「ねえ、お父さんは魔王なの?」
何かの生物の骨をブロックのように積み上げて遊ぶシャルムが無邪気な声で尋ねた。
「ああ、魔王がお仕事だからね」
黒い鎧を着ている魔王ハデスは、愛娘を見守りながらニコニコとして答えた。
シャルムも人間でいえば三歳になり、父親の職業について気にするようになった。
魔王城に住んでいると、すべてのモンスターがハデスに対して跪き、畏まる。父親のそんな姿を娘には見せたくなかったが仕方ない。
ハデスも魔王になりたくてなったわけではなかった。世襲を覆すことはできず、先代が病死して数百年間、この魔王の座についている。
「ねえねえ、魔王ってお仕事は何をするの?」
シャルムは骨遊びに飽きたのか、興味津々の目でハデスに向き合った。
ハデスにとって、シャルムが母親に似たことは僥倖だった。見た目もほとんど人間の姿で、目に入れても痛くないくらいに愛らしい。頭にちょこんと生えている角だけは、自分のモンスターの血の影響だと思うが、それはそれで誇らしくもあった。
「魔王は……、そうだなぁ」
ハデスは口ごもり、隣のミラに助けを求める。
娘の知らないものを知ろうとする姿勢に、ハデスは父親として魔王として、どこまで話せばいいのか逡巡してしまう。
この魔王という仕事は、決してきれいごとだけでは済まされない。シャルムにはまだ教えるには早いかもしれないが、いつかは知ることになる。それが今かどうか、だ。
「シャルム、お父さんはね、この世界を守っているのよ」
ミラが優しい声で、ハデスに代わって答えた。
「世界を守る?」
小さく首をかしげるシャルムに、ミラが大きく頷く。
「そうよ。シャルムが今まで見てきたもの、会ってきた人、すべてを守るお仕事よ」
「お母さんや、私のことも? フェリスも守ってくれる?」
「そう。お父さんがぜんぶ守ってくれるの」
「すごいお仕事だね! ありがとう、お父さん!」
真ん丸で黒い目を開いて、シャルムは嬉しそうにぱちぱちと手を叩いた。
愛娘のその姿を見て、ハデスは目頭を押さえた。
ダジュームで一目惚れした人間のミラを裏の世界に連れ帰り、結婚したことに後悔はない。ミラも自分を受け入れてくれ、そしてこんなにかわいい娘を得ることもできた。
魔王ハデスは、ミラと出会って初めて幸せの概念を手に入れたのだ。
「あなた、泣いてるの?」
「いや、目からオーラが漏れただけだ……」
ハデスはモンスタージョークをぶち込んだ。ミラは冷たい視線を送っている。
いつかシャルムも本当のことを知るだろう。父親は母親の住んでいた世界の人間たちと戦い、平和という名の暴虐を尽くしていることを。
そのとき、シャルムは何を思うだろうか?
そしてこの魔王という仕事は世襲制なのだ。もしハデスが死んだとき、魔王を継ぐのはこの愛娘になる。
いや、そんなことはしたくない。シャルムを魔王なんかにはさせたくない。
ハデスも自分が魔王の器にないことは自覚している。父が死んで、仕方なく魔王についただけだ。本当はダジュームを侵略などしたくないのが本心だった。
しかし父は違った。
父はこの裏の世界を統一した初代魔王であった。
この裏の世界のほかにダジュームという別世界があると知ったとき、ダジューム征服こそがモンスターの使命だと、父は新たに侵略を始めたのだ。
だがその父は道半ばで病死し、その使命は長男のハデスへと受け継がれたのだ。
この魔王軍のモンスターは未だ父の意志を引き継ぎ、ダジューム征服を祈願とする者たちがほとんどだ。二代目魔王となってから積極的な侵略をしないハデスに対し、訝しく思っているモンスターがいることも気づいている。それは人間のミラと結婚したという事実からも、批判が強まっていた。
だがハデスはどうしても、父のように侵略に積極的にはなれないでいた。もちろんミラやシャルムの影響もあるが、それ以上にハデス自身は戦いを好んでいなかった。それは父が生きていた時から。侵略にだけ熱意を燃やし、家族をないがしろにした父を反面教師として捉えていたからだ。
ダジュームの人間たちは脆い。現実として、勇者によってこの魔王軍が滅ぼされることなど、ありえはしない。
だが、魔王軍も少なからず犠牲を払うことになる。傷つけ傷つけあうことに意味があるのだろうか?
なによりも自分が死に、シャルムが魔王を継ぐことなどあってはならないのだ。愛するミラを悲しませるわけにはいかないのだ。
そのためにはいつまでも自分が生き続けなければならない。
この家族を守るために――。
「兄さん?」
家族への愛と魔王としての在り方を天秤にかけて心を揺らしていると、部屋をノックする音が聞こえた。
その声は、ハデスの弟、ベリシャスであることは明らかであった。
「ベリシャス!」
真っ先に反応したのは、シャルムだった。叔父にあたるベリシャスには懐いている。
扉を開けて部屋に入ってくるベリシャスに、シャルムは駆け寄って飛びついた。
「ああ、シャルムちゃん。今日も元気だね」
「ねえねえ、ベリシャス知ってる? お父さんはみんなを守ってるんだよ!」
兄と同じような黒い鎧をまとうベリシャスの足元にからみつくシャルムに、ベリシャスは話の筋が見えずに、兄夫婦を見て苦笑した。
ハデスも自分よりも弟に懐くシャルムを見て、少し切なくなり、ミラに肩を叩かれた。
「ベリシャスは魔王にならないの?」
屈託のないシャルムの質問に、ベリシャスは困ったような表情になる。
「魔王は兄さんの仕事だからね。僕は今のままでいいよ」
「そうなんだ。じゃあベリシャスもお父さんに守ってもらおうね!」
シャルムはハデスを指さし、にこっと笑った。その笑顔は、ミラとよく似ていた。
「そうだね。僕もハデス兄さんに守ってもらうよ」
シャルムの質問をうまくかわした弟に、ハデスも心強く感じる。
父が死んで誰が魔王を継ぐかという話になったとき、ハデスは真っ先に手を上げた。魔王軍幹部の中にはベリシャスを推す声があったことは知っていたし、ベリシャス本人がそれを望まない平和志向だったことも承知していたからだ。
弟の手を血に染めさせるわけにはいかない。自分が父の意志を背負って生きていこう。
ハデスはそう誓い、二代目魔王となった。それはすべて、家族のためだった。
今ここにいるのが、その魔王の家族。
魔王ハデスとその妻ミラ。娘のシャルム。そして弟のベリシャス。
ハデスにとって、唯一心を許せる空間であった。
この家族を守ることが魔王の仕事――。
それを疑う余地もなかった。
できることならば自分の代で、このダジュームとの争いは終結させたい。それは侵略とは違う形で、誰も傷つかない方法で。
それが魔王である自分の、もう一つの仕事だと信じていた。
そのためには父の意志をも覆さなければいけない。侵略を望むモンスターたちを説得せねばならない。人間たちとも対話する必要があるかもしれない。
魔王ハデスは、家族のため、モンスターのため、人間のため、すべてを守る覚悟はできていたのだ。
それは人間もモンスターも、種族も関係のない平和――。
だが、モンスターと人間の争いは良からぬ方向へとシフトしていく。それが魔王の家族を崩壊させるとは、このとき誰も思いもしなかったのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!