――ゴゴゴゴ!
「走れ、シリウス!」
背後でうなりを上げ始めた破裂音に、俺はイヤな予感しかせずにただちに脱出することを選んだ。
これ以上、ここにとどまっていては、想像を超えた最悪の事態が起きる。俺の直感がそう叫んでいる。
いや、もう直感どころではない。今そこにある、危機!
――ゴゴゴゴゴゴゴ!
俺たちは部屋の出口に向けて、最短距離を走った。
シリウスも事の重大さに気づいたらしく、本気で駆けだす。ホイップも彼についていく。
二人の背中はどんどん小さくなっていく。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!
小さな一本道の入り口に到達したところで、シリウスは振り返った。
「ケンタさん、早く!」
俺の背後で鳴る轟音に、もはやシリウスの声は届かない。
なぜ俺がシリウスに遅れを取っているのかって?
ガッチガチの重装備をしてるから走れねーんだよ!
誰だよ、全身こんな鉄の鎧を着てきて正解だとか言ってた奴! ……俺だよ!
そのときであった。
――ドゴゴゴゴン!!
さっきまでとは違う、明らかに何かが崩れるような轟音が背後で炸裂したのだった。同時にパッと、背後から光が差し込む。
振り向くまでもなかった。
その有様を目の当たりにしたであろうシリウスの顔が、もう尋常ではないことを物語っていた。
「毒サソリ!」
今度はシリウスの咆哮が、はっきり聞こえた。
毒サソリ? ここで毒サソリ? 満を持して?
俺は走りながらも、恐る恐る振り返る。
「毒……、サソリ?」
なんということだろうか。
まさにそれは毒サソリであった。だが俺の知っている毒サソリではなかった。
洞窟の大きな部屋の向こう側、宝箱があった壁が崩れ、その向こう側からそれは大きな大きな、毒サソリが現れたのだった。
「巨大、毒サソリ!」
崩れた壁からは光が漏れてきて、洞窟全体が明るくなった。そして光に照らされたその巨大毒サソリのボディはテッカテカの漆黒に輝いており、その毒々しさを強調させていた。
その尾は獲物を探すかのように前方に反り返っており、完全に先端の針からは毒のような液体をたらしている。
「あんなでかいのに刺されたら……!」
この完全防備の鎧でも一撃である。腹に大穴が開いてしまう!
こんなの、聞いてたのと違う!
俺は力を振り絞って、出口へ急ぐ。
「早く、ケンタさん!」
両手で俺を迎えようとするシリウス。その隣でパタパタと浮かんでいるホイップは、照らす必要はなくなったのですでにファイヤーボールの魔法を解いてしまっている。
あと少し、鎧をじゃらじゃらいわせながら、シリウスの元へ到達しようとした瞬間。
俺の体の横を、ものすごい速さで、黒い何かがビュンと走った。
「……!!」
一瞬であった。
シリウスたちの背後、すなわち俺たちが入ってきた一本道の天井に巨大毒サソリの尾が突き刺さり、この大部屋からの唯一の出口を崩してしまったのだ。
シリウスも微動だにできず、立ちつくすのみ。
俺たちは完全に逃げ場を失い、この洞窟の大部屋で巨大毒サソリと対峙することになってしまった。
「やばいやばい……」
「まさか毒サソリがあんなに巨大だなんて……」
崩れてしまった一本道を背に、俺とシリウスは目の前に鎮座する巨大毒サソリに目を奪われていた。
その毒サソリ、大きさはブルドーザーくらいあるだろうか?
左右に大きなはさみを付した両手はじっと地面に置いたまま動かない。
幾重に生えた足は今はじっと、その場に佇んでいる。どこまでも黒い目はどこを見ているのか定かではない。
頭上から見下ろすような針が付いた尾だけが、ブルンブルンと狙いを定めるように揺れている。
「どうする? やばいって!」
もはやヤバイという言葉しか出てこない。
来た道を戻ることはできなくなり、まさに背水の陣である。
巨大毒サソリは今はじっと動かないが、この道を崩したということは俺たちを完全に認識しているということだ。
アイソトープをじっくり食らってやろうと、余裕の「待ち」なのかもしれない。
「あのサソリが出てきた壁の亀裂から逃げるしかないですね」
光が漏れているということは、あの壁の先は外に繋がっているはずである。
しかし。
「あのサソリをどうにかしなきゃ通れないぞ? 逃げ道を塞いでおいて、さっさと逃がしてくれるかしら? ……そんなの無理すぎるって!」
おそらくここからサソリまで50メートルほど距離はありそうだ。
あのサソリはあの位置から、尻尾を伸ばしてこの道を崩したのだ。ということはこの部屋のどこにいても尻尾の毒針は届くということ。
安全地帯はどこにもない!
「おい、ホイップ! さすがにこれはやばい状況だろ? 戦闘訓練を中止するケースだぞ!」
俺たちの動揺はよそに、パタパタ飛んでいる監視役のホイップに助けを求める。
シャルムも危なくなったら訓練は中止すると言っていた。今まさにこの状況は生死に関わる危険性がある。
「まだケンタさんもシリウスさんも、ぴんぴんしてるじゃないですか?」
「今はな! 死んでからじゃ遅いだろうが!」
なぜかこの状況でホイップの余裕である。
「それにあの毒サソリ。『ダジュームモンスター大全』によるとランクはEです。あれを倒せないようだったらダジュームで生活するのは無理ですよ? 八百屋のオヤジでも大根でぶん殴って簡単に対応しちゃうレベルです」
「あれがランクEだって?」
ブルドーザーの大きさがある毒サソリが?
「性格はおっとりしてて、よく見るとかわいいい目をしていますよ?」
ホイップはバターナイフで毒サソリを指し示す。
どこまでも真っ黒な丸いギョロ目のどこがかわいいんだよ!
「でかすぎるだろ! あんなもん俺の知ってる……」
俺はそこまで言って、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「ケンタさんが思い描いていた毒サソリのことなんて知りません。あれが、このダジュームの毒サソリなんです。考えがおよびませんでしたか?」
ホイップはイタズラそうな笑顔を向ける。
そうなんだ。毒サソリと聞いて、小さなサソリを俺は勝手にイメージしていたのだ。
元の世界のサソリの大きさ、形を。
だがここは異世界ダジューム。俺の常識は通じない!
「これもシャルムが試そうとしている訓練ってことか。既成概念をぶっ壊すには十分だぜ」
「だったらよかったです。じゃ、戦闘訓練、はりきって継続ー!」
場を仕切り直したホイップは、ふらっと俺たちの背後に回る。あくまで監視役、俺たちの手助けはしない方針らしい。
俺とシリウスは顔を見合わせ、覚悟を決めてゆっくり巨大毒サソリに視線を向ける。
「しかしあのサソリ、動き自体は鈍そうですよ。その分、あの尻尾の射程距離が厄介なんですけど」
シリウスが高く逆立った尻尾を指さしながら言う。
「本体自体はあまり動く気配がないんだよな。でも真正面からいくと両手のハサミが厄介だ。装甲もガチガチで俺たちの攻撃でダメージを与えられるかどうか……」
「ケンタさんのそのバスタードソードなら、いけるかもしれませんよ」
俺が両手でなんとかひきずっている大きすぎる両手剣に、シリウスは目配せをする。
この大剣ならば、ある程度振り下ろすだけでかなりの攻撃力は期待できるのは確かである。ややもすれば、サソリの手足を切り落とすくらいはできるかもしれない。
「図体はでかいけど丸くてかわいい目の視野は狭そうだぞ? 背後に回れば、なんとかなるかも?」
サソリの形からいって、背後は死角になるはずだ。両手のハサミも届かないだろう。
となると、あの尻尾さえなんとかすれば……。
「もうそれしかないですよ。僕がなんとかサソリの気を引きつけますから、その間にケンタさんが背後に回って尻尾を切り落としてください。そして一気にあの亀裂からここを脱出しましょう!」
猪突猛進型のシリウスはすでにやる気を漲らせていた。戦闘に入って完全にアドレナリンが溢れているかのように、顔面は紅潮している。勇者のパーティーに入りたいなんて言ってたのは、嘘ではなさそうだ。
「いやいや、簡単に言うなよ! こういうときこそ、油断は大敵なんだって! それにお前みたいな軽装でサソリの毒針やハサミを食らったら一撃で死んじゃうぞ! それにこんなでかいバスタードソード、持ち歩くだけで精いっぱいなのに俺に使いこなせるわけが……」
「なんとかなりますって! やってみなきゃ分かりません!」
「さっきの俺を見ただろ! 全身鉄の鎧を装備して、走ることもできないんだぞ? お前がやられたら、次は俺が狙われて一瞬で全滅だ!」
「考えすぎですって! 気合いでやりましょう!」
「お前は考えなさすぎだ! 気合でなんとかなる事案じゃねえ!」
猛進派のシリウスと、慎重派の俺ではまったく作戦が噛み合わないのである。
シリウスめ、意外と頑固な男なんだな。
「ここでケンカをしても意味がないんだ。やり方の食い違いはあれど、目指す部分は一緒だ。そうだろ、シリウス?」
ここは年上の俺が大人になろう。
巨大毒サソリがいつまでもじっとしてくれているとは限らないのだ。
「そうですね。とにかく僕たちの目的はここを脱出することです」
シリウスも少し冷静になって、本来の目的を思い出してくれたようだ。左腕にはめた腕輪をそっと触った。
「だからといってあのサソリを無視して逃げるのは無理そうだ」
「ですね。せめて一撃、食らわせた隙に逃げるしかありません」
そうなるとやはりあの射程距離の長い尻尾が厄介だ。
「よし、作戦自体はお前の提案を採用しよう。ただ、役割を入れ替える」
「や、役割?」
ちらっとサソリの様子を窺いながら、俺はシリウスに伝える。
「どう考えてもサソリの気を引かせるのは俺の役割だ。これだけの重装備なら、もしかしたら一撃くらいなら耐えられるかもしれない。身軽なお前がこのバスタードソードを使って、あの尻尾を切ってくれ。俺じゃこんな大剣は持ち上げることもできないからな」
バイトで鍛えられた体育会系のシリウスならば、このバスタードソードを使うことができるだろう。少なくとも勉強もスポーツもサボることしか考えていなかった俺よりは。
「この状況で、俺たちが準備してきたもので、今できるのはこれしかない。できるか、シリウス?」
俺はシリウスにバスタードソードを傾ける。
「僕は大丈夫ですけど、ケンタさんは? 鎧を着ているからって……」
「任せとけ。俺のほうが年上なんだから、きっと防御力もあるはずだ。俺が盾になる!」
不安そうに眉根を下げるシリウスに、俺は無茶苦茶な理論でねじ伏せようとする。
年上だからっていうのはギャグだからな! 本当はむっちゃ怖いんだぞ!
「……分かりました。なんとかサソリの気を逸らしてください!」
俺のバスタードソードを受け取ったシリウスは、大きく頷いた。
「できるだけ早く頼むよ? 俺は一撃も食らいたくないんだからさ? 最低ランクのモンスターらしいけど、もしかしたら新種の超強いボス級かもしれないじゃん? 下手すりゃ腹に大穴開けられるんだからね! 死ぬのはイヤだからね!」
強がってみたが、すぐに本音が漏れてしまう。俺ってばお茶目!
「もう、ケンタさんは考えすぎですよ。さっきシャルムさんはそんな危険な訓練をさせるはずがないって言ってたじゃないですか」
「いや、あの女はやりかねん! 毒サソリがあんな巨大だと思わねーだろ、普通!」
でも常識を疑えっていう、メッセージだったのだ。
俺たちの元いた世界での常識は、ここダジュームでは通用しないってことを身に染みて認識させられている。今まさにリアルタイムで!
「俺は生活スキルを身につけてスローライフを送るんだから、こんなとこで死ぬつもりはないからな。だからおまえも 死ぬなよ」
「分かってます。僕も戦闘スキルを身につけないまま、こんなランクEのモンスター相手に死ぬつもりはありません」
俺とシリウスは拳をこつんとぶつけ合った。
ダジュームで生きる目標は違えど、俺たちは相棒だ。
この無茶苦茶な訓練を経て、俺たちがどういう道を進むかは分からない。戦闘スキルが見つかって戦いの中で生きるか、生活スキルでほのぼのスローライフを送るか――。
先のことを考えるよりも、俺たちは生きてここを脱出しなければいけない。それが今の目標だ!
「行け、シリウス!」
俺はさっきサソリが崩した壁で作られた小石を拾い、サソリめがけて投げつけた。ダメージを与える意図はない。こっちに意識を向けさせるためだけの攻撃だ。
こつんとサソリの頭に石がぶつかり、尻尾がギクリと俺のほうを向く。
「ちょっとだけ、耐えてください!」
シリウスはそう言うと、大きな部屋の壁に沿って大回りし、サソリの背後を目指した。
戦闘開始。
俺とシリウスは、この異世界ダジュームで初めてのモンスター戦を始めた。
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