この目で、この手で、この体で、ダジュームの歴史を感じるのだ。そして歴史を語り継ぐ。
そして自分が妖精として何ができるか、妖精とは何者であるのか確かめる。
ホイップは胸の前で手を握り、目を閉じた。
『いつでも戻ってきなさい。私のかわいい子どもよ』
シャクティの声が頭の中に響き、ホイップの体は温かい光に包まれた。
ホイップが目を覚ましたのは、砂浜の上だった。
初めて見る海の青さ、波の音、潮の香りに、ホイップはダジュームに来たことを実感した。
これは何十年、いや何百年も前の話だったかもしれない。
この一人の妖精がダジュームに来たときのことを覚えている人間は、おそらくもういない。
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