女に見つかった?
その場を離れようとしていたハデスは、その視線に金縛りにあったように動けなくなる。
人間とは関わらないようにしていたが、自分の姿を見られたことは軽率であった。
もしかしたらあの女は、スキルを使えるかもしれない。こちらがモンスターだと気づいて、攻撃をしてくる可能性だってある。
何度もダジュームに来ているハデスは、スキルを使える人間がいることは把握していた。だが人間の使うスキルなどモンスターのそれに比べて遥かに脆弱。空を飛べる人間もほとんどいないのが実際であった。
ハデスもじっとその女を見つめる。女だけが空を見上げ、ハデスの存在を認識しているのはほぼ間違いなかった。
刹那、女は口元で笑いを浮かべ、ふらっと踵を返した。浜辺から一人離れていく。
ハデスはじっとその姿を目で追う。
(……来いというのか?)
人間との接触は避けていたハデスだったが、その女の挑発的な行動に心が揺れていた。
もし、女に自分の存在がバレているのならこのまま放っておくわけにはいかない。まさか魔王がこのダジュームを単身訪れているなど知られたら、また戦火のきっかけになり得てしまう。
ハデスには父親のようにダジュームを侵略する意思はないのだ。
「私としたことが」
ハデスはクジラを助けたことを悔やんだ。やはり干渉するべきではなかった。
だが、まだ間に合う。自分の存在をダジュームから消し去るには、あの女を消してしまうことだ。
都合のいいことに、女は一人で建物の中に入っていった。まるでハデスを誘うように。
「【変化】」
ハデスは自らの姿を、人間と同じ姿に変化させた。角を消し、筋力を低下させ、体の大きさも二回りほど小さくする。服装も、これまで見てきた人間が来ていたものを模倣して作り変える。
もし本当に上空にいる姿を女に見られていたならば、この変化も意味はないのだが。
そして人気のない場所に降り立ち、女のあとを追った。
女が入ったのは、宿屋のようだった。
この港町は小さく、住民たちはまだほとんどさっきの浜辺で騒いでいるようで、町の中はほとんど人がいないようだった。
さっきの女がハデスのことをモンスターと認識していたのなら、こんな誰もいないところへ誘い出す意味がわからなかった。
(罠か? それともただ油断しているだけか……?)
このミの国の中でも辺境の地であるこの港町には、モンスターもほとんどいないようだった。今現在ダジュームにいるモンスターは、父親のダジューム侵略が失敗に終わってからも、裏の国に戻らずに居座り続ける野良モンスターばかりであった。
この女はモンスターが危険かどうかの判断もできないのだろう。それゆえの油断だとしても、空を飛ぶ未確認生命体を見つけたのなら、警戒をして当然だとは思うが。
(こちらこそ油断するべきではない。我々にとって、人間もまた未知の生物ゆえ)
人間には父親の侵略を防いだという実績もある。ハデスも人間たちのポテンシャルを舐めているわけではなかった。
ハデスは女の入った宿の扉を開けた。
ギイッときしむ音を立てながら中に入るハデス。右のこぶしにはオーラを溜めて、万が一の事態に備える。
「あれ? さっきの人?」
家の中では待ち受けるように、さっきの女がいた。人間の姿に変化したハデスをいぶかしく見つめてくる。
ハデスは緊張を高めた。モンスターの本能だ。
「お前は、誰だ?」
ハデスは扉を閉め、女に問う。
できることならば手荒な真似はしたくはない。だが返答次第で、女の存在を消さねばならない。これはダジュームのためでもある。たった一人の犠牲で住むのなら、それに越したことはない。
「やっぱり、目は一緒」
女はハデスの緊張感とは正反対の、気の抜けた声を出した。
「……目?」
「形は変わっても、目は一緒よ。変わらない」
女はそう言って、手を後ろに組んで微笑みを投げかけてくる。
ハデスが【変化】していることを見破ったのではなく、目は変わっていないと言う。
こいつ、何者だ?
「お前、私が誰だか分かるのか?」
「さっき、空に浮いてた人でしょ? 目を見れば分かるわよ」
「そういうことを言ってるのではない。私が、誰か分かるのか?」
ハデスはこの女が自分のことをモンスターだと見破っているのか、改めて尋ねた。殺意は隠していない。オーラも一段階、上げた。
「誰でもいいじゃない。あなたはあなたでしょ? 私も私。それ以上に何かある?」
そう言って、女はハデスに近づく。
そして手をすっと上げ、ハデスに触れようとした。
ハデスは反射的に身にまとったオーラを解いてしまった。生身の人間が、オーラに触れるとそれだけで切り刻まれてしまうからだ。
モンスターらしくない気遣いであった。さっきまでは殺そうと、オーラを増幅させたはずが、今はこの女が傷つかないようにしている。
「私も空を飛びたいの」
女はハデスの手を握った。
「空を……?」
「そう。でもいくら練習しても、私には才能がないみたい」
「なぜ、私が空にいることに気づいたんだ? 見えたのか?」
「だって私、空を見上げるのが癖なの。目だけはいのよ。鳥だと思ったら、あなただったからびっくりしたのよ?」
女は自分の目を指さし、もともと大きな瞳を見開いて見せた。
この女が嘘を言っているようには思えなかった。この女からはまるでオーラの欠片も感じられなかった。
ただの人間。そうとしか思えなかった。
ハデスはどうするべきか、逡巡する。モンスターだとバレていないのなら、このまま何ごともなく去るべきだ。ダジュームに無駄な干渉は御法度だ。今なら、まだ間に合う。
女の手を振りほどき、冷静な目で見下ろす。
気絶だけさせておけば、すべては夢だと思うだろう。ハデスが手を振り上げたときだった。
「ねえ。空の飛び方、教えてよ?」
女が無垢な目で、ハデスをじっと見つめていた。
ハデスは魔王という立場上、誰からも恐れられてきた。同じ目線で、誰かと話したことはなかった。モンスターたちはいつもハデスの足元に跪き、目も合わせず話すだけ。ハデスはそれを見下ろすだけだった。
ましてや人間の女に、このように物事を頼まれたことなど皆無であり、らしからぬ動揺をしてしまったことは事実だった。
「……私はモンスターだぞ?」
「そんなの関係ないじゃない。さっきも言ったでしょ? 私は私だし、あなたはあなた」
裏の世界で魔王軍のトップとして君臨するハデスに、このようなことを言う者などこれまで一人もいなかった。
もちろんかつての父も、弟のベリシャスでさえも。
「私に、空の飛び方を教えろと?」
「そうよ。あなたに教えてほしいの! だってあんなに高く飛べてたじゃない? この町じゃ、あんなに上手に飛べる人、いないもの!」
再びハデスの手を握る女。
そりゃ魔王よりも叩く飛べる人間がいたら、このダジュームの歴史がひっくり返ることだろう。
「私はミラ。あなたの名前を教えて?」
これまで魔王に名を尋ねる者はいなかった。魔王はいつだった魔王。孤独で、見上げられるだけの存在だった。
「私は、ハデスだ」
「ハデス! いい名前ね。よろしくね!」
そしてその名を呼ぶ者など、いるはずがなかった。
それ以降、ハデスがダジュームを訪れる回数が増えた。その目的はミラに空の飛び方を教えることだった。
自分と対等に接してくれる人間のミラに、ハデスは魅かれ始めていた。
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