「ケンタくんがいなくなってから、私たちはちゃんと前を向いてたんだよ? シリウスくんも、ホイップちゃんも。シャルムさんだってそうよ」
カリンは一度目を閉じ、何かを決意するように唇を噛む。
「カリン……」
眉を下げるカリンが今にも泣きだしそうで、俺も目頭が熱くなる。
カリンもシリウスも、ちゃんと夢を叶えている。アイソトープとして転生してきてから数か月のうちに、ちゃんと自分の目指したジョブに就いているのだ。
「ケンタくんはどう? ちゃんと前を向けてる?」
カリンは小さく首をかしげて、俺に聞いてくる。
「俺は……」
さっきもシャルムにも励まされたところだが、まだ決意ができていないのだ。
「ケンタくん、またどこかへ行っちゃうんでしょ? だからシャルムさんが気を利かせて、私に連絡をくれたんだよね。それくらい、わかるよ」
ポロリと、カリンの右目から一筋の涙がこぼれた。
それは丸い丸い奇麗な粒で、転がるように頬の上を流れた。
カリンは俺の右手に、軽く手を置いた。
今の俺の状況はきっと詳しくは知らないはずだ。俺が勇者とランゲラクに追われていて、明日になれば魔王城へ行くことも。
だけどいろんなことを察して、俺に前を向かせようとしているのだ。
逃げ続けてきた俺のことを――。
「俺はこれまでずっと逃げてきたんだ。半年前だってそう、みんなを巻き込みたくなかったって言うのは本当だけど、怖かったんだ。怖くて、俺は逃げたんだ」
あの日、俺は眠ることもできなかった。
いつまたあのジェイドが俺を拉致しに戻ってくるかわからない。
事務所にいることが怖ろしかった。
「ダジュームに転生してきたときからずっとそうだったよ。モンスターなんかと戦わなくていいジョブをずっと探してた。魔法なんて使いたくないし、剣も持ちたくない。訓練からも逃げて、夢や目的なんて何もなかったんだよ。カリンやシリウスみたいに、やりたいことも何もなかった。ただ、死んだように生きていた」
俺の話に、カリンは黙って頷きながら聞いてくれている。
これは俺がこのダジュームに来て、ずっと誰にも言えず、俺の心の中で閉じ込めてきたことだった。
「俺は夢を語る勇気はなかった。俺には何もできないって思い込んでいたから。現に何もできなかったし、それは俺が何もしなかったからなんだ。何もしないのが、一番楽だったから。最初から諦めていれば、失敗してもショックが少なかったから」
訓練から逃げたのもそれが原因だ。
魔法の素質がないと断言されたとき、俺はきっと立ち直れないから。
シリウスのように、何度も立ち上がることは、俺にはできないと思ったから。だから最初から諦めていた。俺なんてそんなもんだって。
「でも、俺はなぜかこんな【蘇生】っていうスキルを持っていたんだ。ただの何もできないアイソトープだと思っていた俺が、実はこんな力を持っていると知った。そのとき、俺は嬉しくなんて一切なかった。自慢とか、誇りとか、見返してやるとか、そんなことまったく思わなかった。ただ……、怖かった。こんなスキルを持ってしまったことで何かに巻き込まれるんじゃないかって、ただただ怖かった」
「ケンタくん……」
小さく、カリンがささやく。
「案の定、俺は巻き込まれたんだ。魔王軍が俺を狙ってきた。この【蘇生】スキルが必要らしいんだよ、魔王軍は。俺がいるとこのダジュームのためにならないって思ったけど、だからといって死ぬ勇気もないんだよ。これまで逃げることしかしてこなかったから、また逃げるしかできなかったんだ。情けないよな」
「情けなくなんてない……。誰だってそうだよ」
首を横に振りながらカリンは同調してくれるが、それは違う。
カリンは強い。
俺は弱い。
それは自分でもよくわかってるんだ。
逃げて逃げて、ようやく気づいた。
強く見せようとする必要はない。自分を騙す必要もない。
みんなが気づかせてくれた。
「俺にできることがあるんなら逃げずにやらなくちゃいけない。カリンが言ってくれたように、俺は前を向かなきゃいけないんだ。それが今なんだって」
さっきシャルムが言ってくれたみたいに、自分を受け入れるしかない。
俺は俺。
俺にできることをやるんだ。
ただ前を向く。
「ダジュームの平和を実現するために俺ができることをやってみようと思う。それが戦うことかもしれない。でも、俺はやってみるよ」
俺はカリンの手を握った。
これでしばらく会えないことは分かっている。
いや、もう二度と会えないかもしれない。
「そうよ。自分にできることをやれば、きっとそれが夢になるの。ケンタくんも夢に向かっていくんだよ」
うんうんと、カリンは笑ってくれた。
カリンの笑顔が俺に勇気をくれる。これまでも、これからも。
「でも、もう無茶はしちゃダメだからね。絶対に帰ってくるって約束して」
「ヤバくなったら、逃げてくるよ。逃げるのは得意だから」
「そうだよ。ケンタくんはケンタくんだからね」
俺たちは顔を合わせて、微笑んだ。
「だけど、逃げなくていいように、なんとかやってみるよ」
おそらく、これで俺の決心はついた。
明日、俺は魔王城へ行く。
ダジュームから憎しみの連鎖を絶ち、平和を迎えるために。
そのためにできることをするために。
「私たちは家族だからね。私たちの家はずっとここなんだから。だから、絶対にまたここで、みんなで会うんだよ。ここがみんなの帰る場所だから」
「ああ。逃げずに、帰ってくるよ。それまで……」
「うん。それまで、約束ね」
カリンはぴんと小指を立てる。
俺も小指を絡ませる。
約束という名のおまじない。
もう一度、みんなで会うために。
カリンも、シリウスも、ホイップも、シャルムも。
俺は絶対に家族が暮らすこの家に帰ってくる。
「約束だ。絶対に、またここに帰ってこよう」
俺とカリンは何度も絡ませた小指を振って、その約束が叶うように、おまじないを続けた。
もう大丈夫?
君が言った。
ああ、大丈夫。
俺が言った。
そして、さよなら。
君に、世界に、昨日までの日々に――。
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