黒い壁に近づくと、それは壁ではなく、黒い霧のようなものだった。濃度が高く、少しも先を見通せない。壁と言って過言ではなかった。
そのまま突入するほど、俺も自分を見失ってはいない。一旦地上に降りて、その黒い霧を見上げる。
それは禍々しく、目の前をすべて漆黒に包み込んでいるのだった。
「これ、中に入れるのか?」
意気揚々と村人たちを助けようと来てみたものの、手で触れることさえ恐ろしい。ましてやこの中がどうなっているのか。
「これは【ブラックミスト】って魔法ですよ。遠くからなら壁に見えるほど、オーラが強すぎますね」
ホイップも間近に見て、声を震わせる。
「すごい魔法なのか?」
「今の勇者なら、習得するまで100年かけても無理ですね。しかも村丸ごとを覆うなんて、尋常なレベルじゃないですよ。シャルム様でも難しいかもですね」
シャルムでも無理、と言われて腑に落ちる。
しかし村を助けるためにやって来てしまった以上、ここで逃げるわけにはいかない。
それに馬車で輸送されているときに護衛団が見たのもこれと同じ【ブラックミスト】の魔法なのだとしたら、何を狙ったというのだ?
「で、この中には入れるのか?」
この魔法がどんなものなのか見当もつかず、ホイップに尋ねる。
「……さあ?」
両手のひらを上に向け、お手上げ状態をアピールするホイップ。
「じゃあどうすりゃいいんだよ? なすすべなしってか?」
「こんな高等な魔法の対処法なんて知るわけないでしょうが! 妖精がなんでも知ってると思ったら大違いですよ! ケンタさんも自分で考えてください!」
「むう……」
俺は言葉をなくす。
今分かっているということは、この魔法はとんでもなく高等で、護衛団の馬車を襲ったものと同じということだけ。
あの護衛団二人を狙ったのか? こんなすごい魔法を使うモンスターが、そんなことする可能性は低いよな?
となると、やっぱ俺を狙ったのか?
魔王軍のモンスターで俺を狙うとなると、ランゲラクの手の者しかいないんだけど、今の俺はデーモンなのだ。まさかケンタだとバレているとは思えない。
「行くしかないか?」
言って確かめるしかなさそうだ。
今の俺なら、死ぬまではいかないだろう。なにせ中ボスレベルで、勇者よりも完全に強いのだ。
この霧の中でランゲラク軍のモンスターがいたとしても、「いやぁ、なんかブラックミストなんてこの目で見るのは初めてやったさかい、ついつい気になって来てしまいましたわ!」ととぼければいいだろう。モンスター同士で殺し合うことなどないはずだ。なんの根拠もないが。
「ホイップはここで待っててくれ。俺一人なら、なんとかなると思う」
こんな無謀な作戦にホイップを付き合わせるつもりはなかった。ここの村人も、護衛団二人も俺の知り合いなだけだ。
「初めからここで待ってるつもりでしたから、安心してください。ちゃっちゃと行って、さっさと帰ってきてくださいよ! 早くアレアレアに行くんですからね!」
薄情な奴である。
少しくらい心配してくれてもいいのにと思うが、仕方がない。
「じゃあ行ってくるから、ここで待ってろよ。どっかふらふらするんじゃないぞ」
「こっちのセリフです。早く行ってきてください!」
俺はなくした右手を軽く上げて、決死の思いでその黒い霧の中に足を踏み入れた。
右足をすいっと霧の中に入れると、軽く抵抗がある。重い空気がまとわりつくという感触だ。
だが足が切り刻まれるとか、即座に攻撃を受けるといったことはなく、俺は体全体で侵入する。
少し動きが重くなるのがわかる。なんだか水中を歩いているようだ。息はできるが、視界は真っ暗闇。左手で霧をかき分けるように、一歩一歩進む。
どれくらい進めばいいのだろうかと思ったところ、左手がすっと軽くなる。
すると以外にも、すぐに黒い霧を抜けた。
「お……」
抜けてみると、そこには見知った風景が広がっていた。そこはちょうどこの前訪れた、村の入り口だった。
だが異様なのは村の四方がこの黒い霧で覆われていて、深夜のように真っ暗であった。
そして人の気配がまったくない。
「あれは……?」
あたりを見渡すと、あの護衛団の馬車が止まったままだった。
「ゲジカルさんもまだ村の中にいるのか?」
村の中はどうなっているんだと、俺は恐る恐る村の中に入ることにした。
――そのとき。
「ほう。この霧を抜けてくるとは、どこの所属か」
背後から声がかかり、俺は思わず全身が硬直する。
まったく気配がなくて驚いたのは当然であるが、それ以上にオーラを感じてしまったのだ。
恐ろしくも狂気が溢れるオーラを。
「どこの所属かと聞いておる」
「しょ、所属は……」
頭では理解できている。
俺はデーモンの姿であり、おそらく魔王軍の中のどこの所属なのかを問われているのだろう。厳密に言えば俺は魔王ベリシャスの執事という立場なのだが、それだけは答えてはいけないという直感。
おそらく俺の後ろにいるモンスターは、相当なレベルのモンスターに違いない。この【ブラックミスト】の使い手であろう。
「どうした? 所属が言えんのか」
背後から、声が近づいてくる。その禍々しいオーラも、俺を恐怖に陥れる。
動けなかった。
このダジュームに来て初めての経験だった。あのベリシャスに初めて会ったときも、そのオーラを感じてはいたが、今回はオーラの種類がまったく違う。
オーラの中に凶器と、殺気が込められている。
中ボスレベルのモンスターになったと調子づいていたが、この力量の差ははっきり感じてしまう。
「おい。どうしたのだ」
俺の肩に手をかけられ、無理やりに振り向かされた。
そこにいたのは、真っ白な髭の、杖をついた小柄な老人だった。
「見ん顔じゃの? ここで何をしておる?」
表情ひとつ変えず、俺に向けられた殺気だけが増す。
圧倒的な存在感、ただのモンスターではないことだけは確かだった。
俺は悟った。
この老人は、俺の命を狙うランゲラクだと。
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