これはハデスがまだ子どものころの話。
ベリシャスが生まれる前、裏の世界もまだ統一されていない頃の話――。
ハデスは生まれたときから、【空間移動】のスキルを持っていた。
父親である初代魔王がそのことに気づいたのは、幼いハデスがこの裏の世界では生息しない花を持っていたからだった。
この裏の世界では植物はほとんど育たない。太陽がなく、空は暗く光が下りてこないからだ。
「ハデス、それはどうした?」
「摘んできた。きれいでしょ?」
父親に尋ねられ、ハデスは当たり前のように答えた。
「どこで?」
「お外」
ハデスはまだこの魔王城の外に出たことはないはずだ。初代魔王は付き人に確認の目配せをするが、無言で首を横に振った。
ここでハデスが言う「お外」が「裏の世界の外」を指していることは、まだ誰も気づいていなかった。
「ハデスを外に出したのか?」
「出すわけないじゃない。そんな花、私も知らないわよ」
魔王は王妃にも確認する。王妃は大きなお腹をさすりながら、ハデスの前にかがみこむ。このとき、お腹にはベリシャスがいた。
「でも……」
王妃が何かに気づいたように、魔王を振り返る。
「どうした?」
「いえ、気になったことがあって」
「なんだ?」
王妃は言いにくそうに、眉を下げた。
「何度か、夜中にこの子のオーラが消えることがあったの。ほんの一瞬だけど、どこかに行ってしまったかのように感じたんだけど……。でもちゃんと私の横で寝ているの。気のせいかと思ってたけど……」
王妃はそっとハデスの頭を撫でて、その手に持つ真っ赤な花を見る。
「オーラが消える?」
ハデスはすでにこの年齢で、かなり強力なオーラを秘めていた。魔王の息子たる証拠でもある。だがまだオーラの制御ができないのか、常に体中から漏れているのだ。
「昨晩も、一瞬オーラが消えたの」
「で、その花を持っていたのか?」
王妃は黙って頷く。
まだこのときはハデスのスキルがはっきりと確認できたわけではなかった。両親であっても、まさかハデスが夜な夜な【空間移動】のスキルで別世界に移動しているとは思いつくはずがないだろう。
数年後。
すでにベリシャスが生まれ、裏の世界は初代魔王によって統一されていた。
魔王軍が設立され、これまで好き勝手生きていたモンスターたちが魔王のもとでかろうじて秩序という概念を植え付けられ始めていた。
裏の世界は魔王によって平和とはいわないが、混沌ではなくなっていた。
「どこに行っていた、ハデス?」
魔王城のバルコニーに降り立った瞬間、ハデスは背後から魔王に声をかけられた。このころにはもうハデスもオーラの制御を覚え、気配を消すことも熟知していた。
だが、魔王城で父に待ち伏せされていたことで、自分の行動がバレていたと思い、つい体を硬直させる。
「ちょっと、外に」
「外?」
魔王はハデスが夜中に魔王城を出てどこかに行っていることを把握していた。付き人たちに尾行を任せていたのだが、魔王城からどこかへ飛んでいったと思いきやすぐに【ワープ】によってその姿が消えて行方が知れないという報告を受けていたのだ。
それで今日は魔王が直々に魔王城に帰ってきたハデスを捕まえたのだった。
「外、とはどこのことだ?」
ハデスはうつむき、答えない。
魔王はすでに、あの日のことが頭に浮かんでいた。幼いハデスが、真っ赤な花を持っていたときのこと。「お外」で鼻を積んできたこと。夜中に一瞬、オーラが消えることがるということ。
魔王もバカではない。すでに長男のハデスがやっていることの証拠は集めている。
「そのスキルは、いつ気づいた?」
魔王はすべて知っているという体で、ハデスに問うた。
叱っているわけではないことを示そうと、柔らかい声音を使ったつもりだったが、ハデスはそう感じなかったらしい。
「父さん、すいません……」
謝る息子に、夜の空を見上げる魔王。
「外の世界に行っていたのか? ハデス、お前は【空間移動】ができるのか?」
魔王は核心をついた。
この裏の世界とは別に平衡世界が存在するという話は、伝説のようなものだった。誰にも証明ができないし、本気にもしない、いわば夢物語であった。
魔王ももちろん、信じていたわけではなかった。
だが息子の怪しい行動に、もしやと疑いをかけていた。
「……うん」
小さく頷くハデスに、疑惑が確信に変わった。
同時に、魔王の胸の中で何かが燃え上がった。
「そうか。今日はもう寝なさい」
魔王は踵を返し、自室へと戻っていった。
もっと追及されると覚悟をしていたハデスは拍子抜けをしたが、内心ではほっとしていた。
これまでずっと隠していた理由は、自分がいけないことをしているという罪悪感があったからだ。それはこの【空間移動】のスキルが自分にしか持っていないこともあったが、別世界に行っていた理由を知られたくなかったからだ。
ハデスは物心ついたときから、【空間移動】を使ってダジュームを訪れていた。
そこには裏の世界にはない、美しい世界が広がっていた。
空は青く、太陽の光が降り注ぎ、四季があって季節それぞれに匂いがある。裏の世界とはすべてが違って、すべてが輝いて見えた。
人間という生き物はモンスターと比べてひ弱な存在で100年も生きられなかったが、親切で友好的でハデスにとって信頼のおける種族だった。
もちろんハデスも自分がモンスターであることは隠していた。
何度もダジュームに通っていると、ここが自分の居場所であるかのように思えてくるのであった。裏の世界では父親が血で血を洗うような争いを続け、モンスターたちを統一していた。
ダジュームでも争いは起こっているが、裏の世界と比べるとかわいいものだった。この世界には本当の平和がある。
ハデスはダジュームを、自分だけが知る楽園だと認識していた。ここへ来れば、嫌なことは何も思い出さなくてもい。だからこのダジュームという世界のことは誰にも言ってはいけない。自分がこの楽園を守るのだ――。
【空間移動】のスキルとダジュームという世界は、ハデスの秘密として胸にしまい続けた。
だがついに、父親である魔王に知られてしまった。
裏の世界を統一した父親は、きっと次の目標を探しているはずだ。
あの野心に燃える魔王なら、ダジュームまで侵略すると言いかねない。
ハデスは全身に悪寒が走った。恐れていたことが起ころうとしている。
自分だけの楽園ダジュームが、魔王軍によって、父によって侵略される――。
その予感は杞憂に終わらなかったのだから、このときのハデスの直感は正しかったといえよう。
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