シャルムが生まれたのは、魔王城だった。
その日も裏の世界の空は真っ暗で、相変わらず城内も陰気臭い空気が漂っていた。このころはまだ魔王城には多数のモンスターが常駐して玉座の間にいる魔王を守っていたのだから、余計空気は悪かっただろう。
そんな魔王城の一室。
当時の魔王ハデスがダジュームから連れ帰ってきた王妃の部屋から突如聞こえてきたのは、赤ん坊の鳴き声だった。
「ギャー! オギャ―!」
人間の出産になど立ち会ったこともないだろうサキュバスが手を震わせながら赤ん坊を取り上げた。もちろん、その赤ん坊が魔王の子どもであるということが、より一層の緊張を含んでいたのは言うまでもない。
「お、女の子です!」
サキュバスはこの日のために用意したとびきり上等な毛布に、その女の子を優しく包む。
「よかった……」
ベッドの母親は安堵のため息をついて、肩をゆっくりと落とした。その顔にはさっきまで見えた疲れは消えて、柔らかな笑みが戻っていた。
「ミラ様、お子様を」
サキュバスが王妃の名を呼び、女の子をその胸に抱かせる。
ミラが娘を両手で抱くと、すっと鳴き声がやんだ。
「フェリス、ミラ様は辞めてってずっと言ってるでしょ? ミラでいいわよ」
「いえ、でも……。ミラ様はミラ様で……」
ミラの魔王城での世話役をしているフェリスは恐縮して一歩下がった。黒い髪の間から見える角、背中の羽。フェリスはサキュバスであり、もちろんモンスターである。
魔王の妃であるミラを呼び捨てになどできようか。
たとえミラが人間であってもだ。
「あなたのほうが何百年も年上でしょ? 本当なら私がフェリスさんって呼ばなきゃいけないのよ? じゃあそうしようかしら?」
「そ、そんな滅相もありません! 魔王様に叱られます!」
フェリスは大げさなくらい、頭を下げた。こんな会話を魔王ハデスに聞かれたら。そんな恐怖で身が縮こまってしまう。
「ハデスのことなんて放っておけばいいのよ。子供が生まれるって言うのに、今も会議会議って。そんなに仕事がだいじなのかしらね?」
ミラは赤ん坊をあやしながら、ぷくっと頬を膨らませた。
フェリスは人間の表情の豊かさにはまだ慣れておらず、真顔でミラを見つめていた。
「これはあなたと私の関係なんだから。ね、フェリス?」
フェリスも魔王ハデスがこの人間のミラの尻に敷かれていることは承知していた。世話係という近い位置にいる彼女しか知り得ないことで、絶対に口外はできないと心に誓っている。
魔王が人間の女にデレているなど他のモンスターに知れたら、魔王の威厳に関わってしまう。
「では……、ミ、ミラ……?」
フェリスは恐る恐るその名前を口にしてみる。頭を下げたまま、ちらと上目遣いでミラを見る。
「それでいいのよ! これからは娘ともどもよろしくね、フェリス!」
ミラはにっこりと、こんなおどろおどろしい魔王城には似つかわしくない笑顔を見せた。
フェリスは恥ずかしくなって、顔が赤くなる。
モンスターに生まれて、魔王城で暮らすフェリスにとって、この感情を理解することはできなかった。
ミラは人間だ。人間とはモンスターの敵であるが、魔王の妃でもある。モンスターにとって人間とは忌むべき相手であり、平等でなんてあるはずがないのだ。
今もダジュームにいるモンスターたちは、人間に出会うと無境に攻撃を仕掛けているだろう。人間だってモンスターと見ればすかさず攻撃を加えてくる。
フェリスもおそらく、ダジュームにいればそうなっただろう。
だがこのミラという人間と暮らし、同等に対話をすることで、新たな気づきが芽生え始めていた。
人間とモンスターに上も下もない。それぞれ種族が違うだけ。
なのになぜ戦っているのだろうか? 何を求めて、互いを傷つけているのだろうか?
この先にあるのは、平和なのか。どちらかを排除し、多様性を否定すれば、それは成就するのだろうか。モンスターも人間も、同じ平和を手に入れることはないのだろうか?
魔王ハデスと人間のミラが一緒になったことで、何かが変わるのではないだろうか。
「顔、赤いわよ? どうしたの?」
ミラがくすりと笑って、フェリスの顔を覗き込んだ。
母親に撫でられた赤ん坊も、少し笑ったように見えて、フェリスもつられるように口元を緩めた。
このシャルムが生まれた部屋は、くしくも数百年後にケンタが泊まっていた部屋でもあった。
最初にミラがこの魔王城を訪れたときは、もっと陰惨たるものだった。壁は血がこびりついて黒くなっているし、ひび割れ放題の床はいつ崩れてもおかしくないし、天井からは生暖かい血が垂れてくる。鼻をつく香りはモンスターの体臭だと知ったのも、この部屋に来たときであった。
「こんな部屋には住めません! 今すぐリフォームしてください!」
ハデスに連れられてこの部屋に入ったミラの第一声はそれだった。
世話役として使えることになっていたフェリスも、魔王に対するその無礼な言い草に思わず感情が荒ぶったことを覚えている。
しかし魔王ハデスが「まあまあ」とミラをなだめる姿を見て、フェリスは怒りを鞘に納めた。
フェリスもサキュバスとしてこれまで何度も人間と戦ってきた。
そして魔王が人間の女を妻に迎えたという話を聞いて、胸中は複雑だった。
魔王様ともあろう方が、なぜ人間の女などと?
魔王軍内でも、表だって口には出せないものの、口さのない噂は広がった。さすがに人間に騙されることはないだろうし、何かの魔法で操られているとは考えられない。だとすると、魔王に何か考えがあるのだろう。次第に噂は収束していった。
フェリスも魔王がダジューム侵略のきっかけにこの女を利用するのではないかと、そう考えていたのだった。たとえばミラがダジュームの重要人物の娘で、それを人質にしようとしているとか……?
だが、ミラにそんな大層な身分はなく、ただの人間の女だった。
フェリスは魔王から直々に魔王城に呼ばれ、この人間の妃の世話をしてくれと頼まれたときはどう応えればよいのか迷った。
モンスターである自分が、魔王の妻とはいえ人間を世話する――。
最初に会ったミラは黒髪のロングヘアで、背は人間の女にしては高いほうだろう。白いワンピースを着て、人間らしく華奢な体で、オーラなどまったく出ていない、ひ弱な肉体を隠すかのように笑顔を繕っていた。
どうして魔王様はこんな何もない、弱いだけの人間と?
それがダジューム侵略のためだとしても、余りにもこの人間は脆い。こんな策を練らねどもダジュームの人間を滅ぼすなどたやすいと思うのだが……。
「私はミラよ。よろしくね」
ミラ、と名乗った人間はすっと右手を差し出してきた。これが握手という人間の挨拶であるということは、フェリスも何度か見たことがあって知っていた。
人間と挨拶を交わすことなど愚の骨頂と、フェリスは聞こえなかったことにしようとしたがその後ろには魔王ハデスがいた。黒い鎧をまとい、頭には兜をかぶっているので口元しか表情は読めないが、そのオーラだけは隠しきれていなかった。この裏の世界において、もっとも強大なオーラは、魔王たる威厳と実力を示している。
この人間は魔王様の妻なのだ。ここで無視しては、魔王様への忠誠にも関わってしまう。
フェリスは歯を食いしばりながら、無言でミラの右手を握った。
その手のひらは、温かかった。
「こいつはフェリスという。これからミラの世話をしてくれるので、なんでも相談すればいい。まだ魔王城のことはよくわからないだろうから……」
「じゃあフェリスと一緒にこの部屋をリフォームするわよ? いいわね?」
ミラはくるんと振り返って、ハデスを見上げる。
「ああ、好きにすればいい。必要なものがあれば、すぐに手配しよう」
ミラのお願いを受け入れる魔王。フェリスは魔王のこんな姿を見たこともなかったし、診たくもなかった。
このミラという女が、魔王のことをたぶらかしているのならば私が食い止めねばならない。魔王が人間の女の姦計にはまるわけはないと思うが、それを見極めるのが私の役目。万が一のことがあれば、私がこの人間を始末する。
フェリスはそう誓い、ミラの世話役になることを受け入れた。それは魔王のためであり、モンスターの未来のため。
「じゃあフェリス。この壁からどうにかしましょ? 何色の壁紙がいいかしらね?」
ミラはフェリスに向かって再び笑って話しかけてきた。
対するフェリスは、どう接していいかわからない。これまであった人間は、自分の前では顔を引きつらせて恐怖におびえていたのだ。人間の笑顔を真正面から見ることなど、一切なかった。
どうしてモンスターの前でそんな顔ができる?
フェリスのほうに困惑の色が見えた。
ミラは恐れていなかったのだ。それは魔王の妻という立場における驕りや余裕からではなかった。
人間もモンスターも、種族を分けて考えていなかったのだ。
ミラはミラ、魔王は魔王、そしてフェリスはフェリス。種族は関係ない。
「フェリスの意見も聞かせて? あなたは何色が好き?」
小首をかしげながら、あくまで平等な立場としてフェリスに意見を聞くミラ。
世話役となったフェリスは、このときはまだどうすればいいのか戸惑うだけだった。
そして月は流れる。
ミラが魔王城にやってきた、その一年後だった。
魔王ハデスとフェリスの間に生まれた女の子は、シャルムと名付けられた。
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